日本フィルハーモニー交響楽団 第773回東京定期演奏会|秋元陽平
日本フィルハーモニー交響楽団 第773回東京定期演奏会|秋元陽平
Japan Philharmonic Orchestra 773th Subscription concert
2025年9月12日 サントリーホール
2025/9/12 Suntory Hall
Reviewed by 秋元陽平(Yohei Akimoto)
Photos by ©山口敦
〈プログラム〉
マーラー 交響曲第6番《悲劇的》イ短調
〈演奏〉
カーチュン・ウォン(指揮)
日本フィルハーモニー交響楽団
なんと生命感に満ち溢れた6番だろう。悲劇的というよりは青春の巨人でさえある——妙なことだがそう思った。すべてゲシュペルト(隔字)で綴られ強調されたドイツ語のようにずっしりと遅く重い第一楽章からすでに、運命の重圧というよりはむしろ、使命感に満ちた軍隊の行進のようで、筋肉が躍動し、爽やかな汗が飛び散って陽光に煌めくようだ。アルマのテーマが導入される時には腕をぐるぐると振って弦のメロディがきれいな廻旋をともなって出て来られるよう通路を作るカーチュンは間違いなく戦場を知悉した頼れる指揮官であり、音楽の助産師であり、マーラーの多重的な音楽を担うすべてのパートの前に顔を出し、激励する。オーケストラのうちにあって彼はこうしてたぐいまれな求心力を持ち、グルーヴを生み出す。突き刺さるようなティンパニ、ハープの低弦からコントラファゴットまで、マーラーのオーケストレーションの特色を尖らせて彩度の高い音像をつくりだす日フィルの手腕も素晴らしい。第三楽章、アンダンテ・モデラートの見事な歌はとくにこの公演のハイライトと言って良いだろう。
だが指揮者が八面六臂を発揮して全てのパートの司令官となることで、その場その場は次々と彼を筆頭に波乱に立ち向かうオーケストラを追いかけることに飽きないとはいえ、俯瞰したところから(いわばwie aus der Ferneだ)マーラーの音楽を眺めたときに現れるはずのさまざまな距離感が少しぼやけてしまうところもあるように思う。6番でお馴染みのカウベルをわたしは本場のスイスアルプスの山中で何度も聴いたが、谷底にいる豆粒ほどの大きさに見える遠くの牛の首についたその音が、驚くほど近くで聞こえることに驚いた。カウベルの導入は単なる牧歌趣味ではなく、マーラーが音楽のうちに俯瞰的な、ほとんど冷酷なほどの距離感を取り入れようとしたことの象徴であろう。今後カーチュンのめまぐるしいタクトに日フィルが機敏に応える緊迫したやりとりの中にもう少し余裕が生まれれば、マーラーの音楽のうちにこの超然としたまなざしが差し込まれ、いわば末期(まつご)の眼が開眼するかもしれない、と期待している。
とはいえこのような欲張った願望じたい、カーチュン・ウォンと日フィルの気迫に何か尋常ならざるものを感じることの裏返しに他ならない。カーチュン・ウォンという音楽家の根底にある明るさ、正のエネルギーというのは凄まじいもので、スコアのどこを切っても血しぶきのように生きた旋律がほとばしる。かなり強調的な指示においてもわざとらしさがない。音楽がよどまない。
それだけに私はこの正の波動がマーラーの屈託をいくらか洗い清めてしまうかもしれないという懸念を抱いて聴き始め、実際その懸念はまったく的外れではないと思うのだが、ひとたびこの力強く生命を讃えるエネルギーの波濤を浴びると、私のように<死>の側のマーラーが好きな聴衆でさえも、終わりにはなんとなく清々しい満足感でコンサートホールを出ることができてしまう。現段階ではまだ指揮者がオーケストラを引っ張っているという感覚があるが、日フィルの凄みが増している以上、今後カーチュンの要求はこれまでとはさらに別水準となることが予想される(そもそも、私が聴けなかった翌日の同演目からして、すでに別水準にあったという声を複数聞いた!)。こうして彼らはいま日本で聴くことのできるマーラー演奏としては、現時点の聴き応えと将来性を合わせて最も気になる組み合わせといってよい。
(2025/10/15)