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小人閑居為不善日記 |訂正し続けた男──ロバート・レッドフォード追悼 |noirse

訂正し続けた男──ロバート・レッドフォード追悼
 The Man Who Kept Correcting 

Text by noirse : Guest

《ヴィンランド・サガ》、《ワン・バトル・アフター・アナザー》、《追憶》、
《ランナウェイ/逃亡者》、《アンフィニッシュ・ライフ》の内容について触れています 

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20年に渡って連載された幸村誠のマンガ《ヴィンランド・サガ》(2005-25)が完結、単行本最終巻が刊行された。物語は1000年前のアイスランドから始まる。尊敬する父親を殺され復讐心に取り憑かれた少年トルフィンはヴァイキングに身を投じ、人を殺すことに躊躇しない冷血の戦士へと成長する。けれども度重なる戦いの果てに復讐という目的を見失い、自らが犯した罪に苦しむ。やがて立ち直ったトルフィンは罪を償うためにかつて父親が口にしていた海の向こうの地、ヴィンランドに争いのない国をつくることを決意する。

ヴィンランドとはアメリカ北部のことで、《ヴィンランド・サガ》はアイスランド人によるアメリカ植民に材を採っている。植民先はニューファンドランド島というのが最有力候補らしいが、《赤毛のアン》の舞台であるプリンス・エドワード島も候補のひとつで、《ヴィンランド・サガ》はPE島を想定して描かれている。アメリカ大陸は一般的にコロンブスが「発見」したと言われているが、その500年も前にアイスランド人が先に到達していたのだ。だがトルフィン率いる入植者たちはヴィンランドの先住民との争いを避けることができず、平和な国を築く夢は困難を極める。

傑作なのは間違いない。けれども、理想化された物語に思えてしまうのも確かだ。たとえば戦いの可否を住民に問う場面がある。男はほとんど賛成に回るが、女は全員が反対する。男が勝手に戦争を決め、女はその犠牲になるばかりだとはっきり声を挙げる彼女たちの姿は、MeToo運動を経た現在にふさわしい作品と映るだろう。しかし女性と言っても一様ではないし、現実には戦争賛成に回る人もいるはずだ。

もちろん人間の多様なありかたをひとつひとつ拾っていては、理想を描くことは難しい。《ヴィンランド・サガ》はそうした複雑さをある程度切り捨て、一種の寓話として構想されている。では複雑化を極めた現在、理想を語ることはどのように作品にできるのだろうか。

 

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映画《ワン・バトル・アフター・アナザー》(2025)を見た。三大映画祭すべてで監督賞を受賞している唯一の監督、ポール・トーマス・アンダーソンの新作だ。

極左テロリストグループ、フレンチ75の一員パットは、同グループのパーフィディアとパートナー関係を結んでいる。彼らは移民収容所を襲撃するが、それによりパーフィディアは収容所の指揮官ロックジョーから異様な執着を買う。彼女はロックジョーの脅迫に遭い、性的関係を強要される。

パーフィディアは女児を出産するが、家族を優先させようとするパットの言葉は届かず、さらにテロ活動に打ち込む。その結果パーフィディアは逮捕されるが、彼女は仲間を売り渡し、刑務所入りを免れる。フレンチ75のメンバーは次々と殺され、パットはボブと名前を変えて潜伏生活に突入。パーフィディアはメキシコに逃亡し、ロックジョーの前から姿を消す。

16年後。ロックジョーは白人至上主義者エリートによる秘密結社に加入する機会を得る。ずっと待ち望んでいたチャンスだったが、黒人のパーフィディアとの関係が漏れれば台無しになりかねず、彼女の娘・ウィラを捕まえるため軍隊を出動させる。パーフィディアに裏切られて酒とドラッグに溺れる生活を続けていたボブは、ウィラを助けるために一念発起する。

