低音デュオ第17回演奏会~低音のカタログ~|齋藤俊夫
2025年4月23日 杉並公会堂小ホール
2025/4/23 Suginamikoukaidou Small Hall
Reviewed by 齋藤俊夫(Toshio Saito)
Photos by 後藤天/写真提供:低音デュオ
<演奏>
バリトン、声:松平敬
チューバ、セルパン(*):橋本晋哉
<曲目>
福井とも子:『doublet IV』(2019)
川崎真由子:『低い音の生きもの』(2023/25)改訂初演 詩:小笠原鳥類
山田奈直:『内裏玉』(2025)委嘱初演
安野太郎:『鏡の中』(2025)委嘱初演(*)
川上統:組曲『雲丹図録』(2025)委嘱初演
1. プルテウス幼生
2. ムラサキウニ
3. ラッパウニ
4. タコノマクラ
5. ブンブクチャガマ
6. パイプウニ
7. シロウニ
8. スカシカシパン
9. ヒラタブンブク
10. トゲザオウニ
11. ジンガサウニ
12. トックリガンガゼモドキ
13. ウニ殻
野村誠:『どすこい!シュトックハウゼン』(2021)
アンドレ・ジイドは「定評のあるもの、または、既に吟味され尽くしたものより外、美を認めようとしない人を、私は軽蔑する」と述べています(中略)真の美しさを発見するためには、逆説のようですが、同年代の教養と呼ばれているものを、一応、否定する位の心がまえが必要です。1)
伊福部昭をこよなく愛する筆者が、同時に前衛・実験の奇想の系譜に連なる現代音楽をもまた愛する由縁は上記の伊福部の言に尽きよう。自分の中にある「音楽」を「否定する位の心がまえ」で臨み、見事に「否定された」ときのその「絶対的肯定感」こそが現代音楽の醍醐味というものであろう。その醍醐味を毎回味わわせてくれる松平敬・橋本晋哉の低音デュオ、今回はどのような「否定による肯定」を味わわせてくれたかと言うと……。
福井とも子『doublet IV』、様々な手法・音色による2人の息音と足踏みのアンサンブルの中に松平が持つ発泡スチロールのブロックをこする”sh…sh…”と”q…q…”の混じった音が入り込む。チューバの音に実音の割合が増えていき、松平もタンバリンやスネアドラムを叩いたり擦ったりしながら歌い始める。だがその歌はさっき呟いていたと思えば今朗々とベルカントで歌う、といったように歌詞も旋律も歌唱法も何もかもが断片化されている。それに対抗するかのようにチューバも甲高く叫んだりして、まるで死体に電気を流して踊らせているかのような不気味なステージが現出する。突然現れる終曲も死のように突然に。
川崎真由子『低い音の生きもの』、「低い音の生きもの……それはサンショウウオであってサンショウウオではない、あるいは深海のチョウチョウウオが低い低い、深海で一種類だけ泳いでいたサンショウウオのようなもの呼吸する呼吸する、その、手、足……シーラカンスは金属で作られていた」といった、過度に冗長で朦朧かつ混乱しているが音楽的な文体の詞・詩を、前後の脈絡が一見なさそうな様々な唱法・奏法で歌唱・朗読・吟詠・演奏・演技する。
「とても、音が、ひ~~く~~い~~」と松平が低音の限界で歌う。「バルトークではないランボーが、テレビではないクイズではない料理ではないだろうルービック・キューブのような」、松平がタンバリンを叩きつつ早口の限界で歌い、ヒステリックな反復が狂気を帯びる。「そのバッタは、ペンギンだろうかピアノはブラームスを聴いている絵の具と屋根」「人々を見ているテレビ」朗々と歌う。「ウグイスの鳴き声は、ヴォーツェック!」ベルカントの極みの美声で。
松平頼暁を彷彿とさせる計算され尽くしたカオスの洪水、というのが作者にとって褒め言葉になるのか、貶すことになるのか筆者にはわからないが、筆者としては最高級の褒め言葉として作詞の小笠原鳥類共々松平頼暁の系譜に連なる者としたい。
山田奈直『内裏玉』、まずタイトルが読めない。「ダイリ‐ギョク」とは何だ?プログラムノートによれば江戸時代に輸入されたサボテンの一種だと言うが、それが何故音楽作品のタイトルに?
