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紀尾井ホール室内管弦楽団 第143回定期演奏会|秋元陽平

紀尾井ホール室内管弦楽団 第143回定期演奏会
Kioi Hall 143th subscription concert

2025年7月5日 日本製鉄紀尾井ホール
2025/7/5 Nippon Steel Kioi Hall
Reviewed by 秋元陽平(Yohei Akimoto)
Photos by © Tomoko Hidaki

〈演奏〉
トレヴァー・ピノック(指揮)
アレクサンドラ・ドヴガン(ピアノ)
紀尾井ホール室内管弦楽団

〈プログラム〉
ラヴェル:クープランの墓[ラヴェル生誕150周年記念]
ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第4番ト長調 op.58
メンデルスゾーン:交響曲第4番イ長調《イタリア》op.90, MWV N 16

 

トレヴァー・ピノック&KCOの持ち味は曲目によって大きく変わるのだが、クールで恬淡とした『クープランの墓』のアプローチは理想的だ。ラヴェルの新古典主義的感性の結晶とも言えるこの組曲は、作曲家当人による精妙なアレンジにもかかわらず、ガラス細工のようなピアノ原曲に比してオーケストラがtuttiをはじめ幾つかの箇所で重くなりすぎ、実演では狙った効果が得られないことも多いように思うのだが、ピノックの自然体かつ円滑な先導はこのような悪しき「ドラマ化」とは無縁だ。とくに美しいのは「メヌエット」。ピアノ独奏時にはむしろ慎ましやかな魅力を湛えるこの小品は、諸声部の動きの対比が異なる色彩で強調され、オーケストラ版では絢爛とした華やかさがある。締めくくりのセヴンスメジャーは、ラヴェルにしかできない雅な幕切れだ。
アレクサンドラ・ドヴガンを迎えたベートーヴェンは、ときにはヴェールのかかったppのなかで揺蕩うプライヴェートな、そして同時に心の奥底から宇宙へ直結する神秘的なベートーヴェンだ。バックハウスの骨格のはっきりした録音から幾星霜といった趣だが、この隔たりはむしろベートーヴェンの音楽の中でできることの広さを痛感させる。ドヴガンの若さについて今更強調する必要はないだろう、すでに第一級の表現者なのだから。この第4番は捉え方によっては優美で装飾的、いわば古典主義的に見えるようなフレーズも数多いのだが、ドヴガンはそこにひそむ執拗さを感じ取り、その過剰なエネルギーを少しずつ汲み出し、それを心の内側で深めていくような演奏だ。オーケストラは必然、ピアニストとの対話へと誘い込まれる。交響的な音楽は、その内側にたったひとりの世界を二重の膜のようにして抱え込む。第2楽章、ドヴガンの静かな問いかけは絶えずオーケストラに反響し、ホールが静かな森になったかのようだ。第3楽章冒頭は、ソリストはまるでショパンの協奏曲のように、典雅な機敏さを見せる。つくづくベートーヴェンの音楽は、ただ作曲者の思い描く創作物としての音楽にとどまらない。それは演奏者の持つ内面世界のプリズムなのだ。
わたしは思想家だったメンデルスゾーンの祖父、モーゼスの書き物をいくつか読んだことがあるが、彼は当代の大哲学者ヴォルフから、多様なものの統一、という美学の基本原則を受け取り、それに基づいて悲劇や友情について情熱的に論じている。さて、この原則は孫のフェリックスの作品にも生きているように思われる。演奏会の驥尾をかざる『イタリア』で彼の作曲技巧は流麗をきわめ、激流から小川のせせらぎまで、うつりゆく風景の多様さが聴衆を誘うのだが、それらの風景はじつのところすべてより大きな一枚の絵のうちにあり、額縁へと整然と嵌め込まれてゆく、その整序の喜び、統一の知的な喜びというのも大きいのだ。祖父モーゼスの時代であれば、この美しさを完全性 Vollkommenheit に準えたであろう。ベートーヴェンであればどこか不気味な未知の広がりをもつリズム動機や信号動機も、メンデルスゾーンにあってはどこかこの秩序のうちなるはつらつとした美しさを持つ。そう、ピノックのタクトはこの音楽に心拍としか呼びようのない律動を与えるのだ。決してよどまず、ひとつの流れがゆるがず、しかしながら機械的ではなく、感情と連動している、その意味での心拍。複雑な陰影を持った内面を、しかし闊達な社交の精神で包み込むような、そうした芸術家としてメンデルスゾーンには、ピノックのようなひとの導きがふさわしいのかもしれない。

(2025/8/15)