特別寄稿|もののあはれと「あわい」の音楽――桑原ゆう個展「音の声、声の音」| F. アツミ
もののあはれと「あわい」の音楽――桑原ゆう個展「音の声、声の音」
Text by F. アツミ(Art-Phil/monade contemporary | 単子現代)
音の振動が身体のなかで想念と交わるとき、音は韻律を獲得し、詩を言祝ぐ声となる。残響と静寂の間に潜在する無数の振動が共振するとき、演奏された音は想念とともに声として聴取され、聴取された声は音として演奏される。音と声の間から生まれる音楽というものがあるとしたら、どのようなものだろう?
2024年10月26日(土)~11月4日(月)にかけて、作曲家・桑原ゆう個展「音の声、声の音」がmonade contemporary | 単子現代(京都市東山区)で開かれた★1。本展覧会は、桑原ゆうが論考「音の声、声の音」(スタイル&アイデア:作曲考、2022)★2、およびCD「Sounded Voice, Voiced Sound(音の声、声の音)」(Kairos、2024)★3とタイトルを同じくする個展として、これまで発表してきた楽譜を視覚芸術の視点から「譜面(ふづら)」として捉え直す試みとして、自身が主宰する淡座(あわいざ)のメンバーによるライブ演奏とともに行われた。
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当日の演奏を振り返ろう。声明の研究から得られた音像や音感を音楽として表現することを試みたという《唄と陀羅尼》(ヴァイオリン独奏、2020-21)では、三瀬俊吾のヴァイオリンによる幅広いダイナミクス(強弱変化)と清冽な音の描線が唄(ばい)と呼ばれる独唱による声明の音律を引き伸ばしたかと思うと、そのなかから躍動感をもって陀羅尼(だらに)として知られる斉唱による呪文の印象が迫り出してくるかのようだった。声明という声の音律と残響が弦楽器の音になるとき、音は有機的な律動をまとった声になるだろう。
日没後の闇夜が訪れる時間帯を泉 鏡花が好んで表現した「逢魔が時」からインスピレーションを得た《やがて、逢魔が時になろうとする》(三味線独奏、2014)では、本條秀慈郎の三味線による撥絃は波紋のように黄昏時の気配を構成し、残響とさわりの向こうに潜む静寂の狭間から幽玄の気配が揺れ動く。変調のたびに移ろう撥音とさわりの戯れはその時々に異なる風景や人物となり、残響の暗がりの向こうへと流れ去る。撥音の間合いから無音の噺家の声を聴いているかのような余韻が残った。
黄昏時という昼と夜の世界と時間が交差するところから滲んで聴こえる魔物たちのうたというイメージとともに作曲された《逢魔が時のうた》(チェロ独奏、2014/17-18)では、竹本聖子(チェロ)による弦の持続音はスコルダトゥーラ(変則調弦)の効果とともに官能的なまでに深みのある響きを湛えて、ピチカートの撥弦や弦の振動によって弾かれる指板の雑音を巻き込みながら、無音と沈黙の暗がりへと大きく静かに潜勢していく。大いなるものの気配はある崇高な存在を思わせる音像になり、その音像はまるで能謡にみられる《鵺》(ぬえ)の地謡のような節回しをも予感させるものだ。
器楽曲のための形式であるソナタと声楽の母音唱法であるヴォカリーズをウィリアム・シェイクスピアによる《ソネット第43番》(1609)のコンテクストに寄せて対置させた《ソナタ・ヴォカリーズ》(チェロ独奏、2021)では、竹本による乾いた弦のハーモニクスの主題と豊かな弦の旋律の主題との間で演奏が弁証法的な対応関係のなかで展開されていった。楽器の演奏音(sound)に声の響き(timbre)を聴こうとするアイロニカルな聴取のアプローチは、声あるいは音の音程(音高)を中心に展開される音楽に内包される音価や音色あるいは強度といった音質の存在を明らかに意識させられた。
また、会場のハイレゾ(高解像度音源)対応のサウンドセットで声明作品《螺旋曼荼羅 —風の歌・夜の歌—》(2015)と《月の光言》(2017)の試聴会が行われた。アメリカ・インディアンのナヴァホ族の創世神話に基づく儀式歌をテクストに作曲したという「風の歌」と「夜の歌」を螺旋状に配置した二箇法要として構成したという「螺旋曼荼羅」では、声明の音律は漆黒の闇に揺れる蝋燭の炎のように揺れながら一つ一つが睦み合うかのように紡がれていく。また光明真言や明恵上人の和歌を織り交ぜて創作した「月の光言」では、呪文の音律と周囲の残響は重なり、増幅し合いながら高次倍音をオーロラのように幻想的に揺らしていった。
