日本音楽集団第244回定期演奏会 雅邦礼讃|齋藤俊夫
日本音楽集団第244回定期演奏会 雅邦礼讃
Pro Musica Nipponia the 244th subscription concert
2025年1月10日 豊洲シビックセンターホール
2025/1/10 Toyosu Civic Center Hall
Reviewed by 齋藤俊夫(Toshio Saito)
写真撮影/提供:佃 良次郎
<曲目・演奏>
日本音楽集団(印ナシ)、伶楽舎(*)
芝祐靖:『舞楽風組曲』(1963年)
笙I:中村華子(*)、笙II:東田はる奈
篳篥I:中村仁美(*)、篳篥II:三浦元則
龍笛I:伊﨑善之(*)、龍笛II:あかる潤
楽琵琶:〆野護元(*)
鞨鼓:宮丸直子(*)、楽太鼓:三浦礼美(*)、鉦鼓:田渕勝彦(*)
尺八I:田野村聡、尺八II:饗庭凱山
箏I:熊沢栄利子、箏II:桜井智永、箏III:喜羽美帆
十七絃I:久本桂子、十七絃II:石井香奈
小鼓:盧慶順、大鼓:冨田慎平
本間貞史:『九絃の曲』(1979年)
細棹:蓑田弘大、中棹:穂積大志、太棹:山崎千鶴子
伊福部昭:『郢曲 鬢多々良(えいきょく びんたたら)』(1972年)
篠笛I:竹井誠、篠笛II:山本一心
龍笛:あかる潤、能管:芝有維
篳篥:三浦元則、笙:東田はる奈
小鼓I:尾﨑太一、小鼓II:盧慶順
大鼓:多田恵子、楽太鼓:山内利一
筑前琵琶:藤高りえ子、薩摩琵琶:久保田晶子
箏I:山田明美、喜羽美帆
箏II:久東寿子、石井香奈
箏III:三宅礼子、木内麻由
十七絃I:城ヶ崎美保、十七絃II:丸岡映美
指揮:稲田康
池辺晋一郎『煉蓮譜(れんれんふ)―雅楽と邦楽のために』(委嘱新作、2024年)
笙:中村華子(*)、篳篥:中村仁美(*)、龍笛:伊﨑善之(*)
楽琵琶:田渕勝彦(*)、楽箏:野田美香(*)
鞨鼓:宮丸直子(*)、楽太鼓:三浦礼美(*)、鉦鼓:〆野護元(*)
笛:新保有生、尺八I:元永拓、尺八II:田野村聡
三味線:今藤政優、薩摩琵琶:久保田晶子
箏:三宅礼子、十七絃:久本桂子
打楽器:冨田慎平
指揮:稲田康
「何が」「どう」「日本的」なのか……江戸末期の黒船来航から現代まで続く「日本(音楽)のアイデンティティ」を巡る問いかけである。
「日本的」といっても武満徹と伊福部昭と松平頼則では三者三様に異なるのは言わずもがなである。「日本(音楽)のアイデンティティ」という問題圏がすでにして本質主義的であるという批判もあろう。
かと思えば、現代ジャパノイズの雄、大友良英らがドナウエッシンゲンに登場した際のCDブックレットには、彼らのほとんど無音に近い演奏が”Japanese Zen”だと書かれていて、 それを読んだ筆者は笑って良いものやらどうなのかハナハダ困ったことがある。
さらに、ここ日本国内でも渡辺俊幸作曲、松田章一台本で、鈴木大拙が主役のどこにも仏教も禅も現れないがタイトルだけ「禅」という珍作オペラが満場の喝采を浴びるのを筆者もこの目で見たことがある。
問題となるべきなのは、「何が」「どう」「日本的」なのか、ではないのだろう。問題となるべきなのは「何故」日本的であるのか、なのだろう。現代ノイズミュージックが”Zen”になったり、大拙が「禅オペラ」になったりすることの文化的錯誤はそれらが「何故」日本的であるか、についての省察の欠落による、そう筆者は考える。
日本音楽集団の結成される1年前、1963年に作曲された芝祐靖『舞楽風組曲』は邦楽器合奏で西洋オーケストラのような組織的にコンポジションされた音楽を奏でたいという願いの下 で書かれている。「何故」邦楽器合奏なのか、その必然性について深く考えられた形跡は聴き取れない。 だが、そのあっけらかんともいえる素朴な音楽にはいかにしても否定できない魅力が溢れている 。第1楽章で邦楽器の概念を覆すような極彩色の花が咲き乱れ、第2楽章で雅楽っぽいが本物の雅楽よりも現代の我々の音生活に近い、和風SFファンタジー的とでもいえる音楽に酔わせ 、第3楽章で 過激ともいえる音楽の高ぶりと荒ぶりを聴かせて壮大に盛り上がって終わる。どこを聴いても楽しくて仕方がない。アイデンティティがどうのこうの言うより先に楽しさが勝る、そんな音楽であった。
