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五線紙のパンセ|NHK電子音楽スタジオに出会い、地平は拓けた。その3|平石博一

NHK電子音楽スタジオに出会い、地平は拓けた。その3

平石博一(Hirokazu Hiraishi): Guest

16Ch再生による空間音楽の試み
数多くの演奏家の参加を前提とする空間音楽の実現はなかなか難しいことがあり、しばらく遠ざかっていましたが、PCの進化とMIDI音源がいろいろと発売され、私にとって状況が好転したと言える時代が来ました。とは言っても今から見ると黎明期と言える風景でしたが。
それでもマルチチャンネル出力が可能な音源が1980年代末頃から発売されるようになり、マルチスピーカー再生による空間音楽の試みが可能になることが現実になりました。
そのころローランドの浜松技術センター課長の知人がおりました。彼は当時シーケンサーの開発の真最中でした。ある程度完成していたようですがまだ製品として発売出来る一歩手前だったようです。私は空間音楽を実現したいのだという事を常々話していたのですが、彼から協力したいという提案がありました。開発中のシーケンサーを実際に運用して製品の質の向上改善に役立つというメリットがあるという事が後押ししてくれたのだと思います。私の部屋には日常的に使っていた表計算ソフトLotus 1-2-3がインストールされていたNECの98シリーズのデスクトップPCがありました。開発中でしたので私のPCにはシーケンサーをインストールせず彼が毎回私の部屋に来てソフトを立ち上げて打ち込み作業をするという形をとりました。私は作品の楽譜を作成するだけで、実際の作業はすべて彼に任せるという形でした。それから毎日のように彼は私の部屋で打ち込み作業に没頭することになったというわけです。このように私が楽譜までの作業で、具体的なPC作業を全面的に第三者に委ねるというのは、この時だけでした。後にNHK電子音楽スタジオの作業で打ち込みを第三者にかなり任せたことはありますがNHKでも最終的には私自身が打ち込みをして仕上げています。まだ商品、製品としては完成していなかったこの時使用したシーケンスソフトは私のところに存在しません。
いずれにしてもこの時のローランドの彼の協力には本当に感謝しています。コンサート当日必要だった、音源モジュール、16ch分のモニター・スピーカー、そして大量のスピーカーケーブル、電源ケーブルをすべてローランドから無償でお借りすることが出来ました。当時の記録を見つけ出すことが出来ないため間違っているかもしれませんが、お借りした音源モジュールは[Roland D-110]だったのではと思います。1Uラックで8ch出力が可能だった機種です。16ch出力にするため2台お借りしました。秋葉原のローランドの営業所に車で機材を受け取り返却に行き、車が荷物でいっぱいになった事などを今も鮮明に覚えています。今のようなノートパソコンのない時代でしたので、今から見るとかなり重いラップトップを当日のためにレンタルすることにしました。当時オリックスがレンタル事業をしていて、前日翌日の移動日を入れた3日間で5~6万円の費用を支払った記憶があります。1990年2月7日、音楽の友ホールで開催された「現代の音楽展’90」で、コンピュータとディジタル音源のための「三つの小品」を演奏しました。打ち込み可能なデータ量の制限等を顧慮して、音が移動していくという感覚を得る効果を狙う、追求することはやめました。一つ一つのスピーカーをそれぞれ演奏家とみなして、聴衆と演奏家が混在するという方法、空間を平均的に分割し配置するという方法をとりました。私の手元には、機材もシーケンスソフトもその後存在していないので、これをさらに展開して作品を作るという事にはなりませんでした。しかしその後の空間音楽を目指すための重要な経験になりました。

