日本フィルハーモニー交響楽団 第776回東京定期演奏会 | 丘山万里子
日本フィルハーモニー交響楽団 第776回東京定期演奏会
Tokyo Subscription Concert
11月28日 サントリーホール 大ホール
11/28 Suntory Hall
Reviewed by 丘山万里子(Mariko Okayama)
Photos by 山口敦
<演奏> →foreign language
日本フィルハーモニー交響楽団
指揮:山田和樹
バリトン:加耒徹
ソプラノ:熊木夕茉
合唱:東京音楽大学、ハルモニア・アンサンブル
管弦楽:日本フィルハーモニー交響楽団
コンサートマスター:田野倉雅秋
<曲目>
ドビュッシー:バレエ音楽「遊戯」
武満徹:マイ・ウェイ・オヴ・ライフ ―マイケル・ヴァイナーの追憶に―
〜〜〜
ラヴェル:ボレロ
プーランク:スターバト・マーテル
前置きが長く、かつ指揮者山田和樹中心となること、お許しいただきたい。
初めて山田和樹を聴いたのは2007年、三善晃『レクイエム』(2台ピアノ版、東京混声合唱団、新垣&中川俊郎pf@東京文化小)で。『レクイエム』の最後の音が消えてなお山田はぴくりとも動かず、ホールは深く長い沈黙が続いた。ようやく彼が首を垂れ、客席の三善がすでに不自由な体躯を起こし立ち上がる。その場のすべての人々が息を止め、音楽と人の崇高、永遠というものの感触を確かに感じていた、あれから18年。
この6月、ベルリン・フィルデビューを飾り、次期ベルリン・ドイツ交響楽団首席指揮者兼芸術監督に就任予定、一躍時の人となった彼。
私は7月にバーミンガム市交響楽団来日公演を聴き、思うところあってTV『題名のない音楽会〜山田和樹が育む未来オーケストラ』(2025.1~2)の再放送を視聴。オーディションに集まった子ら(18歳以下、動機も技量もまちまち)を全員合格(104名)とした山田が、彼らを指導する様子を見た。しょっぱな、ちょっと弾かせてから、緊張しまくりの子らを前に、「きみ、どこから来たん?」と名指しで問う。「福岡」。「おお、遠いなあ。自分の音、そこまで届けって、弾くんだよ!」(ママではないがそんな感じ)。そうやって、少年少女の誰彼に聞いてゆくのだ。空気一変、音一変。
私は心底、これは凄い、と思った。
自分の生きている場所、立っている場所から声を出せ、みんなに届けろ、と。「表現」のいわば根幹を、これほど具体的に小さな子らに実感させる、そこ。これは、どこでも、誰にでも当てはまる。即成未来子供オケであれ、ベルリン・フィルであれ。
あるいは、「どうする?」と聞いても答えは示さず、自力思考、自発を促す。指示待ちと言われる日本人の問題点を踏まえての明確な姿勢。世界を飛び回る山田が肌で感じていることに他なるまい。
バーミンガム市響での棒は徹底して室内楽的だった。ラヴェル『ラ・ヴァルス』では各セクション、ソロ楽員を抱き踊り、あるいはオケ全員を両腕にひっさらい、指揮台から15cmくらい飛び上がる。チャイコフスキー『交響曲第5番』は情緒纏綿、多少のキズはあるけど気にしない。オーケストラが塊ではなく個々人の歌い交わしになる。第3楽章に入る前に指揮台を降り、後部、管セクションへと歩み、団員のペットボトルから紙コップで水分補給、足りずもう一杯と飲み干し、客席の笑いをとって悠然と持ち場に戻る。親密自然体の愛されキャラ全開だ。アンコール『威風堂々』は大きなスレイベルを振りかざし、客席に向かい手拍子を要求、サントリーホールはステージも客も全員参加の「大演奏会」、大興奮となった。