本間貞史『九絃の曲』では先の芝の作品とはまったく異なる音風景が広がった。第1曲、第2曲の途中までは3人で1つの三味線を弾くように、点描的に、だが強靭な楔を一打一打こちらの心臓に突き立ててくる。なんと枯れかじけた世界。北国的寂寥感。ペケペケと早弾きしない三味線とはこんなにも寂しい楽器だったのか。などと考えていたら第2曲の半ばで突然(もしかしてここから第3曲だったのかもしれない)全員でポリフォニックに高橋竹山の津軽三味線のような荒々しくも花のある楽想を叩き歌い舞うように弾く。これもまた北国的荒ぶりの美だ。三味線は南国から渡来した楽器であるが、それが北国に伝わって行く中で醸成された寂しさと厳しさを味わわせてもらった。三味線でなければ聴くことのできない、つまり「何故」の問いかけに対して「三味線でなければならない」という応答のある音楽であった。
伊福部昭ファンならば垂涎の演目『郢曲 鬢多々良』、日本伝統音楽にある「追い吹き」の技法にならって西洋多声音楽のカノンの技法を用いて、日本の宮中・社寺の雅楽というハイブロウな音楽と民衆のロウブロウな音楽を結合させた傑作。伊福部音楽の中で最もポリフォニックな書式で書かれ、最後の各楽器の乱舞に至る場面などまさに雅やかで華やかだが、 足の裏から響いてくる法悦境的音楽。しかし、 今回の日本音楽集団の演奏で気になる、いや、かなり致命的に気になることがあった。それは箏と十七絃の人数である。本来スコアには箏3人、十七絃1 人と指定されているのだが(スコア確認済み)、今回の演奏ではそれぞれ2倍の6人と2人で演奏されていたのである。このことによって2種の箏の音量がいや増し、音楽の中心軸の旋律がはっきりとして、音楽の押し出しが強められたことは認めるが、そのかわりにこの作品の肝とも言える各パートがそれぞれ独立して動く多声部書法がなおざりとされていた。伊福部の『シンフォニア・タプカーラ』や『リトミカ・オスティナータ』のような全員一丸となって怒涛のオスティナートを奏でるのとは全く異なる伊福部の多声部音楽の妙味が味わえなかったのは痛恨と言うしかない。伊福部音楽の中に潜む音楽的必然性としての「何故」を読み誤ったと言えよう。
今回の委嘱作品、池辺晋一郎『煉蓮譜』雅楽と現代邦楽の楽器の発する言葉に自然に耳を澄ませて音をすくい取って書いたというこの作品、さすがになかなかどうして 只者ではない音楽であった。
まず鉦鼓、鞨鼓、楽太鼓、楽琵琶、管絃という雅楽の楽器が順に反復・変奏するその天上的で雅びな響きに心洗われる。それを現代邦楽の楽器が受けて、もっと土臭い、もっと寂しい音楽を奏でる。この臭いと寂しさは雅楽にはないものだ。
さらに進むと雅楽と現代邦楽が様々な組み合わせ(例えば笙、篳篥、龍笛と尺八、笛、など)で、ある時は華やかに、ある時はさみしげに、ある時は軽やかに、ある時は重々しく、と様々な「日本」の姿を見せる。天の雅楽と地の現代邦楽が混じり合い、お互いに高め合い、音の花びらを会場中に舞い散らせ、最後は桶太鼓まで加わっての堂々たるトゥッティで了。雅楽と現代邦楽でなければならない、また雅楽と現代邦楽の合奏でなければならない必然性を見事に結晶化させた名曲であった。
ありそうでなかった現代邦楽の日本音楽集団と現代雅楽の伶楽舎のコラボレーション、それらの楽器と演奏形態に内在する音楽的必然性としての「日本」というものを 見つめ直すありがたい機会となった。芝作品、池辺作品ともに再演はなかなか難しいと思うが、是非ともまた聴きたいものである。
(2025/02/15)