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五線紙のパンセ|NHK電子音楽スタジオに出会い、地平は拓けた|平石博一

NHK電子音楽スタジオに出会い、地平は拓けた

平石博一(Hirokazu Hiraishi): Guest

NHK電子音楽スタジオ、最初の記憶。
シュトックハウゼンが来日していた1966年当時、私はNHKに勤務していました。千代田区内幸町の放送会館がまだメインに運用されていた時代です。1964年のオリンピックのために渋谷区神南の放送センターも一部は運用されていましたがやはり内幸町の放送会館が中心でした。
私が勤務していた部屋には、NHKに届く郵便物を各部署に配布するための仕分けの棚があり、そこの中央最上部に「電子音楽室」という名札がありました。その棚を毎日1~2回覗きに来て郵便物を受け取っていく方がおりました。「電子音楽室」って何? はてな?とすごく気になり、ある日その方に声をかけました。どのような立場の方か全く知りませんでしたが、何をされている部屋なのかを伺いました。電子音楽を作っているスタジオであるという事がわかり、ますます強い興味が湧き出て、見学させていただけないでしょうか、とお願いしたら即座に、いらっしゃいとの返事を頂き早速伺うことになったのです。放送会館の正面玄関の真上のスタジオの隣の部屋でした。私の印象ではいろいろな機材がむりやり押し込められている部屋という記憶です。その時、非常に忙しそうな雰囲気があり長居をしては迷惑がかかるのではという気がして短い時間の訪問で引き上げることにしました。今にして思うともう少し詳しく説明を聞いておけばよかったと悔やまれるのですが。見学を許してくれたその方がディレクターの上浪渡さんだったのですが、その時に名刺等をいただいたのか、後で判明したのか、本当に昔の事なのではっきり思い出せません。
それからしばらくたったある日、上浪さんが、今招聘しているドイツの作曲家シュトックハウゼンの作品が完成してテレビで発表放送されることになったとのことで放送日時を教えてくれたのです。今ならこんな企画は難しいと思うのですがゴールデンタイムのテレビ放送(教育テレビ)だったということです。その当日は時間に遅れないように家に帰りテレビの前に座ったのです。日時について私は記録していなかったのですが、川崎弘二氏の長年にわたる調査研究のもとに書かれた大著『NHKの電子音楽』(フィルムアート社:2025年刊)によると1966年3月20日放送記念日の特集番組「シュトックハウゼン作品発表会」という番組が放送されたという記述が私の視聴した内容と一致するので、これが私の体験した放送なのだと思います。その前後にラジオ放送もされていたとのことですが放送日時を知らされていなかったので私は聴取することが出来ませんでした。いずれにしてもこの時のテレビ放送は私にとって衝撃的なもので強烈に記憶に刻まれています。最初に上浪さんの作品についてのお話があって、作品の放送が始まったのですが、シュトックハウゼンの顔が全面、画面いっぱいに映し出され音楽が流れる間、構図は全く変わらないという意表をつくものでした。生放送であったと思われるのですがシュトックハウゼンの顔は僅かに動くのみ、時々瞬きをするのみ、で劇的な変化は全くありませんでした。しかし音は変容して微妙に複雑な音響が展開していきました。「テレムジーク」(1966)との出会いは原体験のひとつとなりました。その時はまだ私自身が電子音楽を作るという意識は芽生えていませんでした。なぜなら私にはそれが可能になる環境が全くなかったからです。

