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日本フィルハーモニー交響楽団第770回東京定期演奏会|齋藤俊夫

日本フィルハーモニー交響楽団第770回東京定期演奏会

2025年5月10日 サントリーホール
2025/5/10 Suntory Hall
Reviewed by 齋藤俊夫(Toshio Saito)
Photos by Ⓒ山口敦(5月9日撮影)/写真提供:日本フィルハーモニー交響楽団

<演奏>
指揮:カーチュン・ウォン
ピアノ:サー・スティーヴン・ハフ(*)
コンサートマスター:田野倉 雅秋
<曲目>
芥川也寸志:『エローラ交響曲』
ブリテン:バレエ音楽『パゴダの王子』組曲(コリン・マシューズ、カーチュン・ウォン版)
ブラームス:ピアノ協奏曲第1番ニ短調Op.15(*)
(ソリスト・アンコール):ショパン:ノクターンop.9-2

 

明治以来の脱亜入欧から大東亜の虚栄を望み、戦後さらに欧化の度合いを増していくここ日本の人間として、「アジアの中の日本≒自分」「日本≒自分の中のアジア」を「西洋クラシック音楽」を用いて探求・表現するという重層化した屈折と逆説の業。芥川作品の中でも指折りの複雑な書法で描かれた『エローラ交響曲』で芥川が対峙し克服・昇華したのはその業であろう。また、この業はアジア・シンガポール出身のクラシック指揮者、カーチュン・ウォンも実感し共有しているものではなかろうか。

それにしてもなんと凄まじい『エローラ交響曲』であったことか! 譜面通りに演奏するだけでも難しいであろうが、さらにそこに指揮者・オーケストラの独創を加味することは想像するだに恐ろしい難題だ。
バスドラムがかろうじて聴こえるほどの弱音で拍を打つ不定形のバクテリア的世界から曲は始まる。やがてバクテリアは進化して形の整った音響生物が世界に現れる。音響生物は互いに相食み相交わり、豊かな生態系で熾烈な生存競争を繰り広げる。その生態系はちょうどこの地球の熱帯のよう。また音響生物の生存競争は踊りのようにも聴こえる。幾度も陽は昇り陽は陰り、幾度も春夏秋冬は巡り、音響生物の生態は極度に複雑化し進化して大量の音響生物の断片が対位的複層的に響き渡る! 音響生物の生態系が進化の極点に至って、音響生物の世界は爆発・破裂してまた不定形の世界、眠りの世界と化して曲は終わる。
と、こんな音響生物の生態系の進化発展史を思いつくがごときまばゆき演奏であった。音圧の強い、いわゆる爆演なのだが、各パートの音がこんがらがって団子になることのない切れ味で多層的な音響を見事に采配していた。毎度のことながらカーチュン・日フィル恐るべしと言えよう。

2曲目、ブリテン『パゴダの王子』、先の芥川作品(1958年初演)から1年後に初演された作品である。
第1幕開幕とほぼ同時にブリテンのお家芸「複調」が聴こえたような気がするが定かではない。主人公ローズ姫のテーマ、オーボエの憂いを帯びた旋律が実に美しい。
第2幕、何と言っても金属鍵盤打楽器にチェレスタ、ピアノ、シロフォンが合わさってのガムラン的楽想に耳と心が捕らわれる。ホール外からのトランペットの音も入ってきて、さらにエキゾチックな南国的夜のゆったりとしたガムランへと繋げられる。
第3幕、そこかしこにガムラン的楽想が聴こえるが、ローズ姫と王子のパ・ド・ドゥに至るともうアジア的な要素は皆無となる。おどけて、可愛らしくメルヘン・バレエは終わる。
しかつめらしい事を言えば「西洋普遍」による「アジア的」なものへの植民地主義的バレエなのかもしれないが、そう切って捨てるにはあまりにも愛らしい作品であった。

アジアと日本と西洋クラシック音楽のアマルガム的芥川、「西洋から見たアジア」のブリテン作品と来て、最後はほぼ純粋な(ほぼ、と断ったのは全くの文化的純粋はありえないから)西洋クラシック音楽のブラームスの交響的ピアノ協奏曲で締められた。
第1楽章、ハフのピアノもカーチュン率いる日フィルも西洋保守本流、王道を行く。ジェントルでエレガント、強音であってもピアノはあくまで「弾く」ものであって、「叩く」ものではない。オーケストラも同じく、あくまで「奏でる」のであって「ぶつかっていく」ものではない。
そしてハフによるカデンツァが素晴らしい。遠い恋愛の想い出のようなノスタルジア。あるいは1.6世紀昔のドイツ人のジェントルネスへのノスタルジアか。
しかしずっと弱音で奏でられていたピアノが突然激情を迸らせ、オーケストラもそれを受けて燃え上がり、ピアノによる強音アルペジオからトゥッティで悲劇的に第1楽章が了となる。
第2楽章、実に優しい導入、なんと優しいピアノ独奏。何もかもが懐かしい美しさ……ノスタルジア……。ピアノの音がやや重くなってもブラームスの均整は保たれたまま。最後は全てが想い出の彼方に去ってしまったように寂しく甘やかに。
第3楽章、この楽章でもハフ、カーチュンはブラームスの音楽で筆者の切なさを掻き立てた。ベートーヴェンのオーケストラ曲になくてブラームスのオーケストラ曲にあるものはこのノスタルジアの感覚ではなかろうか。
ピアノが大車輪の短調の独奏で迫り、そこからホルンなどの柔らかい音で長調の和解、赦しの音が降り注ぎ、ピアノがさらなる超絶技巧でこの交響的ピアノ協奏曲終わりの時が来る。何たる喜びであろうか。このような音楽があるということは。

演奏会最後のソリスト・アンコールのショパンまで聴いて、筆者は何故か誰かに励まされているような気分になった。誰か、とはつまり今回聴いた音楽だろうが、それが親しい旧友であるような気がしたのだ。時代の古今、洋の東西を超えて友情を育むことができるのならば、まだ人類は音楽を友として生きていける、そんな気がした。

(2025/6/15)