武久源造 春のリサイタルwithヴァイオリン ジルバーマン・ピアノ&バロック・ヴァイオリンで蘇るJ.S.バッハの宇宙|秋元陽平
武久源造 春のリサイタルwithヴァイオリン
ジルバーマン・ピアノ&バロック・ヴァイオリンで蘇るJ.S.バッハの宇宙
Genzo Takehisa spring recital with Violin
2025年4月25日 旧東京音楽学校 奏楽堂
2025/4/25 Sogakudo of the former Tokyo Music School
Reviewed by 秋元陽平(Yohei Akimoto)
Photos by 山川節子
〈演奏〉
武久源造(ジルバーマン・ピアノ)
硲美穂子(バロック・ヴァイオリン)
〈曲目〉
J.S.バッハ:ヴァイオリンとオブリガート鍵盤楽器のためのソナタ 第1-2番(BWV1014,1015)
<シンフォニア>アラカルト
ヴァイオリンとオブリガート鍵盤楽器のためのソナタ 第3番 BWV1016
J.S.バッハ(武久源造編):シャコンヌ
(アンコール:自作曲)
ヴェテラン古楽演奏家のレクチャーコンサートと思うなかれ。さながら若いシェフがレシピを書き換えて、斬新な一皿で馴染み客を驚かそうとするような溌剌とした探究心がある。
世俗曲のなかで一段と厳粛な無伴奏ヴァイオリンと比較すると、クラヴィーアを伴う3曲のソナタのほうについてわたしは、どちらかというとすでにギャラント様式を思わせる、余裕のある優美さという印象をもっていた。だが武久は音色の立ち上がりにいくばくか苦労しているヴァイオリンをぐいぐいとリードし、音数の多い部分もエネルギッシュに詰めていく急迫した演奏だ。次第に音が伸びやかになったヴァイオリンも目まぐるしいオブリガートをもってこれに応え、緊密なアンサンブルを織り上げていき、聴き手の息をつかせない。この推進力がどこから来るかといえば、この楽曲が実のところ、いわば求道的な性格をもっているという武久の確信からくるのかもしれない(プログラムには、この楽曲がイエスの生涯と重ねられうる点が仄めかされている)。
つづく「アラカルト」と銘打たれたパートは、良い意味で期待を裏切る展開だった。シンフォニアのうち1番、6番、11番の前後に武久による即興演奏が挟まれるのだが、なにしろバロックの演奏家による即興という先入観を覆す、複調、非機能和声、『水の戯れ』ばりの催眠的なアルペッジョと、無国籍コース料理のような大立ち回りである。東京音楽学校ではフランス音楽はさして教えられていなかったはずで、その意味ではここ奏楽堂は西洋音楽受容史においてフランス・アカデミズム以前に遡る古層であり、そこの地霊(ゲニウス・ロキ)と武久のモダンな即興が交感する試みのようで面白い。
今更ながらジルバーマン・ピアノについて。武久によればチェンバロとフォルテピアノの両方の性質を持つが、わかりやすいところではカプラー(鍵盤をずらし、同音を二本の弦で鳴らす)を入れると明確にチェンバロの音色に近づき、外すとフォルテピアノに戻る。詳しい機構はわからなかったが、その中間の音色も選択できるようだ。武久編曲によるシャコンヌはこのギミックをふんだんに取り入れて、ショパンのエチュードも顔負けの、右手の上を左手が飛び越すような技巧さえ感じる(ただしそんな場面があったかは定かではない)ダイナミックな演目だ。ジルバーマン・ピアノは和音を重厚に鳴らしても声部間の差異が比較的よく聴き取れるので、ずっしりとした音の厚みが堆積する迫力のなかで、反復されるテーマを追いかけることもできる。
アンコールで、種明かしのように武久自身の作品が披露され、ロマンティックな魂が生のまま顔を出したように感じられた。調性音のパレットについて言えば、坂本龍一と同世代か、とふと思わせるところもあるが、オブリガートが多様かつ丁寧に作り込まれているところや、頻繁だがロジックをしっかりそなえた転調、カデンツ(?)の収まりの良さなど、バロックで培った美意識を随所に感じさせる。なにより、そこには燃えるようなロマンがある。音楽に対するまっすぐな信頼、人間に対するまっすぐな希望というべきか。とまれ、一筋縄ではいかないこのリサイタル、バロックを普段きかない人こそ聴きにくるべきだと感じる。
(2025/5/15)