「イコン」と「マルチピアノのためのカンパノロジー」
そして翌年のある日、上浪さんから、作品が完成して関係者のみに声をかけたプライベートなコンサートを開くのだけれど聴きに来ないかと誘われたのです。それはもう喜んで伺いたいと返事をしました。
当時NHK局舎の正面玄関の真上にあったR-301スタジオに初めて入りました。玄関は2階吹き抜けでしたから正に真上に当たる3階で、天井の高い、ラジオ用としては一番大きな空間を持っていたのではというのが私の記憶です。聴衆は何人くらいだったのか、私がスタジオに入った時すでに灯りをある程度落とした状態でしたので正確には憶えていないのですが20~30人程度だったと記憶しています。関係者のみに案内されたとのことでしたから適度な人数が来場したと感じていました。初演された作品は、湯浅譲二「ホワイトノイズによるイコン」(1967)、黛敏郎「マルチピアノのためのカンパノロジー」(1967)、の2曲でした。「イコン」を聴いてまずその音響に圧倒され、音が移動していく様は、これこそ求めていたものだ!と引き込まれたのでした。肌をというか脳をマッサージされている様な感覚に陥ったホワイトノイズサウンドが灯りを落とした暗い空間で暴れ回っていました。それまで体験したことのあるスピーカー音のどれよりも肌に直接振動が伝わる強力な音響でしたが、それよりも空間を時間とともに縦横に移動しているという実感が強く私の脳に刻み込まれました。もともと空間的な音楽に強い興味を持っていたのですが、「イコン」を聴いて私の音楽の方向性は確実に決定づけられました。「カンパノロジー」はさらに別な意味で衝撃的な音響でした。ライブ・エレクトロニクスの初めての体験です。当時はまだライブ・エレクトロニクスという言葉はほとんど使われていなかった、聞くことが無かったのではないかと思います。
黛さんの作品、ジャズピアニストの八木正生さんが最初に打鍵した瞬間から今までに聴いたことのない音色、複雑にこれでもかと変化する立体的音響の連続でした。これも5ch.のスピーカーによる5方向から縦横に音を浴びるという初めての不思議な体験でした。ピアノの前で力強く躍動する八木正生さんの背中が今でも思い浮かびます。演奏後ピアノの内部を見せて頂いたのですが、イヤホンの耳当て部分を取り外して振動板を88本のピアノ線に触れさせていました、と思っていたのですが。今振り返るとかなり昔のことで正確な記憶ではなく、ピアノ線に触れそうな近くの位置に取り付けられていたというのが正しいのだと思います。当時の一般的なイヤホン、クリスタル型イヤホンは、そのままでクリスタル・マイクとしても機能するものでしたから。実質的にコンタクトマイクだったというわけです。スタジオの副調整室にその88鍵分の大量のコードを引き込み、変調をかけるなど音の加工をしてスタジオの5つのスピーカーに送り返すという仕組みになっていました。さらに当時は驚きの風景に見えたのですが、6mmのテープデッキ、業務用ですからかなり大きなものですが、おそらく5台、今となっては正確な数が思い出せないのですが、神南のスタジオに5台あるので間違いないと思います。そのテープデッキが一列に並べられて、一本の長いテープが5台のテープデッキを繋ぐようにそしてループになるようにセットされ、テープディレイ、テープエコーが実現されていたのでした。録音されて再生加工したものをまた重ねて録音に回すということで複雑な音響を作り出していました。この2つの作品は強烈な原体験として私の創作に大きな影響をもたらしたのです。