舞台は現代だが、社会的なテーマ、テロリストの主人公、CGなしのカーチェイスをふんだんにあしらったアクションなどは、かつてのアメリカン・ニューシネマを彷彿とさせる。近年、《ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド》(2016)、《30年後の同窓会》(2017)、《ジョーカー》(2019)と続編の《ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ》(2024)、《ホールドオーバーズ 置いてけぼりのホリディ》(2023)、《名もなき者/A COMPLETE UNKNOWN》(2024)など、ニューシネマ、もしくはニューシネマの時代を想起させる映画が目立っている。アンダーソンも、70年代初頭のロサンゼルスを描いた《インヒアレント・ヴァイス》(2014)や《リコリス・ピザ》(2021)など、ニューシネマの香りが漂う作品を手掛けている。

こう並べると、ともするとノスタルジーと感じられるかもしれない。それも間違いではないだろうが、ニューシネマをリスペクトするのと同時に、それらの作品を批判的に見つめ直し、アメリカ映画史を書き換えようとする試みでもあるだろう。たとえば《ジョーカー》は《タクシードライバー》(1976)や《キング・オブ・コメディ》(1983)を現代の社会状況や情報環境に沿った作品につくり変え、現代を象徴する寓話へと変換することに成功した。《地獄の黙示録》(1979)の想像力を用いてアメリカ内戦を幻視した《シビル・ウォー アメリカ最後の日》(2024)もここに加えていいだろう。

 

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では《ワン・バトル・アフター・アナザー》はどのような試みに挑んでいるのか。ボブは少々頼りないが、過酷な状況でも困難に立ち向かう娘のウィラは、カリスマだった母親の精神を受け継いでいる。けれどもウィラはパーフィディアとは違い、家族をないがしろにして盲進するようなことはしない。すべてが終わったあとウィラは、父との生活を大切にしたまま、軽やかに社会運動に駆けつけていく。

パーフィディアは家庭よりも過激な政治運動を優先させたが、その行動は結果的に彼女自身のみならず、組織まで破滅に追い込んでしまう。つまり短期的な運動に潰えてしまったのに比べ、無理せずカジュアルに運動に関わっていくウィラのほうが、持続的な社会変革運動として評価できるだろう。

このような母娘の対比からは、ニューシネマへの批判的な含みも感じられる。社会批判、リアリズム、アンチハッピーエンドなどにこだわったニューシネマは、10年ほどで消費期限が切れてしまい、70年代後半からはスピルバーグや《スター・ウォーズ》(1977)に代表される娯楽映画にその座を奪われていった。つまりニューシネマは、理想を掲げて立ち上がったまではよかったが、展望や計画性に欠けていたため、持続的な定着にまでは至らなかったと言える。今のアメリカ映画は続編やリブート、もしくはアメコミヒーロー映画ばかりになってしまったという声も少なくないが、《ワン・バトル・アフター・アナザー》はニューシネマに批判的な目線を注ぎつつも、現代ハリウッドでは少なくなった硬派なポリティカル・サスペンス・アクションを──ありえたはずの「2025年のニューシネマ」を再興したとも言えるだろう。

とはいえ強く正しく美しいウィラが、2025年の女性像にふさわしい、理想化されたキャラクターに仕立て上げられているように思えるのも確かだ。その点では同じように理想化された《ヴィンランド・サガ》の女性たちに似ている。

ここで《ヴィンランド・サガ》を挙げたのは偶然ではない。《ワン・バトル・アフター・アナザー》は《インヒアレント・ヴァイス》に続くトマス・ピンチョン作品の映画化で、今回は《ヴァインランド》(1990)を参照元にしている。ヴァインランドとはカリフォルニア北部にあるという架空の地で、ピンチョンはヴァインランドへの旅を通して闘争と抵抗の歴史を炙り出していった。

ヴァインランドという名前は、ヴィンランドから採ったものだ。《ヴァインランド》で語られる闘争の歴史と《ヴィンランド・サガ》での平和を目指す苦闘は、似たような想像力のもとに立脚している。