この全方位サービス精神、日フィル公演2週間ほど前の東京混声合唱団「水戸博之常任指揮者就任披露演奏会」(11/16@杉並公会堂)でも発揮、信長貴富新作委嘱初演『Sumo Fantasia』で、水戸との指揮相撲対決を演じ(ピアノも鳴らし)会場を沸かせた(ライブ配信視聴)。
そういう人が振る、ホームグラウンドとも言える日フィル。
フレンチ・プログラムと銘打っての、最初のドビュッシー。バレエ音楽『遊戯』はドビュッシー最晩年作、テニスに興じる男女の三角関係(男1女2)を描くもの。ゆえ、シーンはコロコロ変化、ドビュッシー管弦楽法の精緻が味わえ、アンニュイなお遊び気分も楽しめるらしいが、私はどうも管に耳がゆく。そこに音楽の句読点やアクセントを感じるからだが、響きの輪郭が今ひとつで、織地の繊細テクスチュア、微妙な色合い、言うところの「エスプリ」が浮き上がってこない。いや、フランスに暮らしたこともなく、話せも読めもしない私に(せいぜい大学での原書講読)、フレンチグルメの味などわかるわけがない。作品の魅力も不分明なまま、なるほど20世紀前衛の前触れだな、くらいで終わってしまった。
が、続く武満で、そういうことか、と頷いたのである。
「マイケル・ヴァイナーの追憶に」の副題をもつ武満作品は、初演前年に亡くなった友人へのもの。作詩:田村隆一、英訳:高橋康也でタイトル邦訳は「私の生活作法」。山田はプレトークで本作についてちらっと「未完のオペラはこんな感じだったのでは」と言っていたが、武満はこの2年後に少女の語り(英語or日本語)とオケによる『系図』(1992)を書いており、イメージはあったろう。オペラへの関心(台本選択)はすでに60年代、石川淳『鷹』から『紫苑物語』へ、さらに大江健三郎を経て紆余曲折ののち、バリー・ギフォード(米)台本『マドルガーダ』(野平一郎完成)に至るが、すでに病に臥した武満は1音も書かずに終わったという。
「ごく素直に自分のうたを親しい友たちの前でうたうような気持ち」で書いた本作の佇まいには、確かに彼が思い描くオペラの一端が見え隠れするようだった。ここではその佇まいを、日フィルが自然な息遣いで「我がもの」としていることがはっきりと伝わってくる。
森の小道に誘うようなオケの導入、バリトンの穏やかなソロののち、合唱がうたう。
「I like a tree because it is mute.」
木への眼差しの静やかで優しいこと。木、小鳥、花、うつろう自然を淡い色彩でなぞってゆくに、英語は確かに自然に響く。これが日本語なら意味を探ろうが、音と声(言葉でなく)の流れをただそのまま追うに任せる、そういう武満の「うた作法」(武満自身は英語の扱いに苦労したそうだが)に、柔らかく沿ってゆく独唱、合唱、オケ。みんなが(リーズ初演)、心に微風を受けるみたい。「木」への眼差しは、ひとそれぞれの眼に分かたれても、分断はしない、そんな境目のなさが感じられるからだろう。独唱と合唱は交互に語らうが、対話(対面)というより、同じ位置、此処に並んでみんなで木を眺め、互いに互いを出たり入ったりし合うような空気感。自分語りであるようで、そうではないようで。その、なだらかな呼吸としなやかな旋律線の交感が心地よい。
私は独唱の以下の部分になんとなくジンとした。
「”It is not time that passes on.
But ourselves. We pass on”.
So
I once wrote.
I have seen many pass on.
