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Books|フェデリコ・モンポウ 静寂の調べを求めて|秋元陽平

Booksフェデリコ・モンポウ 静寂の調べを求めて
椎名亮輔 著
2024年9月刊
音楽之友社
Text by 秋元陽平(Yohei Akimoto)

記憶が正しければ小学校高学年のころ、通っていたピアノ教室のレッスンの終わりに、音楽にまつわる四方山話のさなか、先生が唐突に、フェデリコ・モンポウという、作曲家の名前に小学生の割には詳しかったわたしでさえ聞き慣れない響きの名前を挙げて、「この『内なる印象』っていうのが、案外といいんだよね」と言った。「案外と」といっても、マイナーな作曲家だが、というニュアンスではなく、単に先生の口癖で、特に深い意味はなかったと思う。しかし、近代フランス音楽やマーラー、あるいは十二音音楽を図書館のCDコーナーでザッピングして二十世紀音楽を知った気になるような、こましゃっくれた子どもにとって、この異質な名前との出会いは充分に不意を打つものだった。
詳細は覚えていないが、そのときには、先生がわたしにそのCDを聴かせる流れにはならなかった。彼の音楽に実際に出会うことになったのはずっと後、高校生になってからのことだったように思う。一聴して、ドビュッシーやラヴェルの残響をききとったが、同時に彼らには似ていないとも思った。ドビュッシーにおいては天才的な感覚の迸りとない交ぜになり、ラヴェルにおいては完璧なエレガンスによって統御されているものが、モンポウの音楽のなかではひそやかに見守られて、そのままに息づいている。それは感情生活だ。近世ヨーロッパは理性と感覚の間の境界線を繰り返し引き直し、両者の相互貫入を認めながらその美学と哲学を形作った。しかし同時に、外的刺激としての「感覚」とは別に、主体の内部環境に密接した「感情」が区別される必要が、とくに啓蒙後期を皮切りに絶えず提起される。この感情は、それを感じるひとのものともただちに言い切れない。例えば20世紀フランスの哲学者ミシェル・アンリは、情感affectionは自己の存在に相即して与えられながら、それゆえにこそ決して対象化されえないものだという。それは本人の意識する喜びや悲しみよりも、もっと近く、もっと深い認識の基底である。『内なる印象』から『静寂の音楽』まで、モンポウはこの逆説の煌めきをこそ、創作の源泉としていたのではないか。そしてまた、モンポウ以前には、これほどはっきりと、それが音楽によって照らされるべき煌めきだと示されたこともなかったのではないか。

本書を読みながら、そしてモンポウの音楽を改めて聴きながら、そのようなことを考えた。本書は資料の博捜と関係者への聴取によって、この奥ゆかしくも決然とした態度でおのれの芸術へと沈潜するモンポウの人となりを、同時代の音楽シーンを交えて生き生きと描き出す。著者は音楽美学の著作によっても知られるが(『音楽的時間の変容』)、本書ではむしろモンポウの音楽の洗練された単純さに敬意を表し、分析者というよりも歴史家に徹しているような印象を受けた。しかし伝記的エピソードに控えめに添えられた考察はどれも鋭い示唆に富んでいる。ひとつの例を挙げれば、著者はフォーレとのそれに比べていくらか曖昧な、モンポウとラヴェルとの関係性に留意する。1900年代のモンポウはピアノコンサートの聴衆としてラヴェルの作品にあまり反応しなかったが、著者はモンポウとピアノの触覚的なかかわりに着目し、これを「音楽ではなくピアノを、もっと言えばピアニストを聴いていた」(p.36)からではないかと推察する。また、ラヴェルとの思想的な差異がよりはっきりと示されるエピソードも紹介されている。ラヴェルが本能による作曲は「芸術作品」たりえないと述べたのに対し、モンポウは「本能は、それを選択した瞬間から、無意識的なものではない」と反論したという(p.95.)。著者は本書がモンポウの音楽のうちに繰り返し見いだす、ゼロからの「再出発Recomençament」という主題とこの論争を結びつけ、モンポウが計算や意図を警戒する作曲家であったことを喚起する。さらに著者の注意深い観察は、後年インタビュアーに対してモンポウがこのラヴェルの反=本能論を肯定的に引き合いに出し、「作品というものが何よりも努力の結晶であり、内的集中の結果であるということを、だんだんと思うようになりました」と述べている、という極めて興味深い態度の変遷を炙り出す(p.202)。著者はこれについて、インタビュアーがフランス人であったために、ラヴェルへの悪口を言わなかったのだろうと推測しており、これはありそうな話であるが、それに加えて、僭越ながらこんな見方もできるかもしれない。つまりモンポウはラヴェルの言葉を時間をかけて消化したのではないか。実際、後年の、『静寂の音楽』のモンポウは、若き日の——例えば『内なる印象』の——モンポウと比べると、ある種の形式性のうちにおのれの「内的集中」を結晶させる傾向が強まっているのではないか。例えば『内なる印象』中の、『悲しい鳥』の、奇しくも似たタイトルのラヴェルの楽曲に比べるとおどろくほど直観的で描写的な感傷性、鳴き声が残日に照らされた室内に響く、その鮮烈な「印象」のエスキスと比べると、『静寂の音楽』を構成する楽曲群には、よりはっきりとした形態性がある。実際、モンポウは後者を「より知性化されており、より頭脳的」(p.205)と形容したのである。ラヴェルのような仮面の大家ではないにせよ、モンポウは年とともに彼独自の仕方で「本能」と向き合ったのだろうか? 彼もまた、知性と直観のどこまでも続く相克のうちに詩の霊感を見いだしたヴァレリーに、幾ばくか共感を抱いていたのだとすれば。

それにしても、世界に先駆けて、日本語でモンポウについてこれほど充実した評伝を読むことができるとは思わなかった。参考文献、年表、楽曲解説など行き届いており、モンポウや近代音楽に関心を持つあらゆる人に薦められることは言うまでもないが、じつは本書には別の楽しみ方もある。付された地図や写真を眺め、モンポウの音楽に耳を傾け、バルセロナ、地中海、カタルーニャをつかの間、思い描くのだ。わたしもまた、かつてそこへ旅した日の、折々の光彩を脳裏によぎらせた。彼の地で長く暮らした著者は、バルセロナの風の匂いを知っている。異邦を夢見るひとの高揚感を伝える序文は、いわばモンポウという芸術家を、その地霊の守護のもとにおく。そこで引用されるアントニオ・ガウディの言葉や、ヴァレリーの詩句は、わたしたちに、ひとりの人間の伝記を読むというよりは、ひとつの遠い国を旅するように誘うのだ。

(2025/2/15)

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