小人閑居為不善日記|スカーレットの醒めない夢──《果てしなきスカーレット》|noirse
スカーレットの醒めない夢──《果てしなきスカーレット》
Scarlet’s Never-Ending Dream
Text by noirse : Guest
《果てしなきスカーレット》、《サマーウォーズ》、《バケモノの子》の内容について触れています
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虚無。アニメ監督・細田守の最新作《果てしなきスカーレット》に対してネット上で巻き起こった批判の過程でバズワードとなった言葉だ。細田は新作公開のたびに動員を増やしてきたが、いつしか細田とその作品をおもしろおかしく嘲笑しポスト数を稼ぐことが通例となっている。そうした態度には賛同できないが、けれども虚無という言葉は、ある意味でこの作品にふさわしい称号でもある。
舞台は中世デンマーク。アムレットは民衆に慕われ、娘のスカーレットにも尊敬される優しい王だった。けれども弟のクローディアスの陰謀により、国家反逆罪で処刑されてしまう。スカーレットは復讐を誓うが、クローディアスに毒を盛られ昏睡。気付くとそこは「死者の国」という荒野だった。死者の国にはクローディアスもいて、荒野の先にあるという「見果てぬ場所」を目指しているという。
死者の国で命を落とすと「虚無」になってしまうというのが今回のミームのもとになっている。一読の通り本作は《ハムレット》の本歌取りだが、王子ハムレットはしばしばニヒリズムの先駆とされていて、細田もそれを踏まえて虚無という言葉を採用したのだろう。テリー・イーグルトンは《シェイクスピア──言語・欲望・貨幣》でこのように述べる。
ハムレットには存在の「本質」といえるものはないし、隔離し、保護すべき聖なる場所などどこにもない。彼はただひたすら遅延し拡散するだけの空虚な存在、知られるべき確定的ななにかをまったく示さない、まさに真空である。
《ハムレット》は登場人物のほとんどが無残な死を遂げるという虚しい結末を迎えるが、《果てしなきスカーレット》ではそうならない。ふとしたことで、聖という男がスカーレットの旅に同行することになる。聖は現代日本の看護師で、復讐に取り憑かれたスカーレットに別の生きかたもできると諭す。当初は鬱陶しく思っていたスカーレットも、そのうち聖が所属していた世界、渋谷に生きる自分を夢に見るようになる。
スカーレットはついにクローディアスを追い詰めるが、とどめを刺すことができず、復讐を放棄する。すると彼女はまだ生きていたことが分かり、目を覚ます。昏睡していたあいだにクローディアスは毒死しており、彼女は王位に就き、平和な国とすることを国民に約束する。
《ハムレット》と真逆の結末となったのは、細田によれば世界中で起きている戦争への思いを込めたということなのだが、作劇上の説得力に欠けるなどの理由で「虚無」という批判を呼び込んでしまう結果となった。だがあえて字義通り受け取ると、本作を虚無と呼ぶのは本来おかしい。結局すべてが無に帰してまうからこそ「虚無」なのであって、ハッピーエンドでは虚無とは言えない。
けれども虚無という言葉は、やはり間違っていないのだろう。何故ならば細田守という監督の作品の中心には果てしない「虚無」、イーグルトンの言う「真空」が広がっているからだ。
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細田守は《劇場版デジモンアドベンチャー ぼくらのウォーゲーム!》(2000)においてサイバースペースを巧みに取り込んだ手腕で注目され、その後の《時をかける少女》(2006)の成功で全国で知られるようになった。だが以降、作風に変化が訪れる。それまでは少年少女の繊細な感情の機微を表現する作品が多かったが、《サマーウォーズ》(2009)以後は家族の絆や女性主人公の母性の拡張にフォーカスが当てられ、その主題を反復するようになる。
しかし《果てしなきスカーレット》は違った。スカーレットは、父親とは仲睦まじい関係を築いていたものの、母親は娘を厭い、叔父は兄や姪を暗殺しようとする始末で、今回の細田はそれまで肯定的だった家族や母性に疑いの目を向けている。
