シンフォニエッタ静岡第81回定期公演 創立20周年シリーズ③ オール・クセナキス・プログラム|齋藤俊夫
シンフォニエッタ静岡第81回定期公演 創立20周年シリーズ③ オール・クセナキス・プログラム
2025年10月10日 三鷹市芸術文化センター 風のホール
2025/10/10 Mitaka City Arts Center Wind Hall
Reviewed by 齋藤俊夫(Toshio Saito)
写真提供:シンフォニエッタ静岡
<演奏>
指揮:中原朋哉
メゾソプラノ:鳥木弥生、松浦麗
フルート:梶原一紘 オーボエ:植田明美、梅枝理恵 クラリネット:中里真也、中島香織
バソン:小山清 ホルン:月原義行、上杉幸代 トランペット:与田泰幸
トロンボーン:加藤直明、野村美樹 テューバ:置塩孝裕
ティンパニ・打楽器:梅津千恵子、加藤恭子
ヴァイオリン:嶋村由美子、中村響子 ヴィオラ:小澤恵
チェロ:佐藤遥香 コントラバス:石川智崇
ステージマネージャー:九谷敏裕、萩庭光
<曲目・楽器編成>
(すべてイアニス・クセナキス作曲)
『アトレ Atrées』
フルート、クラリネット、バス・クラリネット、ホルン、トランペット、トロンボーン、打楽器3人、ヴァイオリン、チェロ
『ネシマ N’Shima』
2ホルン、2トロンボーン、2メゾソプラノ、チェロ
『エペイ Epéï』
コール・アングレ、クラリネット、トランペット、2トロンボーン、コントラバス
『ワールグ Waarg』
フルート(ピッコロ持ち替え)、オーボエ、クラリネット、ファゴット(今回はバソン)、ホルン、トランペット、トロンボーン、テューバ、2ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、コントラバス
真の自然美は、自然対象を自然的に見た美でなければならない。自然を自然的に、すなわちありのままに見るということは、自然に向かいつつわれわれの意志を沈黙させること、自然をむしろわれわれを包む巨大なものとして受け容れることである。1)
(アドルノの美学思想において)「芸術は自然が約束したことを果たそうとする」ものであるが、自然主義の芸術のように、自然の外観を模写することは、自然を素材として処理することにすぎない。「芸術が模倣するのは自然でもなければ個々の自然美でもない、自然美そのものである」。(中略)芸術の表現がこの自然美を捉えて純粋なものとなるならば、それは「自然の声へと声調を変える」。2)
佐々木健一によればアドルノが「自然の声へと声調を変え」た典型と見たのはヴェーベルンの音楽だそうだが、筆者にとって「真の自然美」、「われわれを包む巨大なもの」を音楽を通して現出せしめたのはクセナキス以外に存在しない。それは『ノモス・ガンマ』のような壮大なオーケストラ作品のみならず、今回のような規模の小さな室内楽作品群でも同じである。
『アトレ』、「クセナキスグリッサンド」と筆者が勝手に名付けた、出世作『メタスタシス』から彼の音楽を特徴づける「あのグリッサンド」で始まる第I曲からして人間離れした「自然」的音楽世界が開花する。トロンボーン、ホルン、トランペットのロングトーンが音そのものの美しさ、存在感を持って立ち現れ、やがて複雑化して多楽器が木霊を投げ返し合う第II曲、ランダムのようでそうでないロゴスを体感させる謎の運動を見せる第III曲、騒がしく、怒涛の論理的カオスで始まるも、その序盤の勢いはどこに行った?という叙情性を抱いて終わる第IV曲、ホルンのフラッターツンゲ、テナードラムの連打、さらにトロンボーンの割れんばかりの強音と微かな弱音が行ったり来たりし、ウッドブロックが人骨を思わせる乾いた音を送り届け、これで終わりともこれから何かが始まるともわからぬ不可思議な楽想で全V曲の終わりを迎える。今回の演奏会最初の本作からして、クセナキスでしかあり得ない茫漠たる「真の自然美」を現出しているではないか!
ミュートを入れたホルンに始まり、2人の女声がずっと痙攣したヴォカリーズを続ける、自由なのかがんじがらめなのかわからないが、とにかく過酷であること「自然」のごとき『ネシマ』。トロンボーンのフニャフニャとした軟体的な音に妙に癒やされたりもするのだが、女声2人の人間技ではない不穏な動きに終始心がざわつかせられる。女声2人のうねりくねる「Aaaaaaaa……Aaaaaaa……」にチェロが高音で絡みつき、巻き舌の「Rrrrrrrr……Rrrrrrrr……」で遠ざかり、チェロのクセナキスグリッサンドが何処ともなく消えていく。風が吹きすさび、沈黙を残して去っていくように。
『エペイ』、トランペットの3音セット音型の反復に周りの楽器群がおどろおどろしく不協和音の波を纏わりつかせる。コントラバスの低音が伸びをするような長音を奏で、時空間が歪む。ゲネラルパウゼから各楽器が遠吠えを奏で、またもやクセナキスならではの論理的カオス合奏が始まり、液体金属に浸るような冷たく軟らかい感触を味わい、さらに高揚していく音響の運動と静止の矛盾的合体に人のことなど与り知らぬ「自然」の冷酷さを感じる。なのに最後にはクラリネットの最高音域にリードされてのトゥッティからの全員でのトリル、そして協和音の長音で完結する。ここにクセナキス、あるいは「自然」の優しさもまた感じずにはいられない。
最後に演奏されたクセナキス晩年の作品『ワールグ』、フルート、クラリネット、オーボエ、ホルン、といったふうに楽器が順繰りに長音に加わっていき、クセナキスグリッサンドを、しかし『メタスタシス』のようには過激には奏でず、柔らかい曲線で描く様に「クセナキスらしからぬ」安らぎを感じる。全員一丸となっての上行・下行音階の反復もまた『メタスタシス』を偲ばせ、さらにそのブロック構造は『アホリプシス』をも想起させる。全員の「合奏らしい合奏」による旋律(だろうか?)、さらにはジャジャジャジャーンの「運命」のリズム主題から和音(ただし複雑な響きの)がゆっくりデクレッシェンドしていく全曲の締め括りには、プログラムノートに野々村禎彦氏が記したように「晩年様式を思わせる諦観が漂う」、大江健三郎が最終作『晩年様式集(イン・レイト・スタイル)』で辿り着いた世界と自己との和解、「自然」と人間との融合・昇華が聴き取れる。ああ、私たちはクセナキスと、やっとここに辿り着いたのか、という安堵のため息と共に演奏会の終わりを迎えた。
恥ずかしながらその先進的な活動に触れたのは今回が初めてであるが、クセナキスの理知的な「自然美」をかくもアグレッシブに表現してくれたシンフォニエッタ静岡には心よりの賛辞と感謝を申し述べたい。この先も注目させていただこう。ありがとう、そしてこれからもどうぞよろしく。
(2025/11/15)