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フィリップ・ジャルスキー&ティボー・ガルシア デュオ・リサイタル|水谷晨

フィリップ・ジャルスキー&ティボー・ガルシア デュオ・リサイタル
Philippe Jaroussky & Thibaut Garcia Duo Recital

2025年10月7日 すみだトリフォニーホール
2025/10/7   Sumida Triphony Hall
Reviewed by 水谷晨(Shin Mizutani):Guest
Photos by K.Miura/写真提供:すみだトリフォニーホール

<演奏>        →foreign language
Philippe Jaroussky : ct、Thibaut Garcia : gt

<曲⽬>
ジョルダーニ/カーロ・ミオ・ベン
フランチェスカ・カッチーニ/愛がどんなものか知りたい者がいれば
ジョン・ダウランド/暗闇に私は住みたい・もう一度帰っておいで、やさしい恋人よ
ヘンリー・パーセル/歌劇《ダイドーとイニーアス》より
〈ベリンダ、そなたの手を〉〈土の中に横たえられし時〉
W.A.モーツァルト/夕べの想い K.523
ロッシーニ/歌劇《タンクレディ》より〈この胸の高鳴りに〉
シューベルト/魔王 作品1 D.328
バリオス/大聖堂 第1楽章、第3楽章(ギター・ソロ)
フォーレ/川のほとりで
バルバラ/美しい九月
ルイス・ボンファ/映画『黒いオルフェ』より〈カーニバルの朝〉
ディレルマンド・レイス/バイーア女の風情(ギター・ソロ)
チャベーラ・バルガス/単純素朴なものたち
アリエル・ラミレス/アルフォンシーナと海
(アンコール)
木村弓/いつも何度でも
ジョゼフ・コズマ/枯葉

 

声とギターの演奏会。今宵の舞台は、歌と撥弦が人類史の始原へ通じる道程を開いた稀有の一夜であった。演奏はフィリップ・ジャルスキー(ct)&ティボー・ガルシア(gt )。プログラムは、ジョルダーニ《カーロ・ミオ・ベン》から開始、ラミレス《アルフォンシーナと海》までという、17世紀から20世紀、ヨーロッパから南米に至る通時的・地理的横断であった。
ギターという撥弦楽器の起源をギリシア神話に遡れば、ヘルメスが亀甲に腸線を張って竪琴を造り、アポロンとオルペウスがそれを宇宙と人間の媒介へと高めた物語に行き着く。西洋のギターはキタラ(kithara)―ラテン語 cithara ―イベリアの guitarra という語源連鎖の末裔であり、音によって世界を「調え直す」装置の歴史的変奏であり、それは上記のギリシア神話におけるアポロン的な側面の表出と言える。
一方の人声による「歌」の起源はさらに古層にある。アメリカの心理学者ジュリアン・ジェインズによれば、人間意識の成立以前、声は神託のように振る舞い、歌の発話は意識の歴史よりも古かったという。また、人類における最古の記譜音楽は約三千五百年前、現シリア・ウガリットにて発掘された石板にフルリ語で記された賛歌に見出される。これは音が記され、他者へ手渡される文明的行為の悠久を示すと共に、上記の撥弦楽器が音楽のアポロン的「構成」を体現するとしたら、後者は人間のデュオニュソス的「生身の祈り」を体現するものであった左証である。
ここで哲学者でプラトン研究者の藤沢令夫を引こう。藤沢は「ロゴスのディアロゴス性」を提起し、近代デカルトの主観/客観図式を超えて、「聴く—聴かせる」という二者の相互行為のうちに言葉(音)が生成することを照射した。今夜の舞台はまさにその実践形態であり、我々聴衆は第三項として現前し、この往還を媒介する、極めて古代的な「無音の共犯者」であった。