けれども《ヴァインランド》があまりに長大すぎたためか、あくまで映画化ではなく参照に留めていて、ピンチョンが意図した重層的なイメージが立ち上がってくることはない。その結果残ったのは持続的な政治運動を称揚するという穏当な結末で、肩透かしの感がなくもない。そもそもその程度のことは、ロバート・レッドフォードが何度も語っているのである。

 

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9月16日、ロバート・レッドフォードが世を去った。享年89歳。ポール・ニューマンと共演した《明日に向って撃て!》(1969)の銀行強盗サンダンス・キッド役でニューシネマを代表する俳優となったが、整ったルックスもあり、ニューシネマ的な性格俳優というよりもそれ以前のハリウッドの伝統に連なるスター俳優として売り出されることも多かったが、彼自身はそうしたイメージを嫌っていた。

政治信条はリベラルで、環境保護活動に熱心に取り組み、基本的に民主党支持。ハリウッドの慣習にもしばしば反発し、代表作《追憶》(1973)でも当時すでに大スターだったバーブラ・ストライサンドの引き立て役というポジションに納得できず、バーブラや脚本家と衝突した。

社会的なテーマを好み、《候補者ビル・マッケイ》(1972)や《大統領の陰謀》(1976)の製作に取り組んで、これらの演技は高い評価を受けた。その後監督業に進出、平凡な市井の人間を描いた監督デビュー作《普通の人々》(1980)でアカデミー作品賞を受賞。同時期にユタ州に土地を購入、自宅を構えてハリウッドから距離を置き、さらに同地にてサンダンス映画祭を立ち上げ、若手監督への支援を行い、主流の映画業界へのカウンターとして機能させていった。

このように、レッドフォードのキャリアは常にハリウッドとの距離を感じさせるものだった。けれども彼の意図が反映された《大統領の陰謀》や《普通の人々》より、そうではない《追憶》のほうが、かえってレッドフォードという人物をよく表している。

映画は1930年代のニューヨークから始まる。バーブラ演じるケイティは学生ながら共産主義組織のリーダーで、レッドフォード演じる作家志望のハベルと出会う。ハベルはノンポリのWASPだったが、政治運動に打ち込むケイティに感銘を受け、やがてふたりは結婚する。ハベルはハリウッドで脚本の仕事を得てロサンゼルスに移住、娘もでき安定した生活を手にしたように見えたが、家庭を優先させたいハベルと政治運動を捨てることのできないケイティは意見が合わず、ふたりは離婚する。

ケイティとハベルの関係は《ワン・バトル・アフター・アナザー》と同じ図式を描いているが、メロドラマではこの程度の確執はさほどめずらしくない。興味深いのは、レッドフォードがその後何度もこの図を反復している点だ。

典型的なのは監督・主演をこなした《ランナウェイ/逃亡者》(2012)だ。レッドフォードが演じるのは元ウェザーマン──実在した左翼テロ組織──のメンバーで、銀行襲撃と守衛殺害の容疑で指名手配されながら、身を隠して弁護士として生活している。同じように潜伏していたメンバーの逮捕をきっかけに正体が露見、ふたたび追われる身となるが、娘の未来に影響が出ることを恐れ、娘の母親であり、同じように逃亡生活を続けるかつての恋人に、出頭するよう説得を試みる。

レッドフォードはここで、恋愛がメインだった《追憶》で半端に終わった政治運動と家庭の関係を突き詰めようとしている。他にもポール・ニューマンが相棒役を務める予定だった──彼の死によって実現しなかった──《ロング・トレイル!》(2015)、サンダンス・キッドを彷彿とさせる年老いた銀行強盗犯を演じた《さらば愛しきアウトロー》(2018)の、《明日に向って撃て!》の精神的続編と呼べる二作品でも、若かったころの反抗的なイメージにしがみつく無謀な行為と、妻や恋人との生活を天秤にかける話となっていた。