NHK_R301st配置

クリスタルイヤホンの説明

空間音楽に向かう路はすでに存在していた
電子音楽スタジオで体験した二つの5ch再生作品は、私の空間音楽に向かう後押しをする大きな力になったのですが、この1966年67年の前後は私を空間音楽に向かわせる様々な事象がありました。まずいちばん大きな存在だったのは、シュトックハウゼンの「グルッペン」(1955-57)でした。銀座ヤマハの楽譜売り場に頻繁に通っていた私にとって「グルッペン」のスコアを手に取った時、3つのオーケストラを空間的に配置し、それぞれのオーケストラが独自の拍子構造とテンポで進んでいくというものが同時に存在していることに本当に強く惹かれたのです。そしてこのようなスコアを書く体力と意思の強さを持つシュトックハウゼンという西洋人に圧倒され、私のような体力のない日本人には到底たどり着けない場所に思えたのです。非常に高価な楽譜でしたが、やはり勉強したいという気持ちが勝り、かなり無理をして購入してしまいました。以降バイブルのような存在になりました。当時この作品を実際に音響として体験することは一生ないかもしれないと考えていました。しかしその後かなり時間が経ち日本でも演奏されるという事は実現しました、が、私はチケットを購入することが出来ず、現場で体験することは一生ないかもしれないということは現実になりそうです。残念ながら。今はYouTube等のおかげで音としては体験できる時代になりましたが、当時はそのような環境はなく、スコアを見て疑似的に脳内で音を構築するという事を毎日行っていました。クセナキスの「TERRETEKTORH」(1965-66)の存在を知ったのもこの頃です。88人のオーケストラ奏者が聴衆と均等に会場に散在するというアイデアは斬新で魅力を感じ、自分もこれを実行したいと思い、後に近い形のものを実現することになります。
この作品の存在は、BOOSEY AND HAWKESのクセナキスを紹介するカタログ(1967刊)で知ることが出来ましたが、スコアは残念ながら手に入れられませんでしたので実際の響きがどのようなものになるのか想像することが出来ませんでした。今、YouTubeの時代になって音を聴くことが出来るようになり、そうだったのかという事となるほど納得という感覚が湧き起こってきます。同音反復が多用されているのは空間的に分散された奏者の位置が強く意識されたことから来ていると思いいたるのです。同様にオーディエンスに89人の奏者が分散配置される作品「NOMOS GAMMA」(1967/68)はカタログ出版の翌年の作品になりますが、この2つの作品は私の記憶の片隅に常に存在しているものでした。その頃の音楽情報の入手は非常に限られていて主にYAMAHA銀座店と本郷のアカデミアミュージックでいろいろな楽譜や本に触れることでした。アカデミアではマイナーな実験音楽的な作品の楽譜をいろいろと手にすることが出来ました。頻繁に通っていたので中二階のような屋根裏部屋?と見える倉庫にも入っていろいろ探していいよと今では考えられない親切な対応をしていただいて初めて見るものが多くてすごく勉強になったのです。そのころYAMAHAの方に、SOURCE music of the avant garde という実験音楽を扱う同人誌的な大型の雑誌が入荷されていて、それにはRobert Ashley, John Cage, Steve Reich, Frederic Rzewski, David Behrmanら多数の実験系作曲家が参加していた非常に興味深く強く惹かれるものでした。カリフォルニアから発信されたアメリカの新しい潮流という受け止めをしていました。その第5号にAndrew Stiller という方のELECTRONIC CONSTRUCTIONというインスタレーション作品が掲載されていて、四角い部屋の上下左右計6面の壁に14のスピーカーを分散して設置し、持続音が流されるというものでした。その音は微妙に4分音が指定されていて、クラスターが流れるスピーカー、単音が流れるスピーカーなどいろいろ用意されるというものでした。部屋を歩き回るとさまざまにひずみが変化するだろうという事は容易に想像できます。実際に体験したわけではないのに私の脳裏にいつも存在するもののひとつです。Stiller氏はMorton Subotnickの生徒だそうです。私が空間音楽に向かう準備のような環境がすでにいろいろと存在していたのです。

NHKプリントセンター
中学生のころ音大に進みたいと考えていたのですが父が亡くなってそれをあきらめNHKに勤務することになったのですが、時間が経つにつれやはり音楽の仕事がしたいという気持ちが強くなり紆余曲折の後NHKプリントセンターの写譜部門に勤務することになります。NHKプリントセンター(後に社名は何度も変更された)は台本印刷と楽譜写譜のふたつの部署がありましたが現在は残念ながら写譜部門は無くなり、元NHKプリントセンターにいた方が設立した東京ハッスルコピーが業務を担っているというのが現状です。当時のNHKプリントセンターはNHKだけでなく民放も含めて中心的な楽譜制作拠点でした。武満徹氏の写譜をするベテランの方もここにいらしてサラベールの武満出版楽譜にその仕事を見ることが出来ます。武満作品「ジェモー」の作曲がフランスに向かう直前までかかっていて最後に渡された手稿スコアの部分を飛行機に乗る時間に間に合うように応援写譜作業をした記憶があります。この作品は、結局いろいろなトラブルに巻き込まれ、その時は演奏されなかったそうです。ここに勤務した当初私は写譜屋としてはまだ素人だったにもかかわらず勤務した最初の日からベテランのグループに入れられて基本的な技術を叩き込まれることになりました。現場での写譜作業はミスが無いように気を遣う事はもちろんなのですが、何よりもスピードが求められていました。時間に余裕がある仕事はごく一部で、レコーディング、放送のための楽譜制作は、ぎりぎりの時間にスコアが上がってくるというのが日常的でしたので時間との戦いの毎日でした。