OnTomo_1990

NHK電子音楽スタジオで作品を制作することになる
1986年6月30日の午後4時ころNHK音楽芸能部のディレクター浅岡寿雄(あさおか・としお)さんからTELがあり、NHK電子音楽スタジオで作品を作ってほしいと依頼がありました。予期していなかったので少しびっくりしましたが、もちろん即座にお引き受けすると返事をしました。週に2日か3日NHKに入り仕事をしてほしい。7月後半にスタジオが空く予定なので、7月後半から8月頃に仕事を始めて半年くらいで完成してほしい、という事でした。放送は35分(もしかすると私のために割いている時間が35分という意味だったかもしれません)番組なので25分~30分くらいの作品だと理想的というお話でした。実際の仕事は昔の手帳によるとおそらく8月下旬くらいから始めているようなのですが、その前の7月30日の遅い時間の午後と8月6日の午後の2回NHKを訪問していました。その時に浅岡さんから電子音楽スタジオの機材について説明を受けたのですが、それはすべて内幸町時代の機材でした。かなり広いスペースのスタジオに大量の機材が押し込められている感じで圧倒されました。その時はすでに運用できなくなっていた湯浅譲二さんの「イコン」に使われた大型のマルチトラックレコーダーが一番端の方に置かれていたのも強く記憶に残っています。そしてこの2回の訪問のどちらかで私を担当するオーディオ・エンジニアの友清昭士(ともきよ・しょうじ)さんを紹介されました。6mmテープのための5台の業務用レコーダーと速度可変が出来るテープデッキ1台などがスタジオ中央部分に大型ミキサーとともに設置されていて、それらがこれからの作業のメインになるだろうという事を理解しました。このテープデッキとモニター・スピーカー以外の大量の様々な機器は内幸町時代にエンジニアたちが手作りしたものの様でした。様々な発振器、フィルター、変調器、発振器にはグラフィックなイメージで波形を自分で設定することが出来る大型のものもありました。諸々の説明を受け、自分に何が出来るかを頭の中で構築していました。この2回の訪問で仕事の進め方の打ち合わせをしましたが、スタジオが開いているのは10:00~19:00とのことで私は基本11:00~18:00にスタジオ入りすることになりました。実際の仕事では毎回少なくてももう一人エンジニアにアシストして頂ける形で基本2名のエンジニアがスタジオに入るとのことでした。この電子音楽スタジオCC500はオーディオ・エンジニアたちの休憩場所にもなっていて多くのエンジニアが滞在していることもしばしばあったのです。したがって多人数で仕事のサポートをしてくれることもあり大いに助けられたのです。1986年のNHK電子音楽スタジオは私のほかにもう1人の作曲家がほとんど同時期に作業を始めていました。9月からの様でしたが、それは遠藤雅夫さんで、日程の振り分けをすることになり、私は主に、金、土、の二日間スタジオに入り時々、月曜日が追加され、稀に、月、火、が追加されることもありました。エンジニアは友清さんがメインではありましたが、毎回異なったエンジニアがスタジオに入りました。スケジュール調整はエンジニアの方で決めていました。

一柳慧さんのアドバイス
CC500(NHK電子音楽スタジオ)で実際に仕事を始める前に一柳慧さんにお会いすることがありました。立ち話でしたが、その時唐突にNHK電子音楽スタジオで仕事をする際の心構えということを話し始めたのです。あれ、どうしてNHK電子音楽スタジオで仕事を始めることを知っているのだろう?と不思議に思いつつ伺いました。それは、作業を自分一人でどんどん進めて、短期間であっという間に仕上げてしまうという様な事だけはしないように、スタッフのエンジニアに出来るだけ多くの仕事を作ってあげなければいけない、というお話でした。確かに私の性格は仕事を自分で勝手にすすめてあっという間に仕上げてしまうというものでした。一柳さんはその性格を見抜いていたようでした。一柳さんは神南のNHKの隣に住んでいて普段NHKのディレクター等と交流があるので情報は素早く入っていたのでしょう、が、あとで考えるともしかすると一柳さんが推薦してくれたのだろうかとも思いました。この時のアドバイスは私に強烈に響き、作品完成に長期間を要したことの原因になったのかもしれません。