また細田作品にはクジラや桃など、好んで登場させていたイメージがいくつかある。中でもトレードマークだったのが青空と入道雲だ。ところがこれらも今回は身を潜めている。特に青空と入道雲は細田作品の重要な主題である「成長」を端的に表していたため、その欠落は大きい。たとえば《時をかける少女》の最後に現れる初夏の見果てぬ青空と入道雲は無限に広がる未来を象徴していたし、同時に細田守という才能が宿す可能性への期待を煽るものでもあった。
その後の細田作品でも青空と入道雲は必ず登場した。けれども毎回反復されるとあまりにくどく、マンネリズムと言ったほうが正しいように感じられた。いや、むしろここまでこだわるということは、このイメージは細田守にまとわりつく呪縛と見たほうがいいのではないか。
では細田を縛る青空のイメージの根源はいったい何なのだろう。《サマーウォーズ》(2009)中盤、女当主・栄が息を引き取った翌朝、屋敷の縁側の向こうに青空と入道雲を望む印象的なシーンがある。この場面を見ていると、決まってこの一節を思い出す。
左方の一角に古い車井戸が見え、又、見るからに日に熱して、腰かければ肌を灼きそうな青緑の陶の榻が、芝生の中程に据えられている。そして裏山の頂きの青空には、夏雲がまばゆい肩を聳やかしている。
これと云って奇巧のない、閑雅な、明るくひらいた御庭である。数珠を繰るような蝉の声がここを領している。
そのほかには何一つ音とてなく、寂寞を極めている。この庭には何もない。記憶もなければ何もないところへ、自分は来てしまったと本多は思った。
庭は夏の日ざかりの日を浴びてしんとしている。
三島由紀夫の遺作《豊饒の海》第四部〈天人五衰〉の、あまりにも有名な結びだ。この虚無的な情景は、多くの識者によって終戦の日の青空だと指摘されている。三島は天皇の人間宣言に絶望し、戦後日本に希望を見出すことができず、《豊饒の海》執筆後に衝撃的な自死を遂げた。三島に限らず、この日の青空が当時の軍国少年に与えた虚無感は、数多くの小説や文章に記されている。
一旦《バケモノの子》(2015)に迂回しよう。主人公・九太の義理の父親とも言える熊徹は、九太の危機に際して刀の付喪神に転生して、彼と一体化することで窮地を救う。九太が思い出す熊徹の姿の向こうには青空と入道雲が広がるが、そこは現代日本ではなく、渋天街という「異世界」だ。
《果てしなきスカーレット》でも失われず存続した細田作品の特徴的な要素のひとつに、同作では「死者の国」と呼ばれる「異世界空間」がある。過去作では《ぼくらのウォーゲーム!》でのサイバースペース、《サマーウォーズ》の「OZ」、《竜とそばかすの姫》(2021)での「U」、《未来のミライ》(2018)で別世界と接続する家の中庭、そして《バケモノの子》では獣人たちが棲む渋天街がそれに当たる。
これらの異世界は何に起因するのか。映画監督で評論家でもある樋口尚文との対談で「異世界のオリジン」について問われた細田は、「もしかすると大江健三郎というのは根っこにあるかも知れ」ないと打ち明けている(《細田守とスタジオ地図の10年》)。大江の「現実世界と神話世界がごちゃっと併存している感じ」は「好み」だったと言うのだが、理由はそれだけではないのではないか。何故なら大江も、終戦以降の日本を再編成するためにすべてを賭けた作家だからだ。
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大江は中期以降、故郷である四国の村や森に神話的スケールの物語を投入し、小宇宙を形成していった。それに関しては多くの研究があるが、文学研究者の菊間晴子は《犠牲の森で:大江健三郎の死生観》で、《同時代ゲーム》における「村」と「動物」というモチーフを結びつけ、こう論じる。
つまり、メキシコでの「僕」の経験、そしてその経験から「僕」が想起し書き記す「村=国家=小字宙の神話と歴史」とは、動物のイメージを介して結びついていると考えられる。メキシコにおいて動物に接近し、自らも動物化する「僕」は、権力によって虐げられた人々──特に被征服民であるインディオや混血の人々──へとまなざしを向ける。またそこからの連想として、「村=国家=小宇宙」で、権カの犠牲になって傷つき死んでいった人々にまつわる記憶を辿っていくこととなる。
細田作品でも動物や獣、もしくは獣人というモチーフが登場する。《おおかみこどもの雨と雪》(2012)では狼男。《未来のミライ》ではイヌがヒトになり、逆にヒトがイヌにもなる。《バケモノの子》で渋天街に棲むのはみな獣人だ。キャリア初期に手掛けた《デジタルモンスター》も、デジタル時代の「獣」と言えるだろう。《サマーウォーズ》や《竜とそばかすの姫》でのアバターの姿も獣人のバリエーションかもしれない。