指揮法のレッスンに通う
NHKプリントセンターではいろいろな方と知り合う事が出来たのですが東京芸大の楽理科第1期生だった方がいて、ある日、「楽理科の同期の人が最近自宅で指揮法のレッスンを始めたのだけれど行ってみない?」と声をかけられたのです。私がアマチュアのオーケストラの棒振りをしていることや東京芸大や東京音大の学生を中心とした小さなオーケストラを作ったりしていたことを知っていることと、まだ指揮法を誰にも師事していないことを知っていたからの事でした。私には非常にうれしいことで早速紹介して頂くことになりました。村方千之という方(後に第1回ヴィラ=ロボス国際指揮者コンクール特別賞を受ける)でした。斎藤秀雄氏の生徒、小澤征爾、秋山和慶らと同時期の生徒だったと伺いました。確かに村方氏と秋山氏は非常に良く似たスタイルで指揮をするところが多くありました。時間に逆らうことは出来ないので仕方ないことではあるのですが、この3人の指揮者は亡くなってしまい悲しみの涙しかありません。初めて村方氏の自宅にレッスンに伺ったとき、すでにアシスタントのピアニストの方がいらしていました。仮想オーケストラとして演奏してくださり、彼女に向かって指揮をするという形でレッスンが始まりました。その最初の日にまず言われたことが「君、いつも指揮台の無いところで棒振りをしているようだね」という事でした。確かにその通りなのです。腕の位置が高すぎるという指摘でした。そんな風にレッスンが始まったわけです。村方氏の指導だけでなくピアニストの方の、それは判りにくい、それは良いとアドバイスを受けながらのレッスンでした。アマチュアのオーケストラではベートーヴェンなど普通にクラシックの演奏をしていました。しかし現代曲の演奏をしたいという欲求も強くあって自分でオーケストラを作ったのですが、それはかなり短い期間の活動で終わりました。が、NHKの番組「現代の音楽」に出演させていただいたこともありました。その時演奏したのは松村禎三氏の「クリプトガム」(1958)でした。Claviolin, Musical sawという特殊な楽器を含むオーケストラでメンバーを集めるのに少し苦労しました。懐かしい思い出です。

