Menu

セミヨン・ビシュコフ指揮 チェコ・フィルハーモニー管弦楽団|秋元陽平

セミヨン・ビシュコフ指揮 チェコ・フィルハーモニー管弦楽団
Semyon Bychkov & Czech Philharmonic

2025年10月22日 サントリーホール
2025/10/22 Suntory Hall
Reviewed by秋元陽平(Yohei Akimoto)
Photos by Naoya Ikegami / 提供:ジャパン・アーツ

〈プログラム〉
ラヴェル:ピアノ協奏曲 ト長調 M.83 (ピアノ:チョ・ソンジン)
アンコール:ショパン:ワルツOp. 34-2
ショスタコーヴィチ:交響曲 第8番 ハ短調 Op.65

〈演奏〉
チェコ・フィルハーモニー管弦楽団
指揮:セミヨン・ビシュコフ
ピアノ独奏:チョ・ソンジン

 

SNSでそのPRが大いに話題となったチェコ・フィルの来日公演である。ラヴェルの『ピアノ協奏曲』はモーツァルト以来のディヴェルティメント(=divertissement:気晴らし、余興)の精神を巧緻に織り込んだ作曲者後期の傑作だが、ソリストを務めたチョ・ソンジンは才気煥発なゲームマスターとしてステージに君臨した。第一楽章では絶えず移動するアクセントやリズム形式を巧みに捉え、レガートからマルカートまで自由にニュアンスを往還する。第二楽章冒頭のひとり語りでは美しいpppにあってなお内省的というよりは堂々としたものを感じさせ、感傷的なオーケストラの歌のうえに長いピアノのアルペッジョが降り注ぐ中盤のシークエンスでは、自らの音響効果がオーケストラの広いパレットのどこに共鳴するのか——フルートのパッセージか、シンバルの高周波の余韻か——をすべて観察するようにしてオーケストラの中にきらめきを投射していく。おそらくこのピアニストは音楽を俯瞰的に構築することに長けていて、きっと弾き振りも素晴らしくこなすだろう。例えば右手のトリルが続く同楽章の締めくくりにおける左手低音など、目立たない音響効果をしっかりと聴衆に呈示するあたり、あたかも指揮者が二人いるかのようだ。ビシュコフとチェコ・フィルも音響をいたずらに膨らませることなく、打楽器の余韻のひとつひとつを効果的に響かせる澄み切って機能的なアプローチ。ピアニストがオーケストラを、オーケストラがピアニストを聴きあう蜜月が音楽の幸福感を生み出す。同じショパン・コンクールの覇者であるブルース・リウとロッテルダム・フィルによるプロコフィエフの協奏曲レビューでも書いたことだが、彼ら若きトップクラスのピアニストは、共演するオーケストラに向けて開かれた耳と心を持っている。この点、二人ともショパン演奏よりもむしろ20世紀の作曲家にレパートリーを広げたことにその資質があらわれていると私は考える。
さて、ショスタコーヴィチの交響曲第8番には圧倒され、終わりには神経のすみずみまで疲弊した。つまり名演だったのであるが、第8番が最大の演奏効果を発揮したとき、聴く側も無事ではいられない。第一楽章、ショスタコーヴィチは半音階的な進行や低音部の執拗な反復、そして行きつ戻りつするフレーズのよろめきにあわせて拍子を変更することによって鬱蒼たるムードを切れ目なく継続するのだが、チェコ・フィルの特に弦セクションには、美しい木目をともなった「面」の塗りとでもいうべき持ち味があって、この塗りは濃く充実して、容易に減衰しないため、執拗な持続を深々と塗り固めていって、ビシュコフの導きでこの禁欲的な展開のうちにきわめて長期的な視野にたったクライマックスが構築される。このようなビシュコフとチェコ・フィルの端正かつ踏み込んだ演奏は、聴衆にいくつものことを示唆してくれる。例えばバロック音楽のパッサカリア——ルイ・クープランでもダングルベールでもよい——を考えれば分かることだが、西洋音楽の反復をともなう(舞曲)形式というのは、ふつう認識を容易くする基準としての低音のもとでさまざまな装いや技巧が凝らされ、それが再び保障された同一性に帰着するという変化の楽しみ(いわばこれも気晴らしだ)を可能にするものだ。ところがショスタコーヴィチにあっては、第四楽章のパッサカリアもそうだが、同じものが絶えず戻ってくるという運命強迫、そして戻ってきたことによってメロディとの軋みが次第に増大し、滞留することの強調に用いられる。またショスタコーヴィチの場合、戦争の暴力の音楽的あらわれは、実のところ反復的な速いパッセージやトランペットによるファンファーレ、あるいはせき立てるスネアといったわかりやすい要素だけでなく、音を持続や滞留によって「塗りつぶす」ニュアンスにもあると思う。この作曲家に頻出する、木管楽器、とくにクラリネットやフルートによるファンファーレのパロディの、耳に痛いロングトーンがその典型である。第三楽章の抽象化された戦争画は、このたびのチェコ・フィルの凄絶な演奏にあっては、騎兵が走るように、バッハの鮮やかなトッカータのように駆け抜けられるのではない。むしろそこではニュアンスそのものを殺戮するような画一感と、自動機械の崇高さが音楽の生彩となって両立するのだ。
ビシュコフがひもとく最終楽章は、わたしにはそれでもひとつの安息であると感じられた。人間性の勝利という、この交響曲を解説する作曲家自身のことばは一見すると異様に響くが、字義通りに受け取ることが可能でないか。なるほどいまだにすべては半音階的書法によって幾重にも屈折し、一度はトラウマのように第一楽章の強奏も蘇る。しかしこれまで執拗に立ち戻ってきた低音部による不和の告発の声は確実に弱まっている。諦めというよりも、前向きな運命の受容ということばが近いのではないか。それにしても、これを作曲する人間がいて、さらにそれをはるばる遠くから演奏しに来る人々がいて、そしてそれを聴きに参集する人々がいて、この会場の熱気を作り出していることはそれ自体再考されるべきことがらだろう。わたしたちは確かにこのような音楽を聴くことを求めているのだが、それはなぜなのか?「気晴らし」ではない、むしろ気が塞ぐかもしれない。単に知的な刺激でもない、確かに構造は複雑だがそれ以上に分析を撥ね付ける持続がある。ある感情、例えば悲劇的感情に浸る、というのでもない、ムードは絶えず移り変わる。では戦争映画のように、「崇高」や、カタルシスを味わうためか? しかしこの第8番に限って言えば、すでに見たとおりそのようなすっきりした情念の勾配を持ってはいない。聴衆は否が応でも右往左往し、引きずり回され、歯切れの悪い思いをする。しかしそこには確かに欲求がある。それは音楽を聴くことそれ自体がある種の思考となる、という欲求だ。それは音楽「について」あれこれ考える——ここでしているように——という意味ではなく、また戦争について考えるかわりに音楽を聴く、つまり音楽によって思考を免除するという意味でもない。むしろそれは端的に、人間の奇妙さ、その謎のうちに身を晒したいという欲求に近い。ビシュコフもチェコ・フィルも、見せかけのカタルシスや名人芸を排し、この欲求を掘り下げたからこそ、聴後の重さはひときわのものとなったのだ。この曲が検閲されたのは、おそらくわかりやすいハッピーエンドでなかったからというだけではない。全体主義国家はそもそも、このような知的欲求を容認できないのだ。

(2025/11/15)