そして細田作品において、獣や獣人はしばしば犠牲行為と結びつく。前述した熊徹や、《おおかみこどもの雨と雪》で妻子のための狩りで命を落とす夫。こうして細田作品の主人公たちは獣人の姿を通して、大江作品をなぞるように「傷つき死んでいった人々にまつわる記憶を辿っていく」ことになる。しかし細田はどうして「犠牲」にこだわるのか。その答えを求める前に、一旦細田作品を、今度は表現面から検討していきたい。
細田作品の方法上での特徴に、影なし作画や同一ポジションでの反復演出がある。特に影なし作画は画面を明るくフラットに表現して、一見して細田作品とわかるキャッチーな技法となった。細田はこれらを日本画から学んだと言い、「アニメーション映画は映画の中の一分野じゃなくて、絵画の歴史の中の一分野」だと述べる(細田守《ミライをひらく創作のひみつ》)。
こうした美術への理解と前述したデジタルイメージへの興味と親和性は、美術家・村上隆とのコラボレーション《SUPERFLAT MONOGRAM》(2003)へと結実する。村上の、日本画とマンガやアニメを平面性という相似点から連続的に捉えるスーパーフラットという概念は、細田の創作理念と共振する。そしてこの作品もまたフラットで、どこまでも広がるホワイトキューブの中にいるような「明るい」画面をもたらしていた。けれどもこの「明るさ」は、細田作品のある側面を覆い隠すものでもあった。
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映画史研究家で批評家の渡邉大輔は著書《明るい部屋、暗い部屋》で、21世紀の映画を「明るい画面」と「暗い画面」に分類していく。大雑把にまとめれば「暗い画面」の映画とは「一種の正統的な系譜」であるのに対し、「明るい画面」の映画は「ポストシネマ的な可能性を目指している」。この場合のポストシネマとは、デジタル時代の映画と言い換えていい。そして渡邉は細田の名前を挙げ、このようにまとめる。
初期作の『時をかける少女』や『サマーウォーズ』で描かれたタイムリープの時空やネット空間の画面は、白い余白の多い「明るさ」が占めていたが、最新作『竜とそばかすの姫』のネット空間はきらびやかな「明るさ」をまといつつも、その余白をびっしりと埋めるように膨大なイメージが高解像度に敷き詰められている。それら解像度の極限にまで上がったデジタル映像は、まさにぼくたち人間=観客にとって「情報量の過剰」(認知限界)を起こすがゆえに、逆説的にも「何が何を意味している」という「明るい」「見えやすさ」から遠ざかっていくというわけだ。つまりこれが、「明るい画面の暗さ」「見えにくさ」とでもいうべきものである。
「明るすぎる」がゆえに「暗くなる」。一見矛盾しているようだが、これが指し示すものはいったい何か。美術批評家・椹木野衣は著書《日本・現代・美術》で、高橋由ーが「暗い」画面を描くことで「『近代』人の宿命的な『暗さ』と、そこから派生する目的を欠いた『暮らし』を」発見し、それにより「日本に『近代絵画』が生まれ」て、「日本の洋画は、戦争画においてその最高点に到達するまで、『くらさ』を描きつづけた」と述べる。けれども「雄大な眺望」を描こうとする戦争画は例外的に「あかるく」なる。そしてその「『あかるさ』が、反対にそれまでの『日本の洋画』の足取りの『くらさ』を覆い隠して」いくと言うのである。
それは、なんの根拠もない空の高さに畏怖して思わずシャッターを切ったり、画題に堂々と鮭や焼き豆腐を据えてしまうような無意味な行為を回避し、そのかわりにそこに「雄大な眺望」や「壮烈な歴史的場面」をもたらす。そしてそれらの崇高さにおいて、目前のだらしなく、なさけない現実の「くらし」が消去される。ここにあるものの現実は、彼方にあるものの意義によって断罪され、悔い改められなければならない。兵隊さんが南の島でこんな熾烈な闘いを繰り広げているのに、いったいだれが無為に日々を「くらし」ていられようか、というふうに。
(……)
だから、戦争が終わった後に、瓦礫の山とともに自由が訪れたのではない。もともと瓦礫の山しかない自由の徒刑に処せられた近代という無間地獄の一角に、「聖戦美術」としての「大東亜戦争記録画」が、近代国家という、これまた仮想の権力の行使によって、「夢」のように囲い込まれていたのだといったほうがよいのではないか。
