東京交響楽団 第728回 定期演奏会 | 藤原聡
東京交響楽団 第728回 定期演奏会
TOKYO SYMPHONY ORCHESTRA Subscription Concert No.728
2025年3月29日 サントリーホール
2025/3/29 Suntory Hall
Reviewed by 藤原聡(Satoshi Fujiwara)
Photos by ©平舘平/写真提供:TSO
〈プログラム〉 →foreign language
ニールセン:序曲「ヘリオス」
ベートーヴェン:ピアノ協奏曲 第3番 ハ短調 op.37
※ソリストアンコール
ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第6番 ヘ長調 op.10-2〜第3楽章
プロコフィエフ:交響曲第5番 変ロ長調 op.100
〈演奏〉
東京交響楽団
オスモ・ヴァンスカ(指揮)
イノン・バルナタン(ピアノ)
田尻順(コンサートマスター)
ヴァンスカの東京交響楽団初客演である。この指揮者、日本のオケにおいては既に読響と都響を指揮しているが(他にもあればご教示を)、その際のプログラムには常にシベリウスが入っていた。もちろんかつてのラハティ響との数々のシベリウス録音および伝説の来日公演、あるいはミネソタ響とのあまりに見事な同作曲家の交響曲全集再録音であまねく知れ渡るように、ヴァンスカのシベリウス演奏は格別の高みにある。しかし当たり前のことながらヴァンスカのレパートリーはシベリウスだけではなく相当に幅広い。そして、今回の東響初客演では敢えてシベリウスを外した選曲となっている。シベリウスをやれば集客は期待できるが、そうでなければいささかのリスクがあるだろう。そこを引き受けた上でのこのプログラム。シベリウス以外のヴァンスカ―録音は数多く存在するが―の力量をしかと確かめるまたとない機会である(なお本コンサート、当初はコンサートマスターにグレブ・ニキティンが予定されていたが急な体調不良により田尻順に変更となった)。
まず1曲目はニールセンの「ヘリオス」。冒頭のチェロとコントラバスの抑えた音量による透明な和音の作り方からしてヴァンスカのコントロールが絶妙に効いている。次のホルンは音程の不安定さがあれども対位的な構造が明確に提示され、曖昧さは微塵もない(余談だがこの部分、ワーグナーの「ラインの黄金」冒頭を想起させる)。その後アレグロに移行してからのトゥッティも音量的な迫力は十分ながら全体の響きが整理されているために音響はあくまでクリアで濁らない、それゆえうるさく響かない。後半での弦楽器によるフーガも見通しがよくスマート、終結部のホルンとヴィオラのハーモニーののっぺりしない立体感なども作品が完全に手の内に入っている感。この水準の演奏を初客演のオケからいきなり引き出すヴァンスカはやはり凄腕としか言えまい。かような手腕があってこそのラハティ響のあの躍進なのだ。
次はイノン・バルナタンをソロに迎えてのベートーヴェンのピアノ協奏曲第3番。やはりヴァンスカ、その「仕事」の細かさ、精密さに唸る。むしろニールセンよりも大きな指揮アクション、弦の編成は大き目ながら響きは軽い。管楽器に純度の高い和音を求め、アクセントや弦楽器をも含めたダイナミクスの交代、内声のバランス、出し入れに細心の注意を払い、そのていねいさと入念さには恐れ入る。ティンパニは革製のバロック仕様、その音質はまろやかかつ硬質であり、ここぞという箇所での強奏が非常に効果的。それでいながらわざとらしさは全くなく、全てはスピーディーかつ自然に進行する。
正直に申し上げればこの作品、ベートーヴェンのピアノ協奏曲の中でも「皇帝」と並んでつまらない作品(好きな方、失礼)と思っていたのだが、このように細密かつ緻密に演奏されると退屈する暇がない。常にテクスチュアの中に入り込んで聴取することを促すような演奏なのだ。少なくとも筆者は実演でここまで聴き応えのあるサポートに接した試しがない。オケのことばかりを書いたがバルナタンも見事、常に滑らかな響きとなだらかな音響で美しい演奏をする。それでいて迫力にも事欠かない。この角のなさをベートーヴェンらしくないと思う方もいるような気はするが、演奏の質の高さには頷くよりないのでは。ちなみに以前ラフマニノフのパガニーニ狂詩曲をサントリーホールで聴いた際にも感じたが、バルナタンのピアノはタッチに芯があり明晰でよく音が通る。このホールでピアノを聴くとステージ至近席はともかくとして余計な響きが付きすぎモヤモヤするのだが、バルナタンでは全くそれがない。今回のベートーヴェンでもその点全く同様であった。全体としてこの演奏、重厚長大路線では全くなく、しかしいわゆるピリオド風味という感じでもなく独自の演奏を打ち立てている。バルナタンはアンコールにベートーヴェンのピアノ・ソナタ第6番第3楽章を弾いたが、その演奏は実に軽やかで洒落っ気がある。若き日のベートーヴェンの才気が横溢しているといった風。
休憩をはさんでのプロコフィエフも秀逸のきわみ。音量とテンポを抑え気味にしていささか沈鬱な表情のもとで開始された第1楽章からして、ヴァンスカは作品をシニックなモダニズム風味に彩られたものとのみ捉えていないことが早くも明らかになる。楽章のクライマックスで発揮されるクリアな音響はなるほど大迫力ではあるが、指揮者はむしろ弱音にこだわっているように思われる。または、陰影に富んだ歌わせ方から自ずと表出される、一見晴朗と思われる楽想に潜むプロコフィエフの内面的な屈折の表現。これは第3楽章にも共通するが、いずれもヴァンスカの優れた洞察の所産ではなかろうか。他方、これと反対に快速な第2楽章と第4楽章ではよく聴かれる演奏よりもこころもち速めのテンポを採用。前者でのスケルツォ再現直前の鮮やかなギアチェンジ、後者の破れかぶれな騒ぎ方には快哉を叫びたくなる。奇数楽章と偶数楽章の対比がここまで明快に描かれると、本作もショスタコーヴィチ的な二枚舌、取り繕われた明るさと滲み出る苦渋、さらに飛躍するならまるでチェーホフの戯曲に表現されているような多層性や人生観照―例えば『かもめ』が 「喜劇」と題されているような意味で―があらわになる。繰り返すが、実に優れた演奏であった。
終演後の客席は沸き、指揮者のソロ・カーテンコールも。東響はヴァンスカを再度呼ばなくてはならない(断定)。なお、来年3月には2023年に初客演した都響への再登場が決定しているが、そちらはシベリウスでむろん必聴だけれど、なら今後も都響ではシベリウス、東響ではシベリウス以外でどうか(勝手な放言)。

(2025/4/15)
—————————————
〈Program〉
C.NIELSEN:Helios Overture op.17
L.v.BEETHOVEN:Piano Concerto No.3 in C minor,op.37
※Soloist encore
L.v.BEETHOVEN:Piano Sonata No.6 in F major,op.10-2〜3rd
movement
S.PROKOFIEV:Symphony No.5 in B-Flat major,op.100
〈Player〉
TOKYO SYMPHONY ORCHESTRA
Osmo VÄNSKÄ,Conductor
Inon BARNATAN,Piano
TAJIRI Jun,Concertmaster