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発酵する古楽 〜 柴田俊幸 & アンソニー・ロマニウク ライブ〜| 大田美佐子  

発酵する古楽 〜 柴田俊幸 & アンソニー・ロマニウク ライブ〜| 大田美佐子

 2025年8月23日  神戸酒心館ホール
2025/8/23 Kobe Shushinkan Hall
Reviewed by 大田美佐子 (Misako Ohta)
 
写真提供:(公財)神戸市民文化振興財団

<演奏者>
柴田俊幸 (フラウト・トラヴェルソ)
アンソニー・ロマニウク (フォルテピアノ) 

<曲目>
柴田=ロマニウク: サラバンドによるファンタジア(J.S.バッハ 無伴奏フルートのためのパルティータBWV1013 サラバンドに基づく) 

J.S.バッハ: ソナタ ハ長調 BWV1033 

チックコリア: チルドレンズ・ソングより #7 

J.S. バッハ: ソナタ ホ長調 BWV1035 

フィリップ・グラス: ファザード 

J.S. バッハ: ソナタ ロ短調 BWV1030 

柴田=ロマニウク: アンダンテによるファンタジア (J.S.バッハ:トリオ・ソナタBWV 528 第二曲 アンダンテにもとづく) 

坂本龍一:  戦場のメリークリスマスより Merry Christmas Mr.Lawrence 

 アンコール 

J.S.バッハ: フルートとオブリガート・チェンバロのためのソナタBWV1031より「シチリアーノ」(ヴィルヘルム・ケンプ編) 

 

夏の蒸し暑さと同時に、が吹けば晩夏の気配も感じる。「宮水」に導かれた日本を代表する酒どころ、灘の酒心館ホールで、「発酵する古楽」というタイトルのライブを聴いた。 

企画は4年に一度神戸で開催される国際フルートコンクールを基盤にした「神戸国際音楽祭」の一環でもあり、フルート音楽の懐の深さも感じさせる。「発酵する古楽」で演奏されるのは、木の温もりのあるフラウト・トラヴェルソ。ピアノは現代のピアノではなく、18世紀に生きたゴットフリート・ジルバーマンのフォルテピアノに基づいて製作された楽器である。筆者は柴田とロマニウクについて、昨年の箕面のメープルホールでの演奏会の評判を聞いていた。特にチェンバロから電子ピアノまで異なる鍵盤楽器を自在に操り、ジャンルを越境したピアニストだというロマニウクは、まさにクロスオーバーな時代の寵児なのだろうと想像していた。 

となれば、事前の情報をなるべく遮断し、まっさらな状態で会場に向かった。実はフライヤーの限定的な情報から、頭のなかでは、古楽から現代アクロバティックな越境を想像していた。しかし、実際に触れた演奏は極めて繊細で自然体で奏でられる内省的な光を感じるバッハ、そして意外なほど摩擦がなく、シームレスなバッハと現代の音との往来であった。あえてプログラムに曲目が掲載されていなかったのは、聴衆が予定調和的に音と出会うのを回避し、「ライブ=今」で音と出会えるように、とのメッセージなのか..。とにかく、どんな音楽に出会えるのか、ドキドキしながら聴いていた。 

酒心館の木の温もりが感じられる空間で、穏やかに時間は流れた。異なる編成の楽曲を彼ら自身の手でデュオ用に設え直したパルティータのサラバンドから、短いハ長調のソナタ、そして戯れるように、流れるようにチック・コリアの《チルドレンズ・ソング》へ。この二人のデュオは、バッハの演奏において、縦のパルスよりも、横方向に走るそれぞれの歌から生まれる自由なグルーヴ感が素晴らしい。たとえば、《ソナタホ長調》の二楽章の舞曲では、柴田はロマニウクとコンタクトを取りながらも、速いパッセージでより自由に歌っている。一見舌足らずにも聴こえる二人のそれぞれのパルスの柔軟な自由さが、「ギャラント」な様式とその精神を想起させ、私にとっては新鮮なバッハだった。次々と景色が変わっていくようなフィリップ・グラスのあのミニマルな《ファサード》も、バッハのロ短調のソナタに挟まれて演奏されると、どこか素朴な叙情性を帯びる。そしてファンタジアの後に続いたラスト、フラウト・トラヴェルソとフォルテピアノで奏される坂本龍一は、楽器が持つ音色の魔術からか、もはや意外なほどバッハとの近似性を感じさせ、すでにオリジナルとはまったく別物の、別の世紀からやってきた音楽のように聞こえた。 

 間の休憩もなく、まるで杜氏が守る酒造りのプロセスのように、ある種のストイックさでバッハを中心に奏で続けた二人だったが、柴田がアンコールの前に聴衆に語りかけると、目の前の出来事を予定調和でなく受け止め続けた観客席の空気も一気に緩んだようだった。曲目を告げないメッセージは功を奏したのかもしれない。 

今回の彼らのライブ全体に感じたのは、古楽から現代を照らすラディカルなコントラストというより、古楽から現代へと続く多元性と一貫性である。そのパラドクシカルな要素を結ぶのは、奏者の柔らかく構えた身体。そうしてフォルテピアノとフラウト・トラヴェルソの息遣いと温もりのある響きに身を任せているうちに、受け手の呼吸のなかで、既存のイメージを超えて新しいものも古いものも溶け合っていく。この包摂的な音楽の世界観は、あらゆる細分化で疲弊する現代人にとって、音楽によるある種の「ケア」のような存在と言ってもいいのではないか・・。 

(2025/9/15)