ゆえに現代人は「あの8月15日の太陽の空虚を、何度でも反芻するほかない」のであって、「したがってあの空虚は、戦後の出発点などではな」く、「『戦後』というフィクション」として「その妙に『あかるい』足取りを開始した」のだという。
椹木はこのような「閉ざされた円環」を「悪い場所」と称した。その上で、村上隆について「いまや日本のオリジナリティを代表するといっても過言ではないオタク文化」は「戦後日本のアメリカによる『植民地化』を土壌に生まれたものであり」、それは「『現代美術』もなんら変わることが」なく、そうした「美術作品とオタク製品との相同性を」提示したと評価した。
こうした諸要素は、欧米由来のアニメーション表現を用いて「8月15日の太陽の空虚を、何度でも反芻する」作品を制作し続け、それにより海外でも高く評価され「日本のオリジナリティを代表」する存在になった細田に関しても同じように言える。けれども細田は、村上のようには、こうした戦後の問題を対象化しようとはしない。
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細田守が最も優先させてきた主題は、家族でも犠牲でもなく、成長だ。細田映画において少年少女以外の成人を主人公にしたことはほとんど──《おおかみこどもの雨と雪》で、大学生だった花が母親に「成長」したくらいしか──ない。
けれども、「閉ざされた円環」の中では真の成長は望めない。そこで初めて、家族や犠牲という要素が必要とされる。「家族」の犠牲──《ONE PIECE THE MOVIE オマツリ男爵と秘密の島》(2005)での家族同様の仲間たち、《サマーウォーズ》の栄の死、《おおかみこどもの雨と雪》の父親の死と花の献身的犠牲、《バケモノの子》の熊徹の転生──によって、主人公は「閉ざされた円環」から脱し、「成長」する。
ではその「犠牲」の根幹とは何か。それは、《未来のミライ》(2018)の曽祖父が戦争で怪我をしたことが主人公の家族の源流となることを見ても分かる通り、戦争で死んでいった人たちがいたからこそ我々が今ここにいるのだという価値観だろう。それゆえに細田作品ではしばしば戦争が裏テーマとなる。たとえば《ぼくらのウォーゲーム!》は細田自身が述べる通り冷戦下の核戦争を扱った《ウォー・ゲーム》(1983)を参照元としており(《細田守とスタジオ地図の10年》)、《サマーウォーズ》はその発展だ。
その点でさらに重要なのは《時をかける少女》だ。未来からタイムリープしてきた千昭が目的とした日本画は、「何百年も前の大戦争と飢饉の時代」、「世界が終わろうとしていたとき」に描かれたもので、彼が同じような環境からやってきたことを示唆する。主人公の真琴は彼と再会の約束を交わすことで「成長」するのだが、未来人と言っても要は千昭は死者、戦争の犠牲者なのだろう。細田が影なし作画にこだわってきたのも、彼の描く人物が本質的に「霊」だからなのかもしれない。
このように細田作品において日本画と日本のアニメーションが同じ美術史上の歴史軸にあることと現代人が戦争の犠牲者の礎の上にあることは技法上でも主題上でもシンクロしており、「青空と入道雲」という「絵」、すなわち「閉ざされた円環」の中にある。そしてそこから抜け出して「成長」するには新たな犠牲が必要になる。
《果てしなきスカーレット》に戻ろう。それでは本作では誰が犠牲になったのか。そして細田作品の様々な特徴が放棄されたのは何故なのか。
フロイトは《ハムレット》を、クローディアスを通して描かれた父殺しだったと指摘している。細田作品では、《おおかみこどもの雨と雪》の雨と雪や《バケモノの子》の九太と一郎彦など、二人の人物がワンセットになることが散見される。これは人間の二面性を指し示しており、《果てしなきスカーレット》ではアムレットとクローディアスの兄弟がそれに当たる。つまりここで起きているのはスカーレットによる父殺しであって、父の犠牲によって彼女は死者の国という「閉ざされた円環」から抜け出し、デンマークの王として「成長」することに成功したという事態なのだ。
こうして民衆の前に立ったスカーレットの姿を疑問視する声も多い。確かに城下町を埋め尽くす国民全員がスカーレットを賛美し快く迎え入れようとする光景は不気味にも映る。こうしたことは今に始まった話ではなく、《サマーウォーズ》や《バケモノの子》のエピローグでの群衆が──栄や熊徹が「犠牲」になったにもかかわらず──一貫して祝祭ムードにあることや、《竜とそばかすの姫》ですずが素顔を晒して歌い出すのを聞いて、見渡す限りの聴衆が一律同じように感動に浸るというように、細田作品では民衆は必ず単純化される。