そんな初歩的な疑問など吹き飛ばすような謎に包まれた一作であった。
松平は緑色、橋本はマウスピース付き(だったと思う)の白色の塩化ビニール管をチューバに取り付け(取り付け方がわからなかったのが痛恨である)、バルブの1つにゴム風船をはめる。松平は他にスライドホイッスル(だったと思う)を口にしていた。
その舞台上で展開されたものは……私は何を観て何を聴いたのだろうか? 曲の中盤と最後でチューバにはめられたゴム風船に息が吹き込まれて膨らみ、会場の皆の笑いを誘い、時折スライドホイッスルが脱力させる「ピー」という音を鳴らすだけ……。いや、私が見聞きしたものはそれ以上のものだったはずだ……。なのに脳裏に浮かぶのは風船が中途半端な大きさまで膨らむ(割れるまでは膨らまない)あの光景だけ。何だったのだろうか? わかる人は教えてほしい。私は何を見聞きしたのだろうか? ただ、確かに私は笑った。そのことだけは真実だ。
安野太郎『鏡の中』、テクストとしているワレリー・ブリューソフの短編小説がまず面白い。主人公「私」は鏡に映る自分の姿を『私の姿をした男』という、自分とは別の存在と認識している。やがて『破滅の日』に、鏡に映った『その男』が鏡の前にいるはずの「私」と入れ替わってしまい、『いまや私の敵は、私の妻の夫となりすまし、私の生活を生きています』という状況に陥ってしまう。しかし、『そこで私は彼に、あえて命令を下すことを試みてみました。すると、彼はちゃんと実行したのです!』と、彼我がまた一体化していき、ついに「彼」と「私」は鏡の向こうとこちらを越えてまた入れ替わる。そうなると『私のなかに、もうひとりの本当の私の思い出、思考や感情が移ったにすぎません。そして実はこの私は、鏡の奥の非実在に投げ込まれ、疲れ果て、死にそうになっているのです』と今の「私」の中にある「彼」の記憶に苦しみ、そこから逃れるためには『私は、必ずきっと、あの鏡の奥をもう一度のぞき見なくてはならないのです!……』で物語は締められる。
この物語がどう音楽で表現されたかと言うと、まず、「私は」「私が」「私を」と、〈私〉という単語が入ったごく短い文節だけが歌唱され、その文節以外は朗読される。セルパンはその歌唱部分と同じ音型を同時に奏でる。次第に「私」云々のセンテンスが伸びていき、「私」とは歌手なのか、歌手と鏡像関係にあるはずのセルパンなのかわからなくなっていく。
作品の中盤、「私」が「彼」と入れ替わるシーンから、松平は一方に電子機材(トークボックスか何か)を、もう一方に棒状のマイク(か何か)を付けたビニール管の、マイク(か何か)を口に入れて朗読か歌唱か、何を言っているのか歌っているのかよくわからない歪んだ発声をし始める。セルパンは語るような旋律を奏でる。「私」が消失する。
さらに物語が進むと歌唱とマイク(か何か)とセルパンと松平と橋本の肉声などが入り混じり、空間は万華鏡のごとく錯乱する。最後はビニール管の両端に二人が口をつけて何かを言って(歌って?)了。幻想怪奇小説の音楽的翻案として出色の作品・再現であった。
川上統の組曲『雲丹図録』は、タイトル通り様々な雲丹を題材として作曲されたバリトンとチューバのための純音楽組曲。二人が最低音域で「Oh……」と呻く「プルテウス幼生」、二人が「ke ke ke ke go go go go ma ma ma ma…… 」と乱舞する「ムラサキウニ」、松平が「fa-fa-fu-fi……」とフワフワした声で歌い、チューバは息音でリズミカルに踊る「ラッパウニ」、「owaaaa owaaaaa owaaaa……」と二人上行グリサンドで漂う「タコノマクラ」、唇を震わせる「prprprprprpr……」に「tk tk tk tk dk dk dk dk……」とこれもまたリズミカルに跳ね回る「ブンブクチャガマ」、「pa ha pa pa wa paaaaa poooo la li la li la la la ……」と謎めいた動きを見せる「パイプウニ」、チューバが鈍重に気だるく動く中「ha hu ha hi hu fi fa fo fu ni hi hu ni hi hu ni ni ni ni……」と転がり続ける「シロウニ」、「pa ha ha ha non no non no non non no no……」と二人でメロディアスに歌い奏する「スカシカシパン」、また唇を震わせて、高音の「prrrrr prrrr prrrr……」にチューバが慌ただしくついていく「ヒラタブンブク」、「rrrrrrrrr(巻き舌) lulululu rrrrrrrr……」にチューバが跳躍音型で色彩をつける「トゲザオウニ」、「ben ben bebebebbebebbebe dun dan don ben don ben don……」と二人で踊り狂う「ジンガサウニ」、チューバ最強音で、「papapappappapaaapaaa……」とジャズチックにキメる「トックリガンガゼモドキ」、チューバはタップ音などを発し、「n— n— paaaa puuu fa fw fu ha ha krrrrr shiiii……」と枯れた世界に消える「ウニ殻」で全曲終了。雲丹だけでこれほどの音楽世界が広がるのか……!
最後を締めたのは野村誠『どすこい!シュトックハウゼン』、シュトックハウゼンは相撲が好きだったのは本当らしいが、彼の発言であったりそうでなかったりする相撲に関する言葉を連ねた「どすこいシュトックハウゼン、どすこいシュトックハウゼン」といった歌詞を松平が朗々と歌い上げる。舞台はミュージカル的な様相を呈し、「立ち合いは、音楽は、世界は一瞬!」「待ったなし!」で松平と橋本が見合って、溶暗。
筆者の中にあった「音楽の姿」を土台からひっくり返し、その上に新たな「音楽の姿」をそびえ立たせる演奏家・作曲家たちの出会いに「立ち合えて」本当に幸せだった。伊福部ファン層には縁が薄いかもしれないが、彼らにこそ鑑賞してもらって度肝を抜かれてしまうようなことがあったら嬉しいな、なんて少し意地悪なことも考えてしまう筆者であった。
1)伊福部昭『音楽入門』KADOKAWA文庫、2016年、13頁。
(2025/5/15)