さらにレッドフォードは、当時は出演を嫌がっていた《追憶》の続編を企画していた。ハベルとケイティの娘を交え、やはり政治運動を背景にした作品になる予定だったらしく、彼がこの関係性に固執していたことがよくわかる。

とはいえ《ランナウェイ》も《ワン・バトル・アフター・アナザー》と同じく政治運動より家族を選択するという穏当な結論で、テーマの深掘りという点では不満が残る。けれどもレッドフォードの後期作品群と並べてみると、ある実践が浮かび上がってくる。

 

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特筆すべきなのは、八百長に手を染めたクイズ王のスキャンダルを取り上げた《クイズ・ショウ》(1994)や、曖昧なエビデンスを信じ誤報事件を起こしたアンカーマンの役を演じた《ニュースの真相》(2015)など、レッドフォードが「間違いを訂正すること」という主題を繰り返し取り上げていた点だ。これらの作品では誤った道を選んでしまった男が自らの間違いを受け入れようとする苦渋の姿が描かれている。こうした訂正という主題と《追憶》で描かれた関係性とが合流したのが《ランナウェイ》だったと言えよう。

レッドフォードがこだわったのは、彼らの世代が熱狂した政治運動への内省だろう。政治の時代をノスタルジックに回顧する作品は少なくないが、あれは間違っていたかもしれないと省察した作品はあまりないし、レッドフォードのようにそれにこだわり続けた監督は、おそらく他にいないだろう。

ここでさらに彼の作品のもうひとつの特徴について振り返っておく必要がある。一般的に監督としてのレッドフォードの評価を定めているのは、《リバー・ランズ・スルー・イット》(1992)や《モンタナの風に抱かれて》(1998)のような、豊かな自然を背景に昔気質な男たちの不器用な生きかたを叙情的に描いた作品だった。

レッドフォードはカリフォルニア出身だが幼少期をテキサスの祖父の家で過ごす機会が多く、スポーツや乗馬に熱中する若者に育った。ハリウッドの頂点を極めながらユタ州の田舎に引っ込んだのもこうした嗜好が関係していたはずだ。《大いなる勇者》(1972)や《アンフィニッシュ・ライフ》(2005)など、田舎の古風で頑固な男の役を請け負うことも多い。

また彼はアイリッシュの血を引いていた。アイリッシュで古風で頑固とくれば、保守派で知られたジョン・ウェインと大差ない。盟友ポール・ニューマンによれば、レッドフォードは「おそろしく負けず嫌いで、つねに一番になりたがる男だし、力を持ちたがっているし、勝ちたがっても」いるような人物だった(ミンティー・クリンチ《ロバート・レッドフォード》)。スターにはよくある話だが、リベラリストではあっても、実際にはリバタリアンとしての面も併せ持っていたのだろう。

レッドフォードは自らがアメリカのオールドタイプな男であることを自覚していたフシがある。《アンフィニッシュ・ライフ》を見てみよう。レッドフォードが演じるのは、ワイオミング州の田舎に住む頑固で年老いた男、アイナー。彼のもとに、アイナーの息子の妻だったジーンとその娘が、ジーンの恋人のDVから逃れるためにやってくる。アイナーは、ジーンの飲酒運転による事故で息子が死んでしまったことを許せないでいたが、助けないわけにもいかない。ふたりは次第に和解の道を歩んでいく。

どうということもない話だが、重要なのは熊というモチーフだ。アイナーにはミッチという長年の友人がいたが、アイナーが酔っ払っているあいだに熊に襲われ重傷を負い、歩けなくなってしまう。以来アイナーは、罪悪感も手伝ってミッチを介護する毎日を送っていた。熊は捕獲され、動物園へと連れて行かれるが、アイナーは熊を檻から解放しようと計画する。