また《竜とそばかすの姫》の前半が「バズること」、後半が「炎上すること」で展開するという点や、《ぼくらのウォーゲーム!》や《サマーウォーズ》で世界中の人々が戦闘のツール──前者では送信メールが武器として転用され、後者ではアカウントが花札のチップとなる──となったように、細田は不特定多数の人間をデジタル的に、大まかに捉える傾向が強い。
これこそ渡邉が指摘した、情報量の過剰さゆえに「明るさ」や「見えやすさ」から遠ざかり、「明るい画面の暗さ」、「見えにくさ」をもたらすという局面だろう。そして王女を讃える群衆は、椹木が論じたように現実の「くらし」が「近代国家という仮想の権力」によって「夢のように囲い込まれていく」さまを表していると言えよう。
群衆の次にスカーレット自体を再検討しよう。《ハムレット》を解釈した作品の中に、「小説の魔術師」久生十蘭による短編小説〈ハムレット〉(1946)がある。ハムレット役者の小松という青年が上演中の事故で記憶を失い、自らをハムレットと思い込んだまま戦後まで生き延びるという話なのだが、何人もの識者がこの作品を天皇のことだと指摘している。
大江作品について再度振り返ろう。菊間は《犠牲の森》で、犠牲になった動物「犠牲獣」の亡霊の総体として現れる超越的存在について分析を進める。超越的存在とは「幼年時代に触れた戦中の超国家主義的イデオロギー」により、大江の「その後の生にも少なからず影響を与え」てきた存在、すなわち〈セヴンティーン〉や〈政治少年死す〉における「純粋天皇」の変奏だ。かつて《豊饒の海》と三島の死を「あまりにも「閉じた」ものとして終った」と記した大江は(《最後の小説》)、超越的存在として天皇を再構成しようと試みた。その儀式に必要だったのが動物という姿で表現された「犠牲者」だ。
細田のフィルモグラフィも同じ地点に結実していく。《果てしなきスカーレット》において青空と入道雲が召喚されないのは、スカーレットが父殺しに成功し、即位に成功してしまったからだ。「女帝」が誕生し、その前にすべての国民がひれ伏す今、「閉ざされた円環」は決定的に打破され、三島をも絶望させた8月15日の青空という「呪縛」から解放されたのだと。
このような光景を、イーグルトンの意図とはまた違った意味で「ただひたすら空虚」だと受け取るのは、確かに正しいのかもしれない。けれどもわたしは細田を、卓抜した批評的センスを備えた村上隆のような作家とは違い、直感的なタイプの表現者だと思っている。要するに《果てしなきスカーレット》が指し示す光景はけして細田の願望なのではなく、そのように進行しつつある世界の動向を敏感に察知し、写し取ったものではないかと感じるのだ。文学研究者の芦津かおりは、久生十蘭の〈ハムレット〉についてこう論じる(《股倉からみる『ハムレット』》)。
昭和天皇の戦争責任については議論の絶えないところではあるが、少なくとも天皇擁護者は、戦時中の昭和天皇が、軍部の操り人形として、自分の意思もアイデンティティも隠して「現人神」としての演技を強いられ、仮の人生を生きていたのだと信じている。そんな戦時下の天皇の演劇的人生は、小説における小松の生きざま──つまり阪井の操り人形として、沈黙と演技を強いられ「ハムレット」として虚構の人生を生きた姿とだぶって見えてくるわけだ。
そもそもシェイクスピアもハムレットを劇中で何度も狂人扱いしていた。同じように細田も、スカーレットの正体を「クローディアスの打倒に成功したハムレット」と信じ込んだ狂人だとする可能性を残していると思うのだ。
どういうことか。スカーレットは本当は現代の渋谷に生きる平凡な女の子であって、父殺しに取り憑かれた姫という悪夢を見ているだけなのではないか。その場合彼女はまだ「閉ざされた円環」の中にいるわけだが、盲信的な国民に支持される女帝の君臨を褒め称えるための復讐劇に比べれば、まだ救いがある。何故なら、彼女が目覚める余地はまだ残されているのだから。
(2025/12/15)
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noirse
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