I too
Will pass on some day.」
そうして最後、独唱と合唱が声を合わせる。
「”Time” is all they have witnessed.」
しんみりとうつくしく、響きが消えても場内は静けさに満ちた。
それは私たちにとても馴染む「うた作法」で、演奏もまたそれをそのまま響き、声にしていたから、武満の友への「気持ち」とともに、それぞれがそれぞれの追憶を胸に、そっと手を合わせるような気持ちになったのだと思う。
この一人一人の「一緒」感は何だろう。
私は『遊戯』での男女が「それぞれの喋り」(僕、きみ、きみ)で互いをからかったりするさまを想像し、それがちょうどページをめくるような変化であるのに対し、この「うた作法」が途切れない巻物に主語主体(私、あなた、木といった)が判然とせぬまま記されてゆく手紙のように思い、そういうことか、とひとり合点したのである。
個と全体のありようの異なり、と言ったらいいか。
「作法」とは実に見事な言葉ではないか。『遊戯』がドビュッシーの作法なら本作は武満の作法。
だけど、人間の「生活」はある意味、同じだよね。そんな山田の声が聴こえる気がした。
休憩後のラヴェルが、まさに個が全体へと膨れ上がってゆく響きの「動態・生態」で、それがどんな快感興奮をもたらしたかは言わずもがな。山田の煽りのほとんど漫画チックなオーバーアクションにはつい笑ってしまったが、最後、頂点へと昇りつめるに及んで何としたことか「エイサー!」の掛け声みたいな怒涛の人声(日フィルの地声と言ってしまおう)が聴こえてきて、天をど突くごとき絶頂から全員が雪崩れ落ちた時には、自分も腑抜けのように座席にへたばったのであった。
いったんクールダウンののち、これに続いた『スターバト・マーテル』。
全12曲、悲しみの聖母は、十字架の我が子のもとで嘆き苦悶する。その悲嘆苦悩に、「私も共に嘆かせてください」と歌う合唱、聖母(Sop)。清澄かつ荘厳な合唱、凛とした独唱美声の描く聖なる物語。といっても各タブローの連なりには、打の衝撃が入ったり、明るい光が差し込んだり、ちょっと諧謔味があったりと変化に富み、そこに私は『遊戯』のコロコロ変化、ページめくりを思い出したのであった。前者は俗、後者は聖であるものの。
私はエルサレムのVia Dolorosaの道すがら、信者が背負えるように十字架があちこち立てかけられているのに、信仰というものの力を痛感したし、スペインのモンセラットの黒マリアが持つ玉(イエスだとか)が撫でられてさらに黒ずんでいるのに、仏像や地蔵と同じだな、と思ったが、いずれにせよここには語られるべき宗教物語がある。プーランクは一時その篤い信仰心から離れたものの(本作の背景にはロカマドゥールの黒マリアが居る)。
そして思った。
「私も共に」や「私に分かち合わせてください」の呼びかけは、分断された「個」が「神」を通して一つの「全体」へと抱擁包摂される、近代宗教とは壮大な虚像によるエクスタシー装置だな、と。いや、それほどに人を「個立・孤立」させる「風土」(砂漠の宗教)というもの、そこに生まれた近代思想というもの(ドビュッシーもラヴェルもプーランクもそこに居るわけで)、さらにその最末端現代に息絶え絶えに生息する私たち自身(武満もそこに居るわけで)について、改めて思いを巡らせたのである。
―――最後の「Amen」の響きが消えるか消えないかのうち、宙を見上げ静止する山田に歓声一声が飛びかかった。
あ!一瞬たじろぐに見えた山田。
あるべき沈黙としての武満のそれと、プーランクのそれの「受け止め」の異なりが、その一瞬にかすめたようだった。

話がずいぶん遠くに来てしまった。
フレンチ・プログラムがどうフレンチだったかは私の手にあまる。でも。
私は『ボレロ』の人類普遍爆燃エクスタシーに日フィル満腔の「エイサー!」が聴こえてしまったし、フランスと日本の「生活作法」、さらには宗教、さらには私たちの居るところ…。
日フィルHPのインタビューの最後で、山田が「われわれはどこから来て、どこへ行くのか?」と言っているのを見つけた。誰彼なく発される「君の居るそこから、あっちのみんなへ!」の底にはこの問いが横たわり、同時に個別を全体化、全体を個別化する両ベクトルの相互作用が示されている。カトリック教義由来のゴーギャンのこの絵のタイトルにはもう一つ、「われわれは何者か」の問いがある。
18年前の『レクイエム』。その場の全ての人々に満ちた敬虔な光のようなもの。山田はそれをずっと胸に抱き、光のようなものの何たるかを、演奏を通して問い続けているのではないか。全方位サービスという人間「作法」も含め。
山田が今、世界に「必要」とされている意味は、何よりそこにあるように思う。
(2025/12/15)
関連評:日本フィルハーモニー交響楽団 第776回東京定期演奏会|秋元陽平
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<Player>
Conductor: YAMADA Kazuki
Baritone: KAKU Toru
Soprano: KUMAKI Yuma
Chorus: Tokyo College of Music
<Program>
Claude DEBUSSY : Jeux, poème dansé
TAKEMITSU Toru : My Way of Life -In Memory of Michael Vyner-
Maurice RAVEL : Boléro
Francis POULENC : Stabat Mater, pour soprano solo, chœur mixte et orchestre