桑原がこれまで発表してきた独自の記譜法を「譜づら」として視覚芸術の視点から捉え直そうとするスコアの展示では、ライブ演奏や試聴会で聴取体験をあらためて記譜、あるいは音/声という「不可視なもの」の線の描画として見ることができた。スコアとしては《螺旋曼荼羅》、《月の光言》はじめ、《言とはぬ箏のうた》(箏唄、2020)、《三巴退吹(みつどもえおめりぶき)》(尺八、フルート、テナーリコーダー、2024)、《はすのうてな》(三味線、ヴァイオリン、チェロ、2011)、《三つの聲》(弦楽三重奏、2016)が掲示されるとともに、楽譜と墨流し作品によるスライドをプロジェクションで見せる構成をとっていた。
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作曲者が演奏者に向けて「手紙を書くように」して記した「譜づら」★4について、桑原は「よい面構えの楽譜は、微妙なニュアンスや質感など、書かれている以上の情報を、作曲者の代わりに語ってくれる」★5という。当日の演奏やこれまでのいくつかの演奏作品から感じられる桑原に特有のスタイルを見出すとすれば、音あるいは声の質から音楽を彫琢する聴取と創作のアプローチにあるといえる。音高とともに明示的に示された実音の向こうに揺らぐ音価、音色、強度といった虚音の陰影は、ダイナミクスやアーティキュレーションの記号が施されるなかで幽玄の趣をまとうかのようだ。
一連の譜面を眺めると、音の一つ一つが奏法の指示記号や強弱記号、速度記号に包まれるかのように存在し、作品のなかで動き、漂い、流れる巨大な気配を構成している。静寂のなかからクレッシェンドとともに掠れた音が浮かび上がり、ボーイングとともに揺れ、動き、アッチェレランドやリタルダンドを伴いながら静寂のもとへと立ち戻る。静寂の深淵への減衰を暗示させる微分音の歪みからなる下降音はその都度、睦み合いながら無音の暗がりへと沈み込む。音は膨縮する音質の運動のなかで音高をまとい、声あるいは旋律を思わせる音像となって現れては消えていく。
本展と同タイトルの論考★2において、桑原は「音像の質を精しくすることに最も意識を注ぐ」とし、「音像のエネルギーとしての質」や「『もの』としての質」に着目し、スコルダトゥーラ(変則調弦)を多用し、開放弦のドローン的使用や重音奏法を組み合わせ、伸縮する「ふし」を変拍子の連なりとして五線譜上に記すなかで「譜づら」をつくるという。また、日本語という「巨きな言語構造」に依りながら質を探求するなかで、アンリ・ベルクソンの「イマージュ」やヴァルター・ベンヤミンの「純粋言語」に本居宣長のいう「性質情状(アルカタチ)」を音楽という形式によって表現しようとする。
桑原のエッセイとともにその演奏作品を聴くと、「もののあはれ」はものと自己、客体と主体の関係性が相互に触発するなかで組み変わるような自己変容の契機だということがわかる。そこでは音は無限に小さい波動となり、演奏者や観客の聴取の感覚に変容を迫る。無音の境地に漸近する残響と静寂のなかで、三味線や琵琶の絃のさわりはヴァイオリンやチェロの弦のノイズと合成され、声明や能謡を構成する豊かな母音の響きはアルトやバスが支える高次倍音と共鳴する。鏡面のように構成される残響と静寂の干渉面において、音と声は演奏者と観客のなかで混融し、一つの音/声となる。
あらためてCD「音の声、声の音」を聴こう。「淡座」というアンサンブルを主宰し10年を超える歳月をかけて桑原が発明し、彫琢してきたものが、音楽史において長らく探求されてきた西洋的な音楽と東洋的な音楽を総合する「あわい(in-between)」という概念的な形式に依る音楽技法だということがわかる。身体、楽器、奏法、空間配置の内部において感覚し、聴取し、無限小の音響という淡い、あるいは間から音像が生起し、変容するとき、もののあはれが起こり、「あわい」の音楽が生まれる。音/声の内奥と外皮がつながるような中空の旋律に、今日もなお実験のモードを見ることができる。