筒美京平さんに出会う
1972年頃にNHKプリントセンターから飛び出して写譜屋として独立しました。西麻布、霞町交差点近くのアパートに居を定め仕事を求めて活動を始めたのですが、赤坂のある芸能プロダクションを訪問した時に筒美京平さんのところに行くといいよと勧められたのでした。原宿から千駄ヶ谷のビクタースタジオに向かう途中の裏通りに作詞家の橋本淳氏と作曲家筒美京平氏の事務所「宝島音楽出版」(当時)がありました。そこに筒美京平さんを訪ねて行ったのです。ガラス張りのあの頃にしては超モダン未来的なデザインの光がさんさんと入ってくる事務所でした。すぐに快くお話をしていただけたのに感謝でしたが、ちょうど伺った時、結成したばかりだった「つなき&みどり」の新曲「愛の挽歌」のレッスンをしている真最中でした。あの特徴的な正に京平サウンドの典型というべきリズムパターンが繰り返しすぐ隣の部屋から響いてきました。そのあと京平さんとお話をさせていただき、私が作曲もしていると知ると、曲が出来たらこの事務所においておきなさい、チャンスがあれば使うからとおっしゃって下さったのです。信じられないありがたい申し出だったのですが、その当時私はソングライターを目指していたのではなく現代曲、それも器楽曲を作りたいと思っていたのでした。ソングライターを目指さなかったのには理由があると言えばあるのです。私はカラオケで歌をうたうことが出来ないのです。歌詞を覚えることが出来ない。頭に入ってこないのです。多くのカラオケ好きの方は歌詞に感動し陶酔し唄っているように見えます。それが出来ない私は言語能力に欠陥があるのではと思っていました。結局京平さんの事務所には作品を持っていくことはなかったのです。筒美京平さんとは初対面でしたが、最初に伺ったその日、「愛の挽歌」の写譜を私に託してくれました。レコーディングは溜池の東芝スタジオでした。現場でギタリストにストローク等について細かい希望を出していたことや、仮ダビングを聴いたピアニストが、「こんなに頑張って弾いたのに、このくらいにしかならないの?」とちょっと不満そうなことを話していたことなど、ほほえましいエピソードとして記憶に残っています。確かに輪郭のはっきりしたこのピアノのフレーズは前面にもっと力強く聴こえる形にするのが普通の感覚であろうと思わせるものでしたが仕上がった音を聴くと京平さんの繊細なバランス感覚はさすがと感じます。写譜の仕事は継続することになり、ある時は自宅にスコアを受け取りに行ったのですが、自宅マンションの名札を見て本名が渡辺栄吉さんであったことを知り、名前のギャップに驚愕してしまい、なんだか震えてしまったのです。高級ホテルで仕事をすることもありホテルにスコアを受け取りに行ったとき、京平さんはホテルの部屋で私に、皆さんに夢を与える仕事をしている人が夢のある生活をしていないとおかしいと思うのだと話してくれました。私の顔がなぜこんな贅沢をしているのだと疑問を感じているような表情に見えたのだと思います。実際にはおそらく高額所得者なので必要経費を出来るだけ使った方が良いという判断があったのではと推察していました。

なぜかふたつの番組で歌を作っていました。
しかし不思議ではあるのですが短い期間、レギュラーで二つの番組に歌の作品を毎週提供していることがありました。ひとつはFM東京(当時虎ノ門の発明会館ビルにスタジオがあった)のパーソナリティを平尾昌晃さんがされていた音楽番組「音楽工房」(という番組名だったと記憶している)で、毎週さまざまな歌い手のために(その場限りの使い捨てではあるのですが)毎週作品を作り続けていました。三善英史、八代亜紀、ダ・カーポなどいろいろな方に歌っていただいたのですが、当時デビュー前で中学生だったと聞いていたのですが研音に所属していた浅野ゆう子さんの事が記憶に残っています。おそらく事務所の教育が行き届いていたのでしょう、録音日に完全に歌える状態でスタジオに入って頂けてレコーディングは速やかに完了したのでした。とてもまじめに仕事をする方だという良い印象を持っています。もうひとつの番組はNET(現テレビ朝日)の13時ショーでした。男性の局アナと黒柳徹子さんが司会をしていた、「徹子の部屋」になる前の生番組でした。この時も演歌歌手やコーラスグループなどのために書いたのですが、印象的に記憶に残っているのは「紙ふうせん」のお二人のために書いた時です。というのは、お二人自身がシンガーソングライターですのでNETの企画を受け入れてもらえるだろうかという問題があったのです。番組プロデューサーと私の二人で当時竹下通りの脇を少し入ったところに住んでいた自宅に伺いました。楽譜は先にお渡ししていましたが、お話を始めてすぐに不安は解消したのです。その場で平山泰代さんがピアノでイントロを引き始め歌ってくれたのです。その時、後藤悦二郎さんから提案希望があって放送本番では後藤さんがアレンジをして弦楽器アンサンブルをかぶせたいというものでした。プロデューサーは即座に弦楽器奏者を手配しましょうということを約束しました。いつもと変則的なことが起きたので良く覚えているのです。生放送の本番は後藤さんの指揮で始まり、それは素晴らしい音空間に仕上がりました。なぜかそのような経験をいろいろ積んだのですが、やはり私はソングライターに向かうことを追求することはしませんでした。言葉を扱う才能は自分には備わっていないと無意識のうちにも強くあったからだと思います。

