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NHK交響楽団 第2028回 定期公演 プログラムA|藤原聡

NHK交響楽団 第2028回 定期公演 プログラムA
NHK Symphony Orchestra,Tokyo
the 2028th subscription concert Program A

2025年1月18日 NHKホール
2025/1/18 NHK Hall
Reviewed by 藤原聡(Satoshi Fujiwara)
写真提供:NHK交響楽団

〈プログラム〉        →Foreign Languages
ショスタコーヴィチ:交響曲第7番 ハ長調 作品60『レニングラード』

〈演奏〉
NHK交響楽団
指揮:トゥガン・ソヒエフ
コンサートマスター:郷古廉

 

トゥガン・ソヒエフは2008年からN響への客演を開始しているが、近年の演奏の緻密度は明らかに増している。それは単に年月を重ねてお互いの手の内が分かり意思疎通が密になった、というだけではない根源的な両者の相性の良さゆえか。ダイナミクスやバランスを緻密に調整し繊細に楽曲を構築するソヒエフの方向性が、近年若手の優秀な奏者に恵まれさらに技術力と柔軟性に富む演奏が行えるようになった今のN響と極めてマッチしているのだ。今回この両者がA定期で取り上げたのはショスタコーヴィチの『レニングラード』。音楽に過剰な物語を投影させて聴くのは戒めたいが、しかしソヒエフがこの曲を演奏することについてはそのコンテクストを提示せねばなるまい。

「祖国ロシアのウクライナ侵攻に胸を痛めたソヒエフは2022年、長く務めたモスクワ・ボリショイ劇場と、トゥールーズ・キャピトル劇場管弦楽団の音楽監督を辞任した。先々のスケジュールが白紙になる中、悩み抜いたソヒエフは、その年のザルツブルク復活祭音楽祭への出演を決断する。ドレスデン国立管弦楽団とともに、ショスタコーヴィチ《第7番》を演奏するという企画だった。音楽祭の監督であるティーレマンの「今だからこそ、この曲を取り上げるべきだ」という声に、背中を押されたという。」「私たち音楽家は、偉大な作曲家の音楽を演奏し解釈することによって、人類がお互いに思いやりと尊敬の念を持ち続けるための特別な機会と使命を与えられているのです。私たち音楽家は、ショスタコーヴィチの音楽を通して戦争の悲惨さを人々に思い起させるために存在しているのです。(ソヒエフ)」(以上N響のウェブサイトより。一部筆者補足)。これらの相関をどう捉えるかは聴き手一人一人に委ねられるだろう。

実際の演奏。冒頭からやや遅めのテンポによりしなやかに開始される。完璧に整えられた弦楽器のフレージングの美しさたるや。決然としながらもありがちな居丈高さを感じさせないこの出だしは、ある種の聴き手には力感不足と捉えられるかも知れないが、音楽はまだ始まったばかりだ。それに続く第2主題の提示と経過句の静まり返って不穏さを孕む表現も出色で、こういう箇所ではソヒエフのセンシティヴさが万全に発揮される。そして例の展開部たる戦争の主題。テンポは比較的速い。弦のフレージングをテヌート気味に奏させ切れ味よりも沈滞を感じさせる。ともすると微妙に形の崩れる単純なリズムの支えを非常に正確に刻ませ、その音楽は過剰な熱狂に陥ることなくひたひたと盛り上がるが、それが逆に不気味さを感じさせはしまいか。ショスタコーヴィチにおけるこういう音楽造りをしばしば「純音楽的」などと形容するが、純もなにも、ソヒエフはスコアの求めることをひたすら誠実に表出したのであり、その意味では極めて倫理的な演奏といえる(いわゆる「爆演」が非倫理的などという単純な話ではない、為念)。とはいえ、音響の肥大化を避けたこの演奏、それゆえ再現部とのコントラストという点ではいささかの物足りなさもあり、一長一短ではあろう。NHKホールのアコースティックがその印象を増大させたとも思える。

第2楽章でも主部と中間部の音響的な対比は控えめだったが、ここで特筆すべきはやはり弦楽器群の艶やかかつしなやかなソノリティの美しさである。決めつけるが、ソヒエフは弦楽器の人なのだ。

第3楽章。コラールに続くヴァイオリンの主題、指揮者によっては弓が引きちぎれんばかりに峻烈かつ濃厚に奏させるここをあくまでしっとりと思念に満ちた趣きで奏でさせるのが大変に美しく新鮮、感銘深い。繰り返す、弦楽器の人ソヒエフ。コサック風中間部はアグレッシヴに「進軍」、ここまでのソヒエフの行き方からするとやや意外だったが、あくまで上品なのがこの人らしい。

そして終楽章、ここでもスペクタクル的に過剰な盛り上げを回避した、敢えていうならば「コンパクト」な音響設計は指揮者の見識を感じさせて余りある。トゥッティは濁りのない明晰な響きをあくまで維持し、全く馬鹿騒ぎにならない。コーダの煽らないゆったりとしたテンポ設定などは筆者が過去に聴いたどの演奏よりも理想的であり、ここに至り第1楽章からここまでのソヒエフの一貫した作品へのイデーおよびそのレアリゼの精度の高さには瞠目するしかない(ちなみに別働隊として本体オケからしばしば分離させて配置される金管のバンダはステージ上に配置。この辺りもスペクタクル性を抑制する意識が見える)。

以上、演奏全体を通じてソヒエフの狙った表現およびその実現度、N響の技術力精度と献身的な演奏には脱帽するしかないのだが、ここで露呈するのは「作品の弱さ」だ。ここでショスタコーヴィチは敢えて「陳腐」な技法で「あらゆる形のテロル、隷属、精神の束縛について語っているんだ」(ショスタコーヴィチの言葉/プログラムの千葉潤氏の解説から)として、その陳腐さがある種の迫真性を伴って立ち現れるのはその陳腐さを引き受けてスペクタクル化してこそ、という感も拭いがたい。もっというなら、知的な次元で作品のコンテクスト、メタテクスト性に思考が拡がったとして、実際の演奏を「退屈せずに」聴けるか、という問題が残る。筆者はこのようなアンビバレントな印象をこの日の演奏に抱いたのだが、それはソヒエフの演奏が1つの方向性を極めた演奏だったからだ。聴き手の受け止めは多様で当然、しかしソヒエフの手腕の卓越ぶりは疑う余地がないし、こういうあれやこれやを聴く人に考えさせる時点でこの指揮者の単純ではない多層性が痛感される。得がたい指揮者だ。

(2025/2/15)

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〈Program〉
Dmitry Shostakovich:Symphony No.7 C Major Op.60,Leningrad

〈Player〉
NHK Symphony Orchestra,Tokyo
conductor:Tugan Sokhiev
concertmaster:Sunao Goko