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小人閑居為不善日記|高畑勲、いつわりの世界|noirse

高畑勲、いつわりの世界
“Only Yesterday” and “Grave of the Fireflies” 

Text by noirse : Guest

《機動戦士Gundam GQuuuuuuX》の内容について触れています 

 

1

遅ればせながら《ミッション:インポッシブル/ファイナル・レコニング》(2025)を見た。言わずとしれたトム・クルーズの大ヒットシリーズの、今のところ完結編ということになっている。そのせいかこれまで登場した印象深い人物やアイテムがところどころに顔を出して、ずっと作品を追いかけてきたファンを歓待するようにもなっていた。シリーズ開始はおよそ30年前、現在63歳のトムも当時は33歳。ここらで人生ひとくぎりという意味合いも込められているのだろう。

話題作となったTVアニメ《機動戦士Gundam GQuuuuuuX》(2025)からも同じことが窺える。《機動戦士ガンダム》(1979-80)シリーズのパラレルワールドを描いた作品で、不遇の死を遂げた人気キャラが救済される展開に喜ぶファンの言葉がSNS上で飛び交った。初代ガンダムの放送に十代後半で出逢っていれば今は60代、トムと同世代だ。《GQuuuuuuX》の制作陣、監督の鶴巻和哉や脚本の榎戸洋司、庵野秀明も同じくらいの年齢で、ガンダムを彼らなりに振り返り、この先後悔しないような結末を与えたかった、そういった思惑が汲み取れる。

1980年代は好景気もあってか、今でも人気のある作品やカルチャーをたくさん生み出した時代だ。それらの恩恵を受けその後キャリアを積み重ねていった世代が一度立ち止まって過去を見つめ直す、そういったタイミングなのかもしれない。若い世代からすれば年寄りの懐古趣味と映るかもしれないが、彼らからすれば必要な儀式なのだろう。

前後して、麻布台ヒルズで行われている〈高畑勲展――日本のアニメーションを作った男。〉を見に行った。東映動画、日本アニメーション、テレコムなどを渡り歩き、ジブリで《火垂るの墓》(1988)、《平成狸合戦ぽんぽこ》(1994)、《かぐや姫の物語》(2013)などを制作、相棒でもあった宮崎駿にも大きな影響を与え、今では海外でも高く評価される巨匠の回顧展だ。

手掛けた作品の資料を順を追って展示するというコンセプトは2019年に東京国立近代美術館で開催された〈高畑勲展――日本のアニメーションに遺したもの〉と変わらないが、それもいたしかたないだろう。高畑はいわゆる職人監督で、作家の個性を優先させるタイプではない。日本を代表する他のアニメ監督、たとえば宮崎や富野由悠季、押井守らとは違い、独自のヴィジュアルや世界観などを強調したりはしない。多趣味な宮崎なら飛行艇やミリタリー、児童文学というように複数の切り口が考えられるが、高畑はそういうトピックに乏しい。作品の資料を並べる以外のアプローチが考えにくく、そのような工夫によって本人像が浮かび上がるような作家ではない。

もちろん作品を見る上で本人の趣味嗜好や私生活など必要ないという見かたもあるし、おそらくはそのほうが正しいのだろう。宮崎が《風立ちぬ》(2013)で父親を、《君たちはどう生きるか》(2023)で自身を投影したような作品を手掛けることは高畑には考えられなかったし、そうしたアティチュードを考えると、彼の残影を拾い集めるようなこともよくないのかもしれない。けれども高畑の作品を繰り返し見てきた人間としては、どうしてもそのような俗っぽい関心を抱くことを抑えられないものでもあった。

けれどもあらためて《おもひでぽろぽろ》(1991)を見直して、この作品には高畑の真情が隠されているのではないかと思った。この映画のラストシーンからわたしは《ファイナル・レコニング》を連想したのだが、そこに高畑の世界観が凝縮されているのではないかと感じたのである。

 

2

《おもひでぽろぽろ》は同名マンガが原作で、1966年を舞台に小学5年生のタエ子の平凡な日常を綴っている。ところが高畑は映画化に際して、1982年、会社員として働く27歳のタエ子のパートを追加した。生まれも育ちも東京で田舎の生活に憧れていたタエ子は山形の義兄の農家で紅花摘みを手伝うため休暇を取り、寝台列車へ乗り込む。けれども何故か小学生だったころの記憶が次から次へ蘇り、少女時代の思い出を胸に山形に降り立つことになる。

タエ子は滞在先の家の息子・トシオに惹かれていくが、あと一歩を踏み出すことができないまま帰京の日を迎える。しかし帰りの車中で決心し、電車を乗り換えてトシオのもとへ向かう。このエピローグでは小学生のタエ子と昔の同級生が子供の姿のまま現れ、彼女を後押しするような演出が施されている。

このように記憶の中の子供たちがタエ子を導いていくのを見て、《ファイナル・レコニング》を思い出したというわけだ。こうした演出は高畑の他の作品でも見受けられるもので、たとえば《火垂るの墓》がある。原作小説は清太と節子の兄妹が最期を迎えるまでをシンプルに追っていくが、高畑はふたりの幽霊を登場させ、自分たちが死に向かっていく姿を黙って見つめているという設定を追加した。