天地真理、キャンディーズetc.のレコーディング
その後私は筒美京平さんから平尾昌晃さんのグループへと人脈が変わっていきました。写譜が生活のための収入のメインであったことは続いていたのですが、ある時、棒振りが出来るということが知られて、楽譜を納品した時にそのまま棒振りをするという話になったのです。最初は平尾昌晃さんの曲、天地真理「ふたりの日曜日」でした。その後、森田公一曲の天地真理「若葉のささやき」「空いっぱいの幸せ」などで棒振り。森田公一作品では、キャンディーズ「あなたに夢中」「危ない土曜日」「ハートのエースが出てこない」などで棒振りをしました。五木ひろし、八代亜紀、アグネス・チャン、由美かおる、布施明、等々、昔の手帳を探し出してみたら、演歌系の歌手の名前も含めさらに数多く出てきました。演歌系のレコーディングが終わったあとは、フレーズや音が明快で覚えやすいものが多く頭の中でしばらく暴れまわっている興奮状態になっていたことを覚えています。自分の部屋に戻った時それを鎮めるために雅楽を聴いたりすることもしばしば起きていました。
オーケストラのレコーディング中、歌い手タレントは副調整室にいる気配がありましたが私自身はお目にかかったことはほとんどありません。歌い手に直接お目にかかった時のレコーディングはなぜか良く覚えています。アン・ルイスさんの平尾昌晃作品「グッド・バイ・マイ・ラブ」のレコーディングの時は本人が父親とともに現れたので強烈に記憶に残っています。スタジオ前のエレベーターの扉が開いた瞬間に出てきた姿が本当に輝いて見えました。この音楽は平尾さんの歌う姿を彷彿とさせるメロディだと思います。このレコーディングはビクターの中サイズのスタジオでした。当時NHKを除くとフルオーケストラがそのまま入る大きなスタジオがここにはありました。ここで美空ひばりさんのレコーディングをしたことがあるのですが、これは少し驚きの体験でした。ポップス系の歌手は普通カラオケ部分を完成させて、その後じっくり歌入れを丁寧に仕上げていくというスタイルでした。が、美空ひばりさんは違いました。オーケストラ録音時に本人の歌いこみはすでに完成されていて、クラシック歌手のようにオーケストラの演奏と同時に歌まですべて完璧に録音を仕上げてしまうという方法でした。これは初めての体験でしたので少し感動してしまいました。数回オーケストラだけでリハーサルをした後、スタジオの副調室が覗ける一番端に音が回らないように衝立で囲んだ部分に美空ひばりさんが入り本番のレコーディングが始まりました。私のヘッドフォンにはオーケストラの音しか戻ってこないので歌としての仕上がりがどのようなものかは正確にはわからなかったのですが、緊張感あふれる気持ちの良いレコーディングでした。このころ写譜とその後に棒振りをするという事が生きるための中心の仕事になりました。また時々CMの作曲とか、テレビの歌番組のための編曲とかも同時にいろいろこなしていました。

空間音楽の試み
生きるための仕事は絶対こなさなければいけないものでしたが、同時に可能な限り時間を作り、自分の作品を作るための模索もいろいろ試みていました。1971年7月25日に草月会館ホールを借りました。コンサートのためではなく、非公開で即興演奏、空間音楽の実験をするためでした。協力してくれたのは、上野学園の学生、弦楽器奏者たちでした。ステージと客席全体を使って空間的に離れて配置し、即興演奏、演奏者は離れた場所にいる演奏者の音を聴き、その音を真似る、真似ない、というどちらかをカードによって選んだうえで即興をするというものでした。シアターピース的な要素も含む実験をしていました。それを録音して、偶然によってどのような結果を得られたのかを後に検証するというものでした。Pour 4 violonistes という通常の五線楽譜に書かれた作品も試演してもらいました。もし音大に進んでいたら学内でこのような事が出来たのだろうと思いますが、私は音大に進むことは出来ませんでした。今ではこのようなエネルギーはありませんが、自力でホールを借り切り演奏家に協力してもらって個人的な実験をやり遂げてしまうなんて今考えたら、良く出来たな、無謀なことをしていたんだなと思います。協力してくれた皆さんに感謝しかありません。この実験の場に、指揮者村方氏を紹介してくれたNHKプリントセンター同僚の彼女のご主人が、團伊玖磨氏の生徒で、私の実験に強く興味を示して参加、そしていろいろとアドバイスをしてくれました。その後、彼から同じ團伊玖磨氏の生徒である渡辺宙明さんを紹介して頂き、また写譜の仕事も広がっていきました。ご存じの様にアニメ音楽の大家です。事務所もあったのですが、渋谷桜丘の自宅に伺うこともありました。ある日、自宅の部屋に入った途端、嬉しそうに息子さんの事を熱く語り始めたことがありました。赤い鳥のオーディションに受かってドラム奏者として参加することになったのだと、それは本当に嬉しくてたまらないという表情でした。皆さんご存じの作編曲家渡辺俊之さんの事です。