平凡な物語の中で唯一目立つのがこの熊のくだりである。熊はアイナーの有害な男性性の象徴で、アイナーの悪癖が友人を傷つけ、ジーンを遠ざけてしまったことを示している。であれば「熊」は心の檻の中に囲い込んでおくべきだろうが、古風で単純な男であるがゆえに、暴力男からジーンを助けるには強い手段に出ることしかできない。自らの中の「熊」をふたたび解放することで、アイナーは男として立ち直り、ふたたび家庭を獲得していくのである。

 

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同じように《ワン・バトル・アフター・アナザー》での穏当な結末を覆すポテンシャルを秘めているのは、過激なテロ行為に邁進し、仲間を裏切るパーフィディアだ。彼女はロックショーに脅され、身体を要求されるが、その行為を愉しんでいるようでもある。そもそもロックショーがパーフィディアに取り憑かれたのも、収容所を襲撃した際に、彼女が銃を突きつけながら、彼にマスターべーションを強要したことに起因する。

パーフィディアに政治的な信念があったのは確かだが、一方で彼女は明らかにテロ行為を愉しんでいる。ロックショーが暴走したのも、ウィラやボブが逃げ回る羽目に陥るのも、もとはと言えばパーフィディアの性衝動と暴力性に振り回された結果だ。この映画は、彼女のテロ行為は衝動の結果で、それにより肝心の政治運動が短期的に留まってしまったことをあらわにしている。けれども同時に、崇高な理念の裏側で欲望に絡め取られていく自分を止められないパーフィディアを──そのような人間の愚かさ、どうしようもなさを肯定しているようでもある。

レッドフォードの内省も同様の疑問のもとにあるだろう。かつての過激な政治運動は衝動的な行為であり、周囲に迷惑をかけたのならば残された時間をその修復に努めなければならない。けれども社会より家庭を優先し、それによって自らも充足するということは、すなわち自分の男性性を満足させることでもあり、若かりしころに批判してきた閉鎖的な行為であって、そうしたエゴが積み重なってアメリカという国家を形成しているのではないか。そういった批判意識を、彼は忘れたわけではないだろう。

男のエゴを捨て去ることは、ハリウッドのセックスシンボルとして一時代を築き上げ、サンダンスでインディペンデント映画の「父」として君臨するレッドフォードにはできるまい。彼の後期作品が内省的でありつつも硬直しており、それ以上の殻を突破できないのは、このようなアンビバレントな感情によるものでもあるだろう。

このような矛盾したありかたもまたニューシネマに重なっていく。ニューシネマは旧態依然としたハリウッドへ反旗を翻したが、《明日に向って撃て!》を始めとして滅びゆく男の美学を描いた作品も多く、その点どこが旧弊なハリウッド映画と異なるのかは曖昧だ。かつてサンダンス・キッドが撃っていた相手は、年老いた自分自身のことだった。レッドフォードはどこかの時点で、こうした隘路に気付いたのだ。

哲学者の東浩紀は著書《訂正可能性の哲学》で、「ぼくたちは家族しかつくれない」し、「閉じた社会しかつくれない」が、「遡行的な訂正可能性によってつねに開かれた社会への圧力がかけられている」と述べる。後期レッドフォード作品はとりたてて非凡なわけではない。けれども彼は繰り返し訂正し続けることで、持続的な社会運動と家族の調和を目指していたのではないか。そしてそれは若かりしころの、開かれた社会を目指していたリベラルな自分と、小さい共同体の中に閉じこもろうとする年老いた自分の融和を目指す試みでもあったのではないか。

トルフィンが夢見た平和の地、ヴィンランドは何処にも存在しない。ピンチョンが描いたヴァインランドも同様だ。人間というのはパーフィディアのように、あるいはレッドフォードのように、矛盾に満ちた存在だからだ。だからこそ晩年に至るまで訂正することを繰り返し説いたレッドフォードの作品群には、振り返るべき価値があるように思えるのだ。

(2025/10/15)

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noirse
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