Trio Rizzle Vol.4|丘山万里子
Trio Rizzle Vol.4
2025年3月10日 トッパンホール
2025/3/10 TOPPAN HALL
Reviewed by 丘山万里子(Mariko Okayama)
Photos by 大窪道治/写真提供:TOPPANホール
<演奏> →Foreign Languages
Trio Rizzle:
毛利文香(ヴァイオリン)
田原綾子(ヴィオラ)
笹沼 樹(チェロ)
<曲目>
シェーンベルク:弦楽三重奏曲 Op.45
J.S.バッハ:ゴルトベルク変奏曲 BWV988
(D.シトコヴェツキ編 弦楽三重奏版に基づくTrio Rizzleバージョン)
Trio Rizzle 第4回公演は、シェーンベルク『弦楽三重奏曲』とバッハ『ゴルトベルク変奏曲』( D.シトコヴェツキ編弦楽三重奏版に基づく Trio Rizzle バージョン)。毛利文香vn、田原綾子va、笹沼樹vc、いずれもあちこちで大活躍の面々だが、2021年の結成から回を重ねてのこのプログラム、思わず引き寄せられる構成ではないか。
ヒットラー政権成立の1933年、アメリカ亡命後のシェーンベルクの代表作である『弦楽三重奏曲』冒頭、剥き出しの神経をガリガリ引っ掻くような音景に、裂かれる。当時、作曲家の置かれた状況、強迫と抑圧にわずかな光が瞬く、そもそも音楽が時代を予知するものであれば、それが12音技法の成り立ちでもあったろうが、年若い今日のRizzle3名がこれほどまでに喰い込むものとして音化しているのに、筆者は凝然たる思いであったのだ。
ナチス下の人間の振る舞い、あるいは太平洋戦争下での日本の振る舞い、そして次々大統領令を発し世界を断ち切るアメリカの現状をそこに重ねられるほどまともな感性を、今の私たちは持っているだろうか。そういう教育を受けているだろうか。先の見えないウクライナや、千古の昔から続くイスラエルとパレスチナの流血を動画で知る現代であっても、垂れ流される画面と情報が永劫の人間の悲業を顕している、などといった眼を心を肉体を持つ人などそうは居まい。
けれど彼らは、シェーンベルクの置いた音符をスコアを通し、あたかも「そこ」に自分たちが居るかのように、残酷に美しく、逼迫に切り刻まれながらも見るわずかな夢の欠片を、「ここ」に現前させたのだ。
「アウシュヴィッツの後で詩を書くことは野蛮である」(アドルノ)という言葉の意味するところは様々だが、それが「アウシュヴィッツ」という地点時点の以前以降のことではなく、連綿と巡回する人類の血の闘争における「詩」あるいは「歌」のあり方への疑義でもある、と考えるなら、だからこそシェーンベルクも、彼の遺した音楽を現前させるRizzleも、このように叫び、歌っているのではないか。
筆者はそこに『夜と霧』(V・E・フランクル)の一節をありありと思い浮かべたのだ。
労働で死んだように疲れ倒れこむ囚人たちに、一人の仲間が飛び込んできて、日没の光景を見逃させまいと促す。
われわれはそれから外で、西方の暗く燃え上る雲を眺め、また幻想的な形と青銅色から真紅の色までのこの世ならぬ色彩とをもった様々な変化する雲を見た。そしてその下にそれと対照的に収容所の荒涼とした灰色の掘建小屋と泥だらけの点呼場があり、その水溜まりはまだ燃える空が写っていた。感動の沈黙が数分続いた後に、誰かが他の人に「世界ってどうしてこう綺麗なんだろう」と尋ねる声が聞こえた。(『夜と霧』フランクル著作集1 みすず書房 1961)
Rizzleの3名がスコアに何を読み取り、どう演奏しようとしたかは知らない。だが、筆者に迫ってきたのはフランクルの描くこの光景より他にない。
かつてアウシュヴィッツの監視塔から見渡した収容所全景は、並木道に秋風がわたり、並ぶバラックの戸口に小さな草花がそよぎ、ただただ茫漠たる白茶けた土の広がりであった。
後半、『ゴルトベルク変奏曲』のアリア呈示部は、まるでこの「世界ってどうしてこう綺麗なんだろう」の呟きから立ち昇ってきたように、大事な大事な手のひらの中の歌の欠片をそっと宙に向けて飛び立たせるように、あわあわと弾かれたのである。筆者は全身でそのアリアを呑んだ。そうしてとりどりの変奏の流れ羽ばたき踊るさまに、ひたすら心身を委ねた。この変奏曲が不眠症の伯爵のために書かれたというエピソードはともかく、音楽の愉悦そのものであることは聴けばわかることだ。当時のバッハの安寧(だろうか)はシェーンベルクの酷烈に比べるべくもなかろうが、その変奏の一つ一つが筆者には魂の慰撫と思われた。時代時代に常に喜びと痛苦は実は同量で(持つもの持たざるものの圧倒的差異にある幸不幸を無視するわけではない)、魂に「進化」などない。ひとはその間を往還し続ける、それだけだ。アウシュヴィッツの前も後も、誰かがどこかで「それでも、それだから」を説き、誰かがどこかで夢み歌ってきたし、これからもそうなのだ。それが人間で、音楽だ。
リズルの編んだ独自のヴァージョンのどこが独自か、などということに耳そばだてる神経は筆者にはない。ただ一つの了解、シェーンベルクとバッハに架かる大きな橋を、人類の夢の形を、私は見たよ、ありがとう、という謝意だけを胸に残した。
いずれAIが席巻するであろう未来に、「それでも、私は」という語りを失いたくない。
誰かの「見ようよ」という呼びかけに応え、あるいは、自分がその誰かになることを、引き受ける人間でありたい。
この夜の演奏に筆者が受け取ったのは、それだ。
(2025/4/15)
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< Performers>
Trio Rizzle :
Fumika Mohri, vn / Ayako Tahara, va / Tatsuki Sasanuma, vc
<Program>
Schönberg : Trio for Violin, Viola and Violoncello Op.45
J.S.Bach(arr. D.Sitkovetsky / Trio Rizzle) : Goldberg Variations BWV988 for String Trio