音や声の質を無限に微小な要素へと解体し、身体や楽器、空間配置のなかで合成させ、生起させ、変容させる「あわい」の音楽は、変動的な密度からなる音価、強度、音色の間合いから極小の運動を発生させ、その都度、変拍子とともに異質な時間構造を伴いながら現れる。詩が音/声へと解体され音楽となって戯れるとき、音楽は言葉を失った音と言葉を見出された声の間で一つの出来事となる。音の言霊のように紡がれる音列は「あわい」の音楽となって、演奏と聴取をめぐる主客未分の情態において新たな声として生まれ変わる。演奏/聴取にかかわる心的な紐帯は、音/声の「あわい」でつくられる。
音楽史におけるダルムシュタットの思い出に引き寄せて、桑原と淡座が提出する「あわい」という音楽技法を聴こう。その実験的な奏法から生まれた音素を新しい言語的な発明と見なすルチアーノ・ベリオの《セクエンツァ》(1958-2004)や音列群の星座とその鏡像において音/非-音の間から生まれる音楽の場を形而上学的に示したピエール・ブーレーズの《第3ソナタ》(1955-1957)、ピアノの残響の向こうに宇宙的な拡がりを感じさせるカールハインツ・シュトックハウゼンの《マントラ》(1970)といったものを思い起こさせてくれる。「あわい」にあっては、《水の声》(2014–2015/2019)や《影も溜らず》(2017)、《三つの聲》(2016)、《はすのうてな》(2011/18)で見られるように、一つの音は静寂と喧噪のなかで新しい声を言祝ぐことになるだろう。
日本国内にあっては、「西洋の音楽と日本の音楽の融合」という古くて新しい試みに目を向けよう。武満徹の《November Steps》(1967)の後に、桑原の《はすのうてな》(2011/18)、《柄と地、絵と余白、あるいは表と裏》(2018)を聴くと、残響と間合いにおける音の合成と展開という点でより精緻な方法論上の更新を見ることもできるのではないか。また、藤倉大の《neo for shamisen》(2014)が幾千もの音高を積み重ねて音楽を明晰に描き出すのに対し、桑原の《やがて逢魔が時になろうとする》(2014)は無数の残響と静寂の間合いから音楽を曖昧に浮き立たせるといった聴き方は、現在の日本人作曲家がそれぞれ示す世界観の対極を際立たせるところがあるかもしれない。
個展の会場でプロジェクションとして示された桑原自身が制作した墨流しの映像を見た後に、《螺旋曼荼羅》や《月の光言》といった声明作品と《言とはぬ箏のうた》の「譜づら」を眺めると、「譜づら」が音のまわりに施された指示記号を巻き込みながら山水画のようなものになろうとする動きにも見える。桑原による山水画の根源、混沌を思わせる墨流しのイメージは、CDのカバーを飾るGerhard Flekatschによるイメージとともに「あわい」の音楽を視覚的に理解するうえで有効な視覚経験となるだろう。「あわい」の音楽の音/声には、ユク・ホイが山水画に有と無を併せ含む玄の深みを見るような幽玄のイメージをも想起させる道がある。
京都で実現された桑原の個展の意義をその論考とCDとともに振り返ると、桑原と「淡座」の音楽における賭金、あるいは音楽の賜物は、古語から現代語に至るまでの日本語の根本原理をなす「もののあはれ」という情態を「譜づら」というメディアのなかで見直し、感得させる「あわい」の音楽のありようを問いかけることにあったといえる。桑原が《逢魔が時のうた》において“Very expressive, but dark and fragile always. Explore timbres(とても表情豊かに、しかし常に暗く、儚く。音色を探ること)”と明確に指示しているように、もののあはれが起こる「逢魔が時」は音あるいは声が残響となり静寂へと至るような余韻の瞬間とともにある。静寂の向こうに拡がる無明の音響空間には、無限の潜勢力を秘めた音の言霊がひしめいている。その畏怖すべき崇高な昏みの向こう側から、「あわい」の音楽は異形の美しさをもって冥冥に響くだろう。