今回のプログラムは先に書いた、音楽の考古学的な視座を辿っている様だ。ジョルダーニ《カーロ・ミオ・ベン》では、ジャルスキーの母音処理が印象的で、単旋律の内部に和声的陰影を呼び込む内在的ポリフォニーを実現していた。ガルシアの分散和音は響きの地床として透明に機能し、声のしなりを過不足なく受容する演奏であった。
カッチーニは初期バロックの語り歌いのニュアンスが的確で、子音の微細な音価化がテクストの歩度を決めていた。
ダウランドの二曲は、沈潜する旋律と低音の対旋律が儀式における礼讃唱の様に絡みあい、内声の連関が「聴く—聴かせる」の微細な推移を写す。
パーセルは《ダイドー》のラメントを、ギターの抑制された音色と軽いアポヤンドで縫い合わせ、喪の儀礼の透明度を高めた演奏であった。
モーツァルト《夕べの想い》は語のアクセントと拍節感の練り合わせが精妙で、声と言葉が一体化した。
ロッシーニのアリアでは、均整のカウンターテナーに対し、ギターが軽やかな和声の先取りで劇的な推進力を担保する。
シューベルト《魔王》は原曲ピアノの騎行音型をギターの連続トレモロに置換し、父・子・魔王の三役対話を声色の即応で立体化。ここで上記の「ディアロゴス性」は最も純度を高め、物語進行が対話から折り出す構図を示した。
ギター・ソロのバリオス《大聖堂》第1・第3楽章は、低声弦の支柱と高声部の装飾対位が明晰で、敬虔と烈しさの二元が同居した名演であった。
フォーレ《川のほとりで》はフランス語の母音連鎖が水脈のように流れ、メザヴォーチェが音の表層を震わせる。
バルバラ《美しい九月》では語りと旋律の構造、そして回想への強い意思が舞台空間にこだました。

南米セクションで楽想の解釈は反転する。ボンファ《カーニバルの朝》では、ガルシアが要所でパーカッシヴなラスゲアードを差し挟み、和声を打楽器的に彩色してサンバ/ボサ・ノヴァの浮遊感を端正に再現した。
レイス《バイーア女の風情》はショーロの「粋」が凝縮され、右手の精巧なアルペジオが時間の粒立ちを刻印。
チャベーラ・バルガス《単純素朴なものたち》は、装飾の抑制がかえって情緒の多層性を露呈させ、音と無音の間隙が豊穣であった。
ラミレス《アルフォンシーナと海》は、分散和音の波型に哀歌が乗る。

以上の全体を貫いた特質は、時代・地域・様式の越境のみならず、二者が相互に相手の呼吸を先取し、他者の内部に浸透し合うかのような対話の関係性であった。我々は第三の耳としてその生成に参与し、古代ギリシアにおけるコロスの現代的転生の様なこの舞台において、幻想的な聴取共同体を一時的に立ち上げたのである。

アンコールでは日本語とフランス語の運びがともに見事であり、言語の境界は穏やかに融解した。神話的始原からボサ・ノヴァの黄昏まで、孤高と共感、ポリフォニーと素朴の二項を往還させた本公演は、古代以来の「聴く—聴かせる」という人間の営みそのものの現前であった。

(2025/11/15)

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水谷 晨(Shin Mizutani)
作曲家・修士(音楽)。1991年東京都出身。ロッテルダム音楽院作曲科およびデン・ハーグ王立音楽院ソノロジー研究所にて研鑽。チッタ・ディ・ウーディネ国際作曲コンクール最優秀賞(2018)、アカデミア・ムジカ・ウィーン国際音楽コンクール第1位特別賞(2019)、ルチアーノ・ベリオ国際作曲コンクール・ファイナリスト(2023)など国内外で受賞多数。現在、全日本ピアノ指導者協会(ピティナ)にてピアノ作品のコンチェルトやオーケストラ編曲を担当。
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<Performers>
Philippe Jaroussky ct/Thibaut Garcia gt
<Program>
Giordani: Caro mio ben
Francesca Caccini: Chi desia di saper che cos’è amore
John Dowland: In darkness let me dwell
John Dowland: Come again, sweet love doth now invite
Henry Purcell: Thy hand, Belinda; darkness shades me
Henry Purcell: When I am laid in earth
W. A. Mozart: Abendempfindung an Laura, KV 523
Gioachino Rossini: Di tanti palpiti
Franz Schubert: Erlkönig, op. 1 D 328
Agustín Barrios Mangoré: La catedral – I. Preludio Saudade; III. Allegro solemne
Gabriel Fauré: Au bord de l’eau
Barbara: Septembre – Quel joli temps
Luiz Bonfá: Manhã de Carnaval
Dilermando Reis: Xodó da Baiana
Chavela Vargas: Las simples cosas
Ariel Ramírez: Alfonsina y el mar
(Encores)
Kimura Yumi: Itsumo Nando Demo
Joseph Kosma: Les Feuilles Mortes