プロムナード|私はナニジンに見えるのか|小石かつら
私はナニジンに見えるのか
Which nationality am I in Germany?
Text by 小石かつら(Katsura Koishi)
1998年、最初にドイツに留学した先は、デュッセルドルフだった。ドイツ国内で最大の日本人コミュニティがあり、約5000人の日本人が住んでいるらしい。だから、初めてのドイツでも日本人に囲まれているような雰囲気だった。
ところが、そんな環境にもかかわらず、私はいつも韓国人と間違えられた。たしかに私は165センチほどあり、日本人女性にしては大きい。実際、韓国人からも韓国語で話しかけられるのだから、私が韓国人に見える確率は100%と言ってもよかった。理由はおそらく身長だろう。けれども、なぜそんなに韓国人だと言われるのか、不思議だった。
下宿していたファミリーのおばあさんは元看護師さんで、職場には韓国人が多かったと教えてくれた。西ドイツでは、戦後復興の労働者不足で、炭鉱労働者や看護師といった働き手を確保するため、韓国政府と国家間の協定を結び、1960年代から70年代にかけて、韓国から西ドイツへの労働者派遣があったのだという。ドイツに定住した人も多く、「アジア人といえば韓国人だと思うのかもしれないね」と、おばあさんに言われた。(同様にトルコからの労働者も多く、こちらはドイツ全体で300万人ものトルコ人が住んでいる。とはいえ、私はトルコ人には見えない)。
けれども、私自身は「労働者」としての韓国人に出会ったことはなかった。
そんな中の、ウゴルスキのピアノの講習会でのことだった。私は25歳くらいだったと思うのだが、12〜3歳と思われる韓国人の少女が、それはそれは美しいモーツァルトのソナタを弾いていた。清楚で、気品があって、さわやかだった。全身でうっとりしていたら、少女のお母さんが話しかけてきた。「あなた、日本人でしょう? あなたの弾くピアノは素敵だったわ。私の娘の友達になってくれないかしら?」当然まごついた。まずは、私が韓国人ではなく日本人だと思われたことに。(たしか、初めてだったと思う)。そして、私が日本人だとわかっているのに、韓国人の娘さんの友達になってほしいと言ってくることに。しかも、年齢差10歳以上なことに。さらになにより、天才少女のお母さんに、私のピアノが素敵だと言われたことに。
まごついたけれど、大喜びだった。並んで座ってレッスンを聴講したり、一緒にアイスを食べたり。同じアジア系の外国人として、ふつうにドイツ語で会話した。とびきり幸せな時間だった。翌日だったか、翌々日だったか、少女のお母さんは、おばあさんと一緒だった。「海苔巻きを作ってきたから食べて。これは韓国の海苔巻きじゃなくて、日本の海苔巻きよ。私の母は、日本語ができるの。日本の料理も作れるの。あなたと日本語がしゃべりたいからって、ここまで来たの。もうだいぶ忘れてしまったけど、おしゃべりしてくれるかしら?」あまりに突然のことに、まごついたどころではない。固まってしまった。講習会場から車で何時間もかかる自宅にいったん帰って、海苔巻きを作って、おばあさんを乗せて来てくれたのである。
おばあさんと、椅子に座った。ああ、今、思い出してここに書いているだけで、あの時の緊張がよみがえる。私は本当に緊張していた。おばあさんが日本語をしゃべれるということは、韓国が日本の支配下にあったからだ。きっとおばあさんが生まれた頃は、その時代だ。今、ドイツにいるということは、60年代に渡ってきたのかもしれない。とすると、韓国語を話していたのは20年くらいだけかもしれない。娘さんやお孫さんとの会話は韓国語だろうか、ドイツ語だろうか。
私の錯乱するほどの緊張は、丸見えだったのだと思う。おばあさんは言った。「日本が韓国を支配していたことは、なにも日本人が悪いわけじゃないから、あなたは何も思わなくてもいいのです。それより、今、良い時間ね。あなたみたいな素敵な日本人と、日本語でしゃべれるなんて、夢を見ているみたい。もういつ死んでもいいわ。私は日本語を話せてよかった。私の孫はピアノが得意なの。ピアノが大好きなの。学校から帰ったら、ずっと練習しているの。私は聴くのが好き。孫には友達がいないから、あなたみたいな人が友達になってくれてうれしいわ。なんてすばらしいんでしょう。ドイツにいたら、日本の食事が食べられないでしょう? 海苔巻きはたくさん作ったから、いっぱい食べて」。まるで日本人のように流暢な、ごく普通の日本語だった。私はほとんど何もしゃべらなくて、おばあさんがずっと話を聞かせてくれた。私は聞いているだけだった。本当に他愛もない話。昔話なわけでも、なんでもなかった。講習会のことも忘れて、ずっとしゃべっていた。
「残念だけど、もう帰らなきゃ」。そうお母さんが言って、ふと見たら、少女のお父さんとお兄さんと思われる2人が、タバコを吸っていた。華奢だけど、その姿はあきらかに肉体労働者の風情だった。時間が止まったように感じた。清楚なモーツァルトを弾く気品ある天才少女と、身体を斜めにして座ってタバコを吸う労働者。海苔巻きを作ってくれるおばあさん。すさまじいギャップ。でも、家族。
なんだか、突然ピースが嵌った。孤独だ。孤独なんだ。どこにも回収されない孤独。徹底的な孤独。
講習会が終わった後も、かなり長い期間、おばあさんと文通した。おばあさんによると、少女はハノーファーの有名なピアニスト、ケンマリンクに習うようになり、天才少女ピアニストとして演奏会も多数企画された。私も何度か聴きに行った。はにかむような遠慮深い笑顔を見せる。ステージピアニストというより、オルゴール人形のような儚さを持っていた。
そしていつの間にか、文通は途絶えた。あれから25年以上経った。今、「リー」という名前しか思い出せない。少女に友達はできただろうか。お父さんやお兄さんに職はあっただろうか。おばあさんは、安らかに過ごしただろうか。
こんな一家の一員のように私が見えるのなら、私は自分を自慢できると、今でも思う。韓国人に見えた理由は、「孤独」だったのだろうか。
(2025/2/15)