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付記:京都という場所とともに桑原ゆうの活動を眺めると、近世の江戸から現代の東京へと至る歴史の淵源をなす日本文化の古層ともいえる歴史に縁のある作品は多い。真言宗豊山派と天台宗の声明にナヴァホ族の儀式歌を重ねる《螺旋曼荼羅 —風の歌・夜の歌—》や鎌倉時代前期を生きた華厳宗の僧侶・明恵上人に寄せた和歌を含む《月の光言》は、古代から中世にかけて歌われた声明の世界観を現代の時勢に寄せて蘇らせるものだ。また、万葉集に収められた大伴家持の歌をモチーフとする《言とはぬ箏のうた》や江戸時代中期に錦小路高倉で生まれ活躍した伊藤若冲の画風を精妙な書法で辿る《若冲絵巻 —伊藤若冲へのオマージュ—》(2023)では、和歌や絵画に表現される世界観を辿りながら当時の世界を色鮮やかに垣間見せてくれる。そして、平安時代に紫式部が著した「源氏物語」に向き合って書かれた《若紫のうた》(2014)、《にほふ》(2012-13/18-19)からは、明治時代に京都学派とその周辺で近代の超克をめぐり中心的に議論された「もののあはれ」の起源と相見えながら模索される「あわい」の音像に触れることができる。一連の作品が再び上演される機会を待ちながら、京都をはじめとする関西圏における今後の活動の展開にも注目したい。
付記2:2019年7月19日に開催された桑原ゆう個展「影も溜らず」(東京オペラシティ・リサイタルホール)のために書いたレビュー「音の言霊と『もののあはれ』の絵巻物―桑原ゆう個展『影も溜らず』」★6から5年が経過し、期せずして間近で個展を聴くことができた幸運を受けて、本レビューを記す。桑原ゆうと「淡座」が奏でる音の言霊の行方が歴史に託されているのだとして、ミネルバのフクロウが飛び立つ黄昏時、あるいは逢魔が時には、どのような音楽の歴史が現れるのだろう?
- 桑原ゆう個展「音の声、声の音」.monade contemporary | 単子現代.
https://monadecontemporary.art-phil.com/?p=729(2025年1月アクセス) - 桑原ゆう.音の声、声の音.スタイル&アイデア:作曲考.
https://styleandidea.com/2022/05/27/yu-kuwabara-si/(2025年1月アクセス) - Yu Kuwabara: Sounded Voice, Voiced Sound. Vienna, Kairos, 2024, 0022202KAIS.
https://www.kairos-music.com/cds/0022202kai (2025年1月アクセス) - 桑原ゆう.「譜づら」というもの.好*信*楽.
https://kobayashihideo.jp/2021-07/「譜づら」というもの/(2025年1月アクセス) - 桑原ゆう.桑原ゆう個展「音の声、声の音」@京都.
https://note.com/yupipipipipi/n/nb80a186f66a3(2025年1月アクセス) - F.アツミ.音の言霊と「もののあはれ」の絵巻物 ― 桑原ゆう個展「影も溜らず」.みずうみ.水号.2019.
https://art-phil.hatenablog.com/entry/2025/01/31/210456(2025年1月アクセス)
※作曲家の視点から見た当日の様子については、桑原ゆう.記譜と作曲――視えるものと視えないもの、聴こえるものと聴こえないもの.五線紙のパンセ.Mercure des Arts.2025.https://mercuredesarts.com/2025/01/14/pansee-notation-and-composition-kuwabara/(2025年1月アクセス)を参照。
(2025/2/15)
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F. アツミ(Art-Phil/monade contemporary | 単子現代)
クリエーション・ユニット Art-Phil、アート・ギャラリー/イベント・スペース monade contemporary|単子現代。都市経営修士。編集/批評を通してアート・哲学・社会の視点から多様なコミュニケーション一般のあり方を探求するとともに、キュレーター/アートマネジャー/ギャラリストとして現在のアート・哲学・社会について考え実践するための展示活動を行なっている。