空間音楽の試みを公開コンサートで行う
このころOAG (オーアーゲー・東京ドイツ文化研究所:現ドイツ東洋文化研究協会 / ゲーテ・インスティトゥート)やアメリカンセンターなどで無料のコンサートが頻繁に行われていました。OAGではクラシックから現代音楽、実験的なものまで幅広くカバーする企画が魅力的でした。そのOAGには友人たちと何度も通い蔵書の楽譜を見せて頂くなどいろいろ勉強させてもらっていたのです。何度目かの訪問の時、担当者(ドイツ人職員)から君たち作曲をしているのならここのホールで作品発表コンサートをやってみないかと提案されたのです。費用の心配はしなくて良い、もともとOAGが企画していたシリーズの一回をそれにあてるというお話でした。もちろん喜んでその提案を受けることにしました。1974年3月15日に「日独現代音楽実験コンサートNo.11」が開催されました。内容はグループ「ミュージック・スペース」の公演という事でメンバーの4人の作品を演奏するという企画です。私は「Naturally」という作品を提出。当時国産シンセサイザーの発売前の試作品miniKORG 700Sをコンサートのために一時お借りすることが出来ました。そこで、電気ピアノ、シンセサイザー、4人の打楽器奏者、という6人編成のパフォーマンスを実現します。この作品では通常のスコアは作成しませんでした。始まりと終わりの形が予め決められておらず、12個の断片を用意して、何を演奏するかを指示するカードを即興的に提示して演奏家が反応するというものでした。会場の四隅に打楽器奏者を配置しました。使用楽器も厳密には指定せず演奏者が用意出来るものをそれぞれ多めに用意して頂きました。太鼓系、金属系、木製系等々。クレッシェンド、デクレッシェンドなどの偶然の組み合わせによって、空間的に音が移動するという効果が出ることも狙っていました。終了後、秋山邦晴さんからクセナキスの「ペルセファッサ」(1969)の様だったと言われたのですが、その時まだ私は「ペルセファッサ」の存在を知らず、後に知ることになります。

OAGホール

 

平石博一(ひらいし・ひろかず)
1948年生。独学で作曲を修得。70年代から80年代にかけて主にポピュラー・ミュージック、商業音楽系の作編曲やレコーディングの指揮などを行う一方、自作の発表を行うという独自の活動を展開してきた。
ミュージック・スペースというグループ展で作品を初めて発表した72年から一貫してミニマル・ミュージック的な作風を追求し続けてきた。作品はピアノ曲などの独奏曲,弦楽四重奏をはじめとする室内楽からオーケストラ、さらに電子音楽など幅広くあるが、93年制作の「回転する時間(とき)」にみられるようなある種のテクノ・ミュージック、ハウス・ミュージックとも呼べる作風も多く生み出している。
舞踏ダンサーや映像作家とのコラボレーションによるステージのための音楽も数多く制作してきたが、近年は美術家とのコラボレーションによる音楽制作、空間音楽パフォーマンスを継続して展開している。
1999年の秋から2000年の夏にかけてACC (ASIAN CULTURAL COUNCIL /An Affiliate of the Rockefeller Brothers Fund)の奨学金を得てニューヨークに滞在、パフォーマンス等を行ってきた。

(2025/7/15)