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注目の一枚|Crypte 土橋庸人(ギター)|齋藤俊夫

Crypte 土橋庸人(ギター)

ALM Records/有限会社コジマ録音
ALM-143
4月7日発売

<演奏>
ギター:土橋庸人 (*)多重録音
<曲目>
1.渡辺裕紀子:『Quasi Senza Tempo #1-5』(*)
2.渡辺俊哉:ギター・ソロのための『複数の声』
3.渡辺裕紀子:『Quasi Senza Tempo #1-5』(*)
4.山本裕之:ギターのための『揺らめくサラバンド』
5.渡辺裕紀子:『Quasi Senza Tempo #1-5』(*)
6-10.木下正道:ギター独奏のための『Crypte XV』
11.渡辺裕紀子:『Quasi Senza Tempo #1-5』(*)
12.夏田昌和:ギター・ソロのための『木漏れ陽』
13. 渡辺裕紀子:『Quasi Senza Tempo #1-5』(*)

騒音の時代、さらに言えば資本主義と騒音が結託した時代を我々は生かされている。録音技術の発明以来、ラジオ、トーキー映画、テレビ、PC、街中・店中・駅中と、ありとあらゆる所のスピーカーに囲まれた、騒音資本主義文明の中でいかに静けさを取り戻すべきか? そもそも、それは取り戻せるものなのか?

とある、静けさを音で彫り出したような音楽を書く作曲家が、自分は家ではヘビメタの轟音の中で作曲すると言ったのを聞いて筆者は驚かされた。「この人の内なる静けさはなんと鞏固なのだろう」と。
夕方5時に街中の拡声器から垂れ流される「夕焼け小焼け」の淫靡な騒音を打ち破り、ヘビメタの真っ向唐竹割りの轟音の中でこそ真の静けさは姿を現すことができる。騒音を打ち破る轟音を通過して静けさへ――。
何を隠そう、この作曲家こそ本CDの中心的位置を占めている大曲『Crypte XV』をものした木下正道に他ならない。本作にも聴こえる轟音的曙光と静けさの寂光の対照に筆者はたまらなく耳洗われる心地がする。ここには騒音資本主義の力の及ばない音(楽)の桃源郷が待っている。

本CDの中心に位置するのが木下作品であるが、それぞれの作品を緩くプロムナード的につなげるのが渡辺裕紀子『Quasi Senza Tempo #1-5』(邦訳すると、「ほとんどテンポなしで」)である。ごく単純でごくゆっくりした弱音の音階だけを延々と土橋庸人が多重録音した作品だが、その多重録音のズレによるうねりやどこからか混じるノイズによって微妙に表情を変えるしじまの姿(しな)にまた耳洗われ、作品ごとに耳が清らかな状態で聴くことを可能にする。

記述すると渡辺作品に似てしまうのに、決して同類ではないところがまた面白いのが夏田昌和『木漏れ日』である。微分音を含んだアルペジオの和音がこれも延々と淡々と弾かれるのだが、「ギターを学び始めたばかりの一人の若者が、秋から冬にかけてのある晴れの日の夕刻、人気のない静かな公園や森の木々の下で、誰に聞かせるでもなく延々とアルペジオ和音の練習をしている」という具体的なイメージから書かれたと作曲者が言う通り、静かで、豊かで、少し寂しい、一人ぼっちの情景が音によって脳裏に浮かぶ。

静けさだけにとどまらない妙味を味わわせてくれるのが渡辺俊哉『複数の声』と山本裕之『揺らめくサラバンド』である。前者はハーモニクスの高次倍音による静かな陽炎の中から、ピアニッシモからフォルテシモの「声」が湧き上がる。後者は山本ならではの「輪郭主義」的な微分音の歪みの群れによって音空間がひずむ中でギターが一人歌う。静けさの中から聴こえてくる、本物の、資本主義に毒されていない、人間が歌う「声」。それは冷たくも熱くもなく、温かい。

文明の狂気とも言うべき騒音に囲まれた世界で、人間であろうとした音楽(家)たちが集っている、そんなCDが生まれた。破滅的な世界の中で、確かに生きようとしている人間がいるという、証しとも言うべき一枚だ。

(2025/5/15)