最初は伝統的?な電子音楽作法で作業が始まる
実際に制作作業が始まったのは当時の手帳によると、1986年8月22日でした。どのような素材が作成できるのか手探りがまず始まりました。発振器から発生する音を、フィルター等を通して加工したものを6mmのテープに録音しそれを聴きなおして、家に戻った時に仮のというかテストの楽譜を作り、それに基づいてテープの切り貼りを行って1本のテープを仕上げます。私は最終的には空間音楽を目指していたので、その実験も行いました。CC500(電子音楽スタジオ)の隣に少し狭い部屋がありました。そこに4つのモニター・スピーカーを小さな円形に設置して、制作した4本のテープを同時に再生してみるというものでした。私と担当のディレクターそして2人のエンジニアの4人が、合図でスタートボタンを押します。離れた位置にあるスピーカーから再生されます。スタジオには4人しかいないため、スピーカーの中央で聴くことができません。その効果の本当の体験確認は出来ないことになります。放送はステレオですので、早い段階でマルチチャンネル再生の作品はあきらめることになりました。人力でタイミングを合わせることの限界も実感しました。ビートのある素材のタイミングを合わせるのは難しい、そのような音楽は設計段階で排除した方が良いと考えられました。

MIDIの導入を提案する
しばらくは主に素材作成を続けていました。時期がいつだったのかはメモしていなかったのですが、ある日、エンジニアたちの方からCC500の備品購入費が少ないけれどもあるので、何か購入して欲しいものがありますかと尋ねられました。その時私はためらわず、サンプラーとコンピュータとシーケンスソフトを購入して頂けないでしょうかと答えました。MIDIの導入を提案したことになります。おそらく一番経験豊富と思われるエンジニアからは電子音楽はそのように作られるものではないという声もありました。それまでの電子音楽の歴史から考えるとそれは正しい意見と思われます。電子音楽とは何かという問いの答えがあるとすれば、それまでに創作された数多くの電子音楽の名作から導き出されるものというのが自然なのだと思います。しかし私はテクノロジーが進歩した時代には電子音楽の地平を広げて良いのではないかと考えました。少し心配はありましたが結局それほど問題なく私の希望を受け入れて頂くことになりました。エンジニアの皆さんに感謝です。
その年1986年にAKAIからサンプラーS900が発売されていたのを知っていたことも提案した理由のひとつです。12bit、40kHzという当時としてはこれ以上望めないハイスペックでした。音楽雑誌等でかなり話題になっていたと思います。いつ購入して運用を始めたのかの記録をしていないので不明なのですが、当時のフロッピーディスクが納められた箱をやっとのことで取り出し確認をしたところ、1987年2月28日と書かれたフロッピーディスクが出てきたので、この時すでに購入されていたことになります。フロッピーディスクにはエンジニアの方が番号をつけていたのですが、今私の手元にあるものをみると欠番もかなりあるので、多く失っている様です。これはもう後に戻ることは出来ないのであきらめることにしました。
AKAIサンプラー「S900」を2台とコンピュータ、それに2つの国産シーケンスソフトを購入して頂けました。シーケンスソフトは視覚的にユーザー・インターフェイスが優れたものと数字打ち込みのカモンミュージックがあり、実際に使用してみたところ、私の要求する音楽の細部の打ち込みがかなり満足いく形で実行できたため、カモンミュージックのみを作品制作に採用しました。

