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リッカルド・ムーティ指揮 東京春祭オーケストラ|藤原聡

リッカルド・ムーティ指揮 東京春祭オーケストラ

2025年4月12日 東京文化会館
2025/4/12 Tokyo Bunka Kaikan Main Hall
Reviewed by 藤原聡(Satoshi Fujiwara)
Photos by 池上直哉/写真提供:東京・春・音楽祭2025

〈プログラム〉        →Foreign Languages
ヴェルディ:歌劇《ナブッコ》序曲
マスカーニ:歌劇《カヴァレリア・ルスティカーナ》間奏曲
レオンカヴァッロ:歌劇《道化師》間奏曲
ジョルダーノ:歌劇《フェドーラ》間奏曲
プッチーニ:歌劇《マノン・レスコー》間奏曲
ヴェルディ:歌劇《運命の力》序曲
カタラーニ:コンテンプラツィオーネ
レスピーギ:交響詩《ローマの松》

〈演奏〉
指揮:リッカルド・ムーティ
管弦楽:東京春祭オーケストラ

 

1975年、ウィーン・フィルの来日公演。メインの指揮者はカール・ベームであったが、既に80歳を超えていたベームのカバーの意味合いがあったのだろう、当時34歳であったリッカルド・ムーティも帯同した(この際のムーティのコンサート評を読むと辛辣なものも目立つ)。それがムーティの初来日だったというが、となると今年2025年はそこからちょうど50年の節目の年ということになる。数字は数字でしかないのでそれ自体に意味はないのだが、しかし半世紀、これだけの長きにわたって第一線で活躍してきたということそれ自体に敬意を覚える。そんなムーティが東京・春・音楽祭に初登場したのは2006年、そこから今年まで11回も来日しているというから、もはやこの音楽祭の「顔」と言っても差し支えなかろう。今回のムーティはオペラ全曲は演奏しない代わりに、イタリア・オペラの序曲、間奏曲とレスピーギの『ローマの松』を取り上げる。ムーティでイタリア・オペラとなればもちろんヴェルディ、しかし今回はヴェルディの序曲以外にもマスカーニやプッチーニなども取り上げる。昔は「ムーティはヴェリズモを振らない」「プッチーニは指揮しない」などと言われていたものだが、その後、もちろんヴェルディほどの頻度ではないにせよたびたび演奏するようになる。とはいえ、間奏曲ではあるがこれらを日本で聴ける機会もそうそうなかろう。オケはもちろん東京春祭オーケストラ。

ステージに登場したムーティ、83歳とはとても見えぬ身のこなし、体幹ががっしりしている。最初に演奏されたのはヴェルディの《ナブッコ》序曲。冒頭のトロンボーンとテューバによる柔らかい和音からのトゥッティへの流れの見事さ。音は引き締まってカラッとしていると同時にしなやかさもあり、かつ以前よりいくらか重みがある。ここを聴いただけでムーティは日本の若手メンバーを中心としたオケからよくこのような響きを引き出したものだと瞠目する。ありていな言い方になってしまうが、いかにも作品にふさわしいイタリアの音、という感じなのだ。主部以降のカンタービレやリズムの弾ませ方などに衰えはまったくないどころか、昔のムーティ―全曲録音盤やスカラ・フィルを指揮した演奏―に感じられた、しごきにしごいたといういささか窮屈なリゴリスティックさが完全に消えており、その音楽ははるかに柔軟さと自由さを獲得している。この統制と融通無碍の両立。

マスカーニ《カヴァレリア・ルスティカーナ》間奏曲での入念なアーティキュレーションによる歌は単に甘いだけではない旋律の襞、陰影をも表現。後段に至る前のスビト・ピアノなどのニュアンスの変化がまた聴き手の心を湧き立たせる。

