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プロムナード|ウクライナ戦争についての本を読んだ――狂気の海から息継ぎをするために|齋藤俊夫

ウクライナ戦争についての本を読んだ――狂気の海から息継ぎをするために

Text by 齋藤俊夫(Toshio Saito)

いつから世界はこんなにも狂ってしまったのか? いや、世界はずっと狂い続けていたのに我々が(この言い方も傲岸不遜か?)無視してきたのか?

朝起きる。新聞を見る。ウクライナ戦争とガザ虐殺のことが日報のように小さく載っている。スマートフォンのニュースでも「ロシア ウクライナに軍事侵攻」の随時更新記事が出てくる。それが日常になり、そこに血の通う生身の人間一人ひとりが生を奪われて死んだ姿はもはや失われてただの数値に成り下がっている。自分だってゲームの取扱説明書を読むようにウクライナ戦地での兵器や戦略の解説を楽しんでいる連中に入っているという自覚がある。

世界も狂っているが、それは私込みで狂っており、私も狂っている中に入っている。

その狂気の海の中から少しでも息を継ぎたいと、ウクライナ戦争についての本を2冊読んだ。エドガール・モラン『戦争から戦争へ ウクライナ戦争を終わらせるための必須基礎知識』と、スラヴェンカ・ドラクリッチ『戦争はいつでも同じ』である。

モランの書は原著では副題が「一九一四年からウクライナへ」であり、第二次世界大戦でナチスに対するフランス人レジスタンスとして戦った時の経験から現今のウクライナ戦争までの戦争の変わらない実像を描き、さらにウクライナ戦争へと世界が雪崩れていく様を地政学的な観点から俯瞰もしたエッセイ。ドラクリッチの書は旧ユーゴスラビア崩壊の内戦から今までの、やはり戦争の変わらない実像を身近な視点から描いたエッセイ(ドラクリッチの書中にはモランの書についての言及もある)。

モランが強く言及するのは「戦争ヒステリー」という現象である。それは戦争において正義=自国/悪=敵国という二項対立を完全視し、敵国に関するもの全て――例えばロシアであればドストエフスキーやチャイコフスキーらも――が悪であるとして拒絶する文化的ヒステリー、さらには敵国に戦争の責任の全てを負わせ敵国民全体を犯罪者扱いする人間的錯乱状態を指す。
だが、この「戦争ヒステリー」という現象は、モランもドラクリッチも語る、そして我が国日本の過去現在を見ても当てはまる、戦争時に必ず訪れる現象ではないだろうか。だからこそモランは戦争ヒステリーから放たれよと説くのであろうが、私はこの戦争ヒステリーから果たして現実に人間が放たれることがあるのだろうかと暗い気分にならざるを得ない。

またモランの書を読んで気付かされたのが、アメリカ帝国主義の現存と、それと対抗する勢力としてのロシア帝国主義、さらにそこに連なる旧東側諸国(例えば中国やロシア衛星国家)という視点である。私はアメリカの(大体における)無謬性を前提としていたが、アメリカの対抗勢力から見ればアメリカはチリ、ベトナム、イラン、アフガニスタン、イラク、そして現在のパレスチナなどで自国の権益を拡大してきた最大の帝国主義国家ではないだろうか。
しかも、今回のウクライナ戦争での最大の当事者にして、西側(ウクライナ、アメリカ、NATO諸国)の敵国たるロシアの持つ最終手段たる核兵器は、なにもロシアだけが持っているものではない。それこそアメリカ(その頂点には彼の人が君臨する!)こそが世界最大の核保有国であり、イギリス、フランス、イスラエルもが核保有国である。これらから核の円陣を組まれているのがロシアであるという認識を持った時、核の恐怖の意識は限りなく高まる。

どこまでも狂気は渦巻き続けている。

「犯罪者も普通の人間なのだ。誰もが犯罪者になる可能性を秘めている。そのほとんどが周囲の事情によるもの、あるいはより響きのいい言葉を使うなら状況次第なのである――この事実は耐え難く、受け入れるのは難しい。我々は総じて犯罪者を非人間的に扱うやり方を知っていて、どのような手段であれ、誰もが犯罪者になる可能性を内に秘めているのだという思考から身を守っている」(ドラクリッチ、176頁)
これは以前私が書評で取り上げたこともあるクリストファー・R・ブラウニング『増補 普通の人びと ホロコーストと第101警察予備大隊』を引き合いに出してのドラクリッチの言であるが、戦争においては自分も敵も既に「普通の人間」ではなく、どちらが殺されても「犯罪」ではなく、「犯罪者」はどこにも生まれない。それが戦争だと言えばぐうの音もでないが、それはもはや狂気の思考ではないだろうか?

モランの書は原著2023年であるが、その最終章において「大ロシアを再建したいというプーチンの野心がいかに強かろうとも、彼は退却することを知っているリアリストである。(中略)プーチンをヒトラーやスターリンになぞらえるのは思い過ごしにほかならない。(中略)プーチンはたしかにツァーリズム(ロシア帝政)やスターリン体制を引き継いているが、ツァーリでもスターリンでもない。(中略)プーチンはリアリズムでものを考えることができる専制君主である」として、ロシアとの和平条件を具体的に提案しているが、原著から2年が過ぎた今、この「和平」の「リアリズム」はどれだけあるのだろうか? ロシア(プーチン)に殺されたウクライナの兵士、民間人はもう数万人にのぼるという。同時にウクライナ(と西側の兵器)に殺された(プーチンに動員された)ロシアの兵士は数十万人にのぼるというではないか。それだけの人間が殺し殺され、それだけの憎悪と悲しみが溢れたその地に「リアリズム」はあるのだろうか? 「普通の人びと」とは誰のことなのだ?

狂気の海からの息継ぎはできなかった。あまりにも、あまりにもこの世界は狂っている。

(書誌情報)
エドガール・モラン『戦争から戦争へ ウクライナ戦争を終わらせるための必須基礎知識』杉村昌昭訳、人文書院、2023年(原著2023年)
スラヴェンカ・ドラクリッチ『戦争はいつでも同じ』栃井裕美訳、人文書院、2024年(原著2022年)

(2025/7/15)