AKAIサンプラー「S1000」が追加される
1988年にAKAIのサンプラー「S1000」が発売になりました。16bit、44.1kHzというスペックでCDに収録するレベルで制作が出来ることなどから、これは絶対に必要という話になり2台を購入して頂けました。1988年のフロッピーディスクがほとんど紛失しているため検証できなく残念ですが、この時期はほとんどサインウエイブのサンプリングが作業だったと思います。1986年からNHK電子音楽スタジオには週2~3日のペースで通っていましたが、1988年は私自身が非常に忙しい状態になり、スタジオに通うのは週1日が基本となりました。もともと楽譜出版社を営んでいてそれが忙しくなったことがあります。そしてなぜか日吉の写真学校で音楽の講座をすることになり準備も含めて結構時間がとられていました。この講座はもともと秋山邦晴さんが担当していた授業で、そのあとを知人の神前尚生(こうさき・ひさお)さんが引き継いでいたのですがある大学の講師になるとのことで後を頼まれたものでした。その他いろいろな出版社の楽譜作成の下請けをしていたというのもかなりきついスケジュールになっていました。さらに楽譜作成ソフトの開発に協力するという事で大日本印刷やトッパンとのお付き合いがあり、大日本印刷のほうはおそらくあきらめたのではと思われますが、トッパンはデンマークの会社が開発したものを導入し楽譜制作部門があるNHKプリンテックス等に販売したようです。が、販売価格が高額でそれ以上うまく展開できなかったようでした。いずれにしても忙しくなりすぎてNHKに通うのが週1という細々としたものになっていきました。しかし「S1000」を導入したことでサンプリングの作業は相当量を行っていた記憶なのです。88年に作成したフロッピーディスクが手元に全くないのが本当に不思議です。発振器を使用した作業は大量だったので残念ではあるのですが、サインウエイブが基本作業の時期だったので、失ったダメージはそれほど大きくはないと考えました。

一柳慧さんのアドバイスが生きた?
エンジニアの皆さんにフィールドワークをお願いしました。「水」と「環境音」の録音をしてほしいという内容です。「水」については即座に、水の録音は非常に難易度が高く、その作業は避けたい、過去に他の作曲家のために録音したものがあるので、それを使って欲しいという返事でした。他の作曲家が何方なのか教えて頂けませんでしたが、音を聴くと、武満徹さんの「水」音を使った作品で全く同じ音が聴かれます。私は武満徹さんのために録音されたかなり昔の仕事だったと勝手に考えています。

回転する時間_雑音_1ページ目

しかし「環境音」については私のお願いを広く解釈して様々な場所の音を喜々として集めていただけました。NHK局内の様々な場所で録音していただけました。局内に銀行のキャッシュ・ディスペンサーがあり、お札が出てくる時の音を録音しましたが、完成作品「回転する時間(とき)」の4曲目「雑音」の冒頭で聴くことが出来ます。何の音か知ると、なるほどそうか、と思うのではないでしょうか。キャッシュ・ディスペンサーの録音からは3種類採用しました。
コンピュータのキーボード打音、ドアの開閉、くず入れにつまずく音、鉛筆が落ちる音、湯飲み茶わんがぶつかり合う音、豆電球をニッパでつぶした時の音、等々大変多くの音をNHK局内各所で採取していただけました。少し面白いものでは湯浅譲二さんの「イコン」で使用された6chテープデッキのドアを閉める音というのもありました。6chテープデッキはかなり大型でしたのでそれなりに大きな重い音でした。