続くレオンカヴァッロ《道化師》間奏曲の威圧的な響きと後半の悲痛極まるヴァイオリンの高弦による叫びの対比、単純と言ってしまえばそれまでのジョルダーノ《フェドーラ》間奏曲における抑制美は曲の通俗的側面を忘れさせ一気に高貴さをまとう。プッチーニ《マノン・レスコー》間奏曲中間部の激情からのラストの光明へのドラマの推移もまた濃密の極み、凄い。どれも短い曲なのにその中に出来するドラマの深さ。まるでアサヒの1本満足バーを食したかのような満足感(なんだその喩えは)。

そして前半最後の《運命の力》序曲。言うまでもなくムーティの名刺代わり、アンコールでしばしば取り上げる作品だが、ここでも以前の直線的な音楽進行よりもはるかに歌の陰影、深みが増す。冒頭のダイナミクスの細やかな変化や弦の内声の雄弁さによる声部間の立体性は以前の演奏には聴かれなかったものだ。後半の高揚もまたしかり、以前より単純な音響的輝かしさはいくらか後退すれど、その後のオペラ作品全体を予見させるような表現性に富む。最初の《ナブッコ》とこの《運命の力》はムーティ得意の作品ゆえ録音はもちろん実演でも何度か接しているが、今回の演奏の深化は明確にムーティの「円熟」の賜物という他ない。しかも、いくら抜群の技術を持つとはいえまだ若い日本人の奏者ばかりで構成された常設ではない東京春祭オーケストラを指揮して。これが本当の「指揮者」というものだろう。

後半はカタラーニのあまり知られていない作品、コンテンプラツィオーネ。これはムーティお気に入りのようで、かつてスカラ・フィルと録音も行っている。いつまでも途切れることのないような錯覚を抱かせる甘美な長い旋律線、その歌い方のなんという細やかさ。管楽器との歌い交わしも繊細で美しい。

トリを飾るはレスピーギの《ローマの松》。ムーティでこの作品といえばフィラデルフィア管と1984年に録音した演奏が未だに本作の名盤として語られるし、筆者もこの演奏には親しんだものだ。あれから41年、それは変わるに決まっているだろう、とはいえやはりその変化は誠に興味深い。録音ではボルゲーゼ荘の松から快速テンポでオケをグイグイとドライヴするが、この日の演奏ではテンポはかなり落ち着き、響きの重心は下がる(録音と実演の違いを考慮しても明らかだ)。カタコンブ付近の松では低弦の量感が増し、クライマックスでの高揚は息が長い。以前の演奏が「短距離走型」であるならば、今回は明らかにフレージング全体を意識しているために物理的な演奏時間ではない「時間性」を感じさせる。ジャニコロの松は繊細の極み、鳥笛はステージ最後列の奏者2人が吹く。そしていよいよアッピア街道の松。ここでもテンポは録音より落ち着きを見せるが、何よりもクライマックスに至る設計の巧みさが増す。音響を抑制気味に進め、最後の最後に至ってここぞとばかりに全開にする。であるから、カタコンブ付近の松と同様に聴き手は時間性をより意識させられることとなり、その分開放された際のカタルシスは強烈だ(なお、バンダはヴァイオリンと低弦後方の両翼に配置)。この凄演をいかにも肩の力が抜けた余分な動作のない指揮ぶりで導き出すムーティ、昔の力みかえった指揮ぶりとは別人のようだ。

筆者の記憶が確かならムーティの実演を聴いたのは9年ぶりだが(東京芸術劇場での東京・春・音楽祭主催による日伊国交樹立150周年記念オーケストラ)、その時に比べてもこの指揮者はさらに深い音楽をするようになっていた。なんという年の取り方だろうか。どうやら今のムーティは聴ける限り聴いた方がよさそうだ、と今さら気付いたのであった。

(2025/5/15)

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〈Program〉
Verdi:“Nabucco”Overture
Mascagni:“Cavalleria Rusticana”Intermezzo
Leoncavallo:“Pagliacci”Intermezzo
Giordano:“Fedora”Intermezzo
Puccini:“Manon Lescaut”Intermezzo
Verdi:“Forza del Destino”Overture
Catalani:Contemplazione
Respighi:Pini di Roma

〈Player〉
Conductor:Riccardo Muti
Orchestra:Tokyo-HARUSAI Festival Orchestra