子供時代のタエ子と死後の兄妹、過去と未来という違いはあるが、この二作のアプローチが本質的に同じであることはしばしば指摘されている。要するに高畑は、自分を客観的に見つめるもうひとりの「自分」を投入しているのである。

高畑作品の特徴としてまず挙げられるのは、徹底したリアリズムだ。それまでまんが映画などと呼ばれていた日本のアニメに「リアル」を持ち込んだ功績は確かに大きい。けれどもそれは、高畑が推し進めた「客観性」重視のアプローチの、ひとつの側面でしかない。

高畑による現実逃避的なファンタジーへの批判や、観客を映像の中に巻き込みのめり込むように誘導する「巻き込み型」や「思い入れ型」の作品への批判、一方で《平成狸合戦ぽんぽこ》(1994)で採用したドキュメンタリー的手法やブレヒトが提唱した異化効果の導入、そして前述のリアリズム演出は、どれも映画への没入にブレーキをかけ、客観的な視座をもって作品を受け止めるように促すという意図へ集約される。それによって映画の中に込められた問題や意味をしっかりと受け止め、その問いや考えを現実に持ち込んでよりよい生を築いてほしい。そこに重きを置く高畑にとって、客観性へのこだわりは不可欠だった。

しかしここで少し考えてみたい。高畑にとって客観的な視点の確保は、本当に現実の生を充実させていくためのポジティブな手法だったのだろうか。

 

3

批評家の大塚英志は、「東映動画からジブリに至る一つの水脈」として「ヒロインを死者の国から救済する」という主題に着目し、こう論じる。

しかし『太陽の王子』に於いて高畑は、ヒルダを氷の世界から救済しない。(……)『火垂る』では節子は死に、最新作『かぐや姫の物語』でも姫は死者の国である月に戻ってしまう。そういうふうに見ていくと、タエ子にとっての田舎はやはりノスタルジーに退行していったタエ子が死者の国に留まってしまったように見える。 

高畑は無論、そんなことを少しも意識していないだろう。「自然」や「生命」や「生活」を常に高畑は表現の対象として理性的に選択し、それをアニメーションの技法と緻密に結びつけ、作品化してきた。 

だが、高畑の意図しないところで別の物語が作動している。この死者の国に囚われ続けるヒロインは、一体、何を意味するのか。
(〈『おもひでぽろぽろ』解題〉、《ジブリの教科書6 おもひでぽろぽろ》所収)

このように疑問を呈するも、答えのないまま大塚の文章は終わってしまう。高畑作品における死者の国とはいったい何を意味するのだろうか。

一旦視点の話に戻ろう。わたしが《おもひでぽろぽろ》から《ファイナル・レコニング》を連想したのは、成長したタエ子の現実に侵食してくる小学生のタエ子の姿から走馬灯を連想したからだ。少女タエ子の「おもひで」は彼女の決心を後押しするポジティブな幻影、いわば守護霊のような印象を見る者に与える。しかし、もしかしたら少女タエ子の幻影は死者の国の使いであって、現実社会に飽いているタエ子に対してこちらに来るのはまだ早い、もう少し生きろというふうに働きかけたとも解釈できる。

《火垂るの墓》も走馬灯を彷彿とさせるところがある。そこで、しばしば走馬灯を引き合いに出されるフィルムノワールと比較してみたい。《火垂るの墓》の構造はフィルムノワールのフラッシュバック手法に則っていて、たとえば《サンセット大通り》(1950)では主人公の脚本家が死体で発見されるところから始まるのだが、事件を振り返る語り手も死んだ脚本家自身となっている。構造だけ取り出せば《火垂るの墓》と《サンセット大通り》は同じだ。

フィルムノワールのフラッシュバックの特徴は、罪を犯して追い詰められた主人公が過去を振り返り、自分の行いの何がよくなかったのか、何処が間違っていたのか顧みるように語られていく点にある。これもまた高畑の、客観性重視のアプローチによって反省的に自己と向き合うように仕向けるという意図と重なる。インテリだった高畑だから、フィルムノワールのことも当然把握していただろう。

だがノワールの本質は何よりも「死」にある。今の生活に不満を抱き、よくないと分かっていつつも犯罪に手を染め、最後には転落し、場合によっては死を迎えるという物語は、人間が抱える死への暗い衝動を鋭くえぐり出す。

大塚の引用にある通り、かぐや姫は死の世界である月に帰還してしまう。清太やかぐや姫は死を望んでいるわけではなかったが、けれども結果的に彼らの行動は――清太は主体的な判断で、かぐや姫は概ね周囲に流されてという違いはあるが――自らを死地へと追いやる。けれどもこれは、高畑がそのように仕組んでいるということでもある。

だとすればこうも言えるのではないか。高畑がこれらの作品で死の視点を設けたのは、それが客観的視座へのアプローチである以前に、彼自身が死の視点を内在させていて、それが作品に反映していった結果なのではないか。高畑作品におけるフラッシュバックは高畑が無意識的に抱える死の衝動が要請したもので、そしてその衝動は、大塚が論じた「死者の国」から発動したのではないだろうか。