1989年から1992年までの作業
NHKに行く頻度が細々という状態になってしまったため、結果的に長期にわたってスタジオに通うことになりました。1989年から1992年までは既にある音源からサンプリングすることが多くなりました。クラシック音楽はN響の録音ライブラリから使用することになりました。バッハ、モーツァルト、シューベルト、ショパン、マーラー、チャイコフスキー、ドビュッシー等々多岐にわたるものでした。この時のサンプリングは今も私の手元のフロッピーディスクにたくさん保存されています。それとポピュラー音楽からのサンプリングも行いました。担当ディレクターが著作権担当に確認したところライブラリのCDからサンプリングして良いという返事があり、こちらはたくさんではなく、ユーミン、松田聖子、小泉今日子の3アーチストに絞ってサンプリングしました。1992年には担当ディレクターも3人目になりました。それだけ多くの時間が経過してしまいました。3人目の方は前田直角(まえだ・なおずみ)さんでした。直角と書いてなおずみさんということでした。92年の、もう少しで年末に近づきそうというころで、前田さんから放送日を決めたのでそれまでに30分の作品を完成させるようにと言われたのです。少し焦りましたが素材はすでに揃っているので可能だと思いました。年末年始はエンジニアの皆さんはお休みという事になるので、その間に私は自宅で本番用の打ち込み作業をすることにしました。それまではテスト用に作曲した楽譜をスタッフの方に打ち込み作業をお願いしていました。放送日が決まったという事で、93年の作業が始まるまでに、本番用の作曲と打ち込みを年末と年始の2週間ほどで仕上げました。あの頃は私も若かったので体力がありました。今から見れば、そんな短時間で作品を完成させてしまったのは驚異的でもあります。と言ってもデータが完成しただけで、そのあと実際の録音作業があります。1993年のNHKでの作業は電子音楽スタジオから、ひとつ上の階の604stがメインの作業スタジオになりました。604stにはSONY PCM-3348というマルチトラック・デジタル・レコーダーが2台ありました。48chのテープデッキです。そこで放送用のレコーディングが始まりました。集中的に録音作業を行いましたが、おそらく2月18日19日ごろにほとんど完成したのではと思います。もしかすると翌週も仕上げに行ったかもしれません。いずれにしても前田さんの要求に応えることが出来てめでたしというところにこぎつけました。そして1993年3月14日のFM「現代の音楽」で放送されました。
その後、前田さんからは、そのまま継続して作品を作り続けて良いとありがたい言葉を頂いたのですが、実は妻の体調が悪い方に向かっていたため家を出来るだけ離れないようにしたいということがあり、辞退することにしました。NHK電子音楽スタジオがあまり時間を置かずに運用が終了してしまったことを考えると、そのまま続けていたほうが良かったのではという後悔のようなものがわずかですがあります。

サウンド・モジュールを手に入れる
NHKの作業では空間音楽の実現は出来ませんでしたが、1995年にRolandから発売されたサウンド・モジュール、M-GS64、M-DC1、M-SE1を手に入れたことでいずれ個人でも空間音楽が出来るという確信を持ちました。もちろんすぐにそれを実現することは出来ませんでした。チャンスはあるはずと考えていました。NHK電子音楽スタジオで制作した「回転する時間(とき)」を収録したCD「PRISMATIC EYE」がフォンテックから発売され、その販促イベントをタワーレコード渋谷店が企画してくれました。1995年7月15日には6Fのレコード売り場でピアノによるミニ・コンサートが開催され、7月22日には8Fのイベント・スペースでコンピュータ・ライブを中心にしたミニ・コンサートが開催されました。22日のためには購入した音源モジュールが活躍することになりました。そのイベントのために音源モジュールを利用した「渋谷1995」という作品を演奏しました。これはその後リミックス・バージョンを作り「Chelsea」と改題しましたがYouTubeで聴くことが出来ます。https://www.youtube.com/watch?v=dZCC806fQeo
その後これらの音源モジュールは数多くのライブで活躍することになりました。1999年の秋から2000年の夏までの9か月ACC(ASIAN CULTURAL COUNCIL)の助成でニューヨークに滞在した時もこれらの音源モジュール、キーボード、コンピュータとともに渡米しました。実はその時[猫]も一緒だったため行きも帰りも荷物が多く引っ越しのような状態で大変なことになりました。日本に戻るときは法律が変わっていて[猫]は、もし感染症等にかかっていたら米国に強制送還される状態に変更されていたのでした。万一の場合はニューヨークで知り合ったピアニストに引き取って頂けるという約束を取り付けてはいたのですが、そんなことにはならないようにともちろん願っていました。病気に罹っていないことを証明するために日本に戻って1週間後にもう一度成田空港まで[猫]をドキドキしながら連れて行きました。そして結果はセーフ! 日本に戻ってからも主に小さなライブハウスなどでのコンピュータ・パフォーマンスを行っていました。

HIROSHIMA
2002年のある日、女性アーチスト河村美雪と名乗る人から電話があり、広島で開催される現代美術展に作品を出品するのだけれど、そのオープニング・イベントに参加してもらえないかというお話でした。面識のない方でしたが、写真集の編集等で知られるクリエイティブディレクター後藤繁雄さんの紹介ということで納得。少し特殊なケースと言えると思うのですが、河村さんの作品の一部であるという位置づけで、オープニングを盛り上げる形でした。空間音楽の実践をさせていただくという事でお引き受けしました。旧日本銀行広島支店は非常に堅牢な建築物であったため広島原爆投下時に無傷に近い形で残った歴史的建造物で原爆ドームにかなり近い位置です。オープニング・イベントは2002年8月24日でしたが前日に広島に入り現場を見せて頂きました。私がパフォーマンスする場所は1階の元は営業フロアだった広いスペースの半分近くを区切ったスペースでした。現場を見ると何かの力が働いて作りたい音楽が自然に生まれてくるのです。この時もそれが起きました。空間音楽をするための会場の準備をしなければいけないのですが、広島大学の関係者がスピーカーを8台集めてくださり、ケーブルも広島大学から大きなロールを提供して頂け、自由に好きな長さに切断して使って良いということで本当に感謝でした。私は音源モジュールとPCを持ち込みました。そして提供された宿泊場所に行き睡眠を取ったのですが少し緊張があったからか朝5時には目が覚め、6時ころから自然に思いついた音楽の制作を始めたのです。昼には現場に行く必要があったため時間的余裕はなかったのですが、なんとかイベント開始前に会場に着いて準備が出来る時間に間に合わせることが出来ました。その時に制作したのが「HIROSHIMA」というタイトルの8ch空間音楽です。非常に解像度の低い映像ですがその時の様子が少しわかる映像をYouTubeにアップしています。
https://www.youtube.com/watch?v=t2CYz27iwu8

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初めて作ったアニメーション的な映像と言えるのですが技術的に超未熟な映像になります。当時持っていたPCでとりあえず可能な作業でした。その後、当時目黒にあったミズマアートギャラリーでのパフォーマンスも行ったためその映像も最後の方に収録されています。
これで音源モジュールをMIDIでコントロールして空間音楽パフォーマンスをすることが実現できました。この時は、エレキベースとエレキピアノ音を再生するスピーカーを中央に配置し、通常のピアノ音を再生する6chを一番外側に円形に配置しました。
その後、この方式でパフォーマンスを継続していたのですが、音源モジュールを運ぶという事がだんだん負担になってきました。

オーディオキャプチャーを手に入れる
2004年4月にRolandからオーディオキャプチャーFA-101が発売され、その後、手に入れることが出来ました。PCの方はMac Book Proに、DAWソフトもLogic Proにグレードアップしたことで、それまでの肉体的な負担をかなり軽減することが可能になりました。8ch再生をしたい場合は8台のスピーカーを用意しなければならないという事はありますが、個人レベルでも空間音楽パフォーマンスを行う事がかなり容易になりました。スピーカー8台を自分で用意するのが若干辛くなり業者、スピーカーメーカーの株式会社タグチに何度かお願いした時期があります。やはり業者の方にお願いすると、しっかりとしたパワーとサウンドになります。特にパワーを必要とする場合は個人ではなかなか難しいと痛感します。とはいえ経済的な問題もありその後は結局個人で用意出来るサイズの会場でのパフォーマンスの継続という事が主になっています。株式会社タグチさんに最後にお願いしたのは、2009年5月23日に公園通りクラシックスで行った「HARMONIZE VOL.2」でした。全作品私のコンピュータによる8ch再生空間音楽でしたが、私としては珍しくヴォーカルを取り入れた作品が半分を占めていました。

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オーディオキャプチャーが2台になる
2010年Rolandから新しいオーディオキャプチャー「OCTA-CAPTURE」が発売されました。すぐには手に入れることは出来なかったのですが購入することが出来ました。さらに数年後に必要があって同機種を追加で手に入れることになりました。同時に別の場所でパフォーマンスする必要があったからです。スピーカーも8台追加で手に入れました。いつになるかわかりませんが16chパフォーマンス可能な環境にはなりました。しかし実際に行うとなるとかなり抵抗があります。今の私の体力では難しそうです。設備が最初から多チャンネル対応になっているホール等でないと現実的ではないかもしれません。