 

4

その美貌により宮中の人となり、不自由な生活を強いられたかぐや姫は、屋敷の隅に故郷の山をかたどった小さな庭をつくり、自らを慰撫する。けれどもわずらわしい求婚者たちに無理難題をふっかけた結果死人が出たと知った姫は取り乱し、こんな庭はニセモノであり、わたしもニセモノなのだと叫んで破壊してしまう。

高畑作品には、このような箱庭めいた空間がしばしば登場する。《パンダコパンダ》(1974)でのミミ子とパンダ父子のままごとのような家。《火垂るの墓》で兄妹が暮らす防空壕。《平成狸合戦ぽんぽこ》で人間に敗れたタヌキたちがほんの短いあいだだけよみがえらせる昔日の多摩の森の幻。これらはどれもニセモノだ。子供向けの《パンダコパンダ》と《火垂るの墓》や《平成狸合戦ぽんぽこ》を分かつものは、高畑が死の視点を置いているかどうかだ。

かぐや姫は「みんな不幸になった」のは「ニセモノのわたしのせい」と嘆く。高畑が清太に現代の子供を重ねて描いたというのは有名な話だが、かぐや姫も「現代の子ども」の「一人だった」という観点から作品に取り組んでいる(高畑勲《アニメーション、折りにふれて》)。

けれども恐らく高畑は、子供にニセモノとホンモノがあり、区別できるものとは考えていなかっただろう。現代人は等しくニセモノである、それが高畑の人間観だったのではないか。そして何処かにホンモノの世界があり、そこに到達することは困難だが、それでもニセモノの人間はそこを目指すべきである、そう考えていたのではないか。

《おもひでぽろぽろ》や《平成狸合戦ぽんぽこ》で人間と自然の調和を強調したり、《ホーホケキョ となりの山田くん》(1999)で昭和色が濃厚に漂う三世代家族の話を描いたがゆえに、高畑は懐古主義者で、ホンモノの世界というのも過去のことを指すという印象を受ける人もいるかもしれない。そうなのかもしれないが、だとするとひとつ疑問がある。それが正しいのだとすると、何故高畑はアニメーションという当時最先端の表現方法によって「過去へ帰れ」というメッセージを伝えようとしたのか。

高畑にとってニセモノの世界とは、何よりもまずアニメーションのことだったはずだ。ファンタジーや「巻き込み型」の作品を批判する高畑の物言いからもそうしたニュアンスが汲み取れる。だがニセモノのアニメとホンモノのアニメがあり、高畑自身の作品はホンモノだと自認していたのかと言えば、そういうわけでもないだろう。

高畑は著作《十二世紀のアニメーション》などで日本のアニメーションのルーツを平安時代の絵巻物に求めている。この解釈は研究者などから疑問視されていて、完璧主義者の高畑にしては軽率だったように感じられる。けれどもそれも、ニセモノであるアニメをホンモノにしたいという心情によるものだったのではないか。

若かった高畑は、アニメーションの魅力に取り憑かれて監督になった。けれどもアニメーションはニセモノの世界で、ホンモノの世界へ還ることをアニメで語ることの矛盾に高畑は直面した。高畑が編み出した様々な方法論は、その矛盾を乗り越えるための抵抗だった。けれどもその挑戦は、最後まで高畑を満足させはしなかったのではないだろうか。姫が嘆いた「ニセモノのわたし」という叫びは、高畑自身の思いではなかったか。

同様に、ニセモノなのだから死の世界に還らなくてはいけないという姫の思いも、高畑自身の実感に基づくのだろう。アニメはニセモノの世界なのだから、あらゆる方法で観客をそこから引き出して、ホンモノの世界へ戻さなくてはいけない。しかしホンモノの世界など何処にも存在しない。すべてはニセモノであって、最終的に「死」へ還る以外の術はない。

高畑を衝き動かした「死」の視点や、ニセモノの世界の根源が何かはわからない。高畑が子供のころ岡山空襲に遭ったことはよく知られているが、それが原因なのかもわからない。宮崎が自身の空襲体験をもとに《君たちはどう生きるか》に取り組んだようには、高畑は自身の過去を作品化することはなかった。けれどももしかしたら、過去から降り積もってきた「思い出」が、作品のあちこちにぽろぽろとこぼれ出していったのかもしれない。

「リアル」であることにこだわった高畑が、一方で「ニセモノ」に衝き動かされていたというのは皮肉でもある。けれども、かぐや姫が自らを「ニセモノのわたし」と嘆く気持ちは理解できるように感じる。清太は防空壕での生活がままごとのようなニセモノの時間で、このままだと死が待っているだけだと心の何処かでわかりつつ、そこから抜け出すこともしなかった。何処かにホンモノの世界があるのかもしれないと思いながら、付き合い続けるしかないニセモノの世界。わたしが高畑の作品に惹かれ、何度も繰り返し見てきたのも、「自然」や「生命」を高らかに謳ったからではなく、それを背後からおびやかす、「死」とニセモノの世界の存在があったからなのかもしれない。

(2025/8/15)

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noirse
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