コラボレーションの数々

6×6+8×8

今まで数多くの方とコラボレーションを行ってきました。舞踏ダンサー、映像作家、美術家など、それぞれ独特の個性の持ち主の方たちでした。その中で他にはあまり見ることのない独特なタイプの美術家との仕事があります。青山悟(あおやま・さとる)さんです。糸とミシンを巧みに操り、刺繍で絵を描いています。初めて仕事をさせて頂いたのは、2011年にミズマアートギャラリーで行われた青山さんの「6本の薔薇」という刺繡作品の個展です。元々コラボレーションの企画があったわけではないのですがギャラリーオーナーの三潴さんの発案で急遽私の空間音楽パフォーマンスを行うことになりました。ギャラリーでの8chパフォーマンスでしたからミニスピーカーでの8chでした。[6×6+8×8]というタイトルをギャラリーのスタッフが考えてくれました。

死の歌、青山、平石

翌年の2012年には目黒区美術館が主催した「メグロアドレス─都会に生きる作家」という展覧会に青山さんと私が共作を出品する形でした。もちろん主役は青山悟さんなのですが、企画の段階から共同作業と言えるものでした。19世紀に英国で活動したデザイナー、詩人、社会主義者であるウイリアム・モリスに関する資料の中に頻繁に言及される一枚の楽譜があるそうです。「死の歌」と名付けられたその楽譜をもとに、私が新しい音楽を作り、それをかなり広い展示会場で空間的に演奏するものです。原曲のメロディが隠されているのですが、その説明は複雑になりすぎるので控えます。
そしてこの作品は、2015年の「六甲ミーツ・アート芸術散歩2015」でも再展示されました。
その時はオルゴールミュージアムでの展示になったのでオルゴール・パートも作成し実際のオルゴール演奏と、録音のループ再生も行われました。
青山さんとのコラボレーションはまだまだあるのですが、ひとつ忘れていけないことがあります。展示中に実際のミシンをギャラリーに持ち込んで刺繍作業を見せることがあるのですが、その時私がリアルタイムで音を収録加工しMAXを利用して空間パフォーマンスをすることが何度もありました。

生演奏の素材をもとに空間音楽作品を作った例をひとつ
東京現音計画: à la carte 7というコンサートが2021年12月18日に行われたのですが、有馬純寿さんから新曲を委嘱されました。東京現音計画のメンバー、橋本晋哉さんが演奏したTuba音をサンプリングしそれを素材としました。冒頭の破裂音のような連続音はマウスピースを手の平で軽く叩いた音になります。MIDIで演奏すると人間では無理かもしれない演奏が可能になります。有馬純寿さんは私が最も信頼している音響エンジニアです。
https://www.youtube.com/watch?v=I2rV0DS8DIs

場所に触発され空間音楽作品を作った例をひとつ
中山いくみ個展「HAL(L)O! HIROSHIMA」2015年06月23日 (火) – 06月28日 (日)でのレセプションイベント2015.06.27 (土)でマルチチャンネル・パフォーマンスを行って欲しいと依頼されました。その時ギャラリーの資料を見せて頂いたとき即座に頭に浮かんだ音がありました。ギャラリーのガラスに触発されたのです。依頼主の中山いくみさんにとっては想定外のタイプの音楽だったのではと思うのですが、2002年に作った「HIROSHIMA」などの演奏の前後に新作の8chパフォーマンスをさせていただきました。
私の音楽作品はこちらのYouTubeで聴けます。
https://www.youtube.com/watch?v=KMiPlg1PSls
ギャラリーはこちら。
https://gallery-g.jp/

イマーシブ360°の時代が本格化するのだろうか
2024年7月18日に西早稲田にある Artware hub KAKEHASHI MEMORIALで「回転する時間(とき)」が改めてSpat Revolution空間音楽として生まれ変わる編集を施したうえで再演するという機会を頂きました。これは本当にありがたいことです。KAKEHASHI MEMORIALでの36.8chはわたしの考える理想に近いものでした。初めてKAKEHASHI MEMORIALに入った時これは私のために作られたものに違いないという確信のような感覚が起こってきました。もちろん実際はそんなことはないのですが。NHKの4K、8Kシステムも旧来の4ch思想を引き継いでいるように思えます。前後というものがかなり意識されています。KAKEHASHI MEMORIALで経験したようなすべての方向の比重が同じであることが理想です。もちろん前後左右が確定している空間も、音楽によってはあるいは目的によっては有効な場合もあることは良く理解できます。いずれにしても36.8chのシステムを個人で運用することは出来ません。公の施設に頼らなければいけないでしょう。コントロールするソフトウェアSpat Revolutionの事も少し分かってきましたが私には自由に使える時間は与えられていないのかもしれません。本当に長い時間がかかってしまったけれどようやくとうとう私の時代が来たのだと最初少し思ったのですが、どうも現実はそうではないという事も見えてきました。私個人としては8chから16chくらいまでが実際に手の届く作業が可能な世界です。当面はその範囲で仕事をして、大きなイマーシブ空間を求めるときはSpat Revolutionにそのデータを移植あるいは変換することになるのかもしれません。今の私にその環境はありません。何度かSpat Revolutionの編集の現場をみせて頂きましたが現状に少し不安がありました。というのは回転するとか同じようなパターンの多用に陥ってしまいそうな傾向を感じました。MAXやこのSpat Revolutionが無かった時代は音を回転させることが出来ないわけではないけれど大変苦労する作業でした。それがやり方を覚えればこんなに楽に出来るとなれば、つい多用してしまうというところに落ち込みそうです。とはいえ本当に良い時代が来たとも言えます。しかしながら低所得者には無縁な世界として離れていきそうです。

[追記]
2024年7月18日のコンサートではプログラムが配布されていましたが、私に無断で、私の意志で作品の曲順を変更したと受け取れる様な表記になっていました。作品の曲順は変更していません。テープの物理的な作業の都合で録音された順番のまま演奏したのです。結果は、閉じ込められた空間で聴く人にとってはなかなか良い順番ではありました。しかしCDで聴く場合は本来の順番で聴いて欲しいのです。CDの場合はいつでも自由に好きなところを聴くことができます。異なった順番の表記が複数あっては困るのです。1番目に演奏したのは第3曲「水」、2番目に演奏したのは第1曲「波」、3番目は第2曲「音」でした。
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平石博一(ひらいし・ひろかず)1948年生。独学で作曲を修得。70年代から80年代にかけて主にポピュラー・ミュージック、商業音楽系の作編曲やレコーディングの指揮などを行う一方、自作の発表を行うという独自の活動を展開してきた。
ミュージック・スペースというグループ展で作品を初めて発表した72年から一貫してミニマル・ミュージック的な作風を追求し続けてきた。作品はピアノ曲などの独奏曲、弦楽四重奏をはじめとする室内楽からオーケストラ、さらに電子音楽など幅広くあるが、93年制作の「回転する時間(とき)」にみられるようなある種のテクノ・ミュージック、ハウス・ミュージックとも呼べる作風も多く生み出している。
舞踏ダンサーや映像作家とのコラボレーションによるステージのための音楽も数多く制作してきたが、近年は美術家とのコラボレーションによる音楽制作、空間音楽パフォーマンスを継続して展開している。
1999年の秋から2000年の夏にかけてACC(ASIAN CULTURAL COUNCIL /An Affiliate of the Rockefeller Brothers Fund)の奨学金を得てニューヨークに滞在、パフォーマンス等を行ってきた。

関連評|7月の3公演短評|齋藤俊夫