特別寄稿|ウィーン感傷記(3)フォルクスオパー|丘山万里子
ウィーン感傷記(3)フォルクスオパー
Text & Photos by 丘山万里子(Mariko Okayama)
遊学当時、国立歌劇場のオペラばかりに通い、第2の歌劇場と言われるフォルクスオパーは行かなかった。主にオペレッタ、ミュージカル、バレエなどが上演されるが、なんたってウィーン・シュターツオパーこそが筆者にとっては西洋音楽世界王者で、そこで「なま」新旧公演を見聞、あとはもろもろ教会でミサやオルガンを浴びればよし、それだけで子連れの筆者は手一杯だったのである。ゴージャスな劇場のゴージャスな演目、宮廷時代にタイムスリップしたみたいに着飾った男女の群れの間をぬい泳ぎ、休憩時間に階上テラスからぼうっと浮かぶ薄緑のカールス教会を眺めつつ一杯のメランジェ(エスプレッソに泡立てたミルクを載せたコーヒー)と家から持参の硬いサンドイッチを齧り、そこはかとない哀愁に身を委ねるのは、筆者のロマンそのものだった。
だが今、長い長い年月を経て懐かしくよみがえるのは、豪奢なオペラシーンではなく街角のシュランメルン、ホイリゲの楽師たち。
帰国から10年ほど後、ポーランドへの旅の行き帰りに立ち寄ったウィーンで、初めてフォルクスオパーの『メリー・ウィドウ』を見て胸を突かれたのだ、その人懐っこく切ない調べに。それは数日前の古都クラコフの民族レストランを思い出させた。筆者は男性舞踏手に引っ張り出され、客席の間の小さなステージで踊らされたのだった。くるくる転回するダンスにくらくらしつつ、リードするその手の乾いた感触と灰褐色の眼差しに、その瞳の翳りを覗き込むような心持ちになったのは、クラコフに残るゲットーや、むろんアウシュヴィッツ見聞があったからだろう。ジプシーが蔑称であったように、村々を流浪する楽師たちは、どこにあっても手負いの、底辺の人々であった(日本も芸能者を河原乞食と呼んだように)。
第2幕の賑やかな民族舞踏と《嘆きの歌》、そして何よりハンナが故郷を思って歌う《ヴィリアの歌》の切々たる抒情。楽師たちの声がそこに重なった。
そういうことだったのか。
以降、筆者の世界各地への旅は、街角の歌声を聴くことへと傾いていった。
ウィーンに住んだ頃、まだ東西世界は分断され、プラハへのバス旅でも、麦畑の国境線に鉄線が張られゲートでは検問があった。どの窓辺にも花々が飾られたこちらの街並みと灰色一色の向こうの大通りのあまりの違いに子供たちは言葉少なく、東で彼らの食を確保するのは容易でなかった。マックもケンタッキーもピザハウスもないのだから。けれど、プラハの国民劇場で聴いたマーラー『交響曲第1番』(V・ノイマン指揮チェコ・フィル)は、モルダウもドナウも、流れるのは一続きの大地であること、そこに住む人々の抱く楽の音もまた一続きであることを伝えるのだった。
今回、日程の都合で再びの『メリー・ウィドウ』は叶わず、『こうもり』になったものの、筆者にとってはこれこそ旅のメーンイベントとなる、はずだった。
が、あろうことか午前中のセセッション『ベートーヴェン・フリーズ』鑑賞とカフェ・モーツアルト行列で疲弊、午睡をとるもシャッキリ回復に至らず、第2幕以降を断念、タクシーで早々に帰宿したのである。いや、断念というより、筆者は序曲で、もう、これで十分、と思ったのだ。あの浮うきワルツ、タメに溜めてのもったり弾ませ方に、ああ、これこれ、とすでに酔いしれた。席は平土間の中央中間右端あたりだったが、隣席は両親と高校、大学生のお嬢さんといった感じの家族連れで、彼女らはカジュアル・ファッション、開幕前はケラケラ快活におしゃべり。序曲のワルツには手をひらひら大いに楽しむ様子で、もう何度も来ていることが知れる。序曲の出来に喝采しつつぺちゃくちゃ感想を。幕があがれば、ジョーク満載のセリフ、ちゃめっ気たっぷりの芝居と歌にのけぞりかえる。客席のこれら若者たち(多かった)の反応でステージもどんどんヒートアップに、筆者置いてきぼり感も少々。彼らの日常をこんなふうに彩り、愛される音楽、いいなあ、と素直に羨ましい。
第1幕、筆者のお気に入りは《ロザリンデの嘆き》。牢屋に入る夫との短い別れを嘆く偽の愁嘆場で、メロディーが流れたとたん(序曲にも出てくる)、うるっとくる。なぜか知らんが切ない、切なすぎる。そこから徐々に小躍りのワルツへと弾けてゆく、このじわじわ高揚螺旋の引力の引っ張り加減といったら。客席から浮き上がるお嬢さんたちに、筆者もふわふわ音のバルーンで天空へ、だ。人生は悲喜交々。その絶妙のブランコ具合が、このひと節に詰まっている。年を重ねれば一層に、それは胸を締め付けるのだ。甘く軽やかなアルフレート《酒の歌》に次ぐロザリンデとの二重唱「全てを忘れられる人は幸せ〜〜」のくだりにもグッとくる。恋はシャンパンの泡みたいなものだけど、人生には忘れたくとも忘れ得ぬこともあるからね。そう、心の機微をシュトラウスはなんと巧みに音楽に掬い取っていることか。
賑やかな第1幕フィナーレののち、ロビーへ。この劇場は通りに面し、狭いロビーはごった返すからグラス片手に外気にあたって路端でくつろぐ人々も多い。一歩出れば街の喧騒。筆者は会場係にタクシーを呼んでもらい、窓ガラスの向こう、懐かしいヴォティフ教会を眺めつつ車中でワルツと甘い旋律の余香に浸ったのであった。
当夜唯一の心残りは、第2幕の《きみ・ぼく》を聴かなかったこと。「兄弟姉妹となりましょう、全ての人よ、一緒に歌ってください」とファルケが歌い上げ、全員がそれに和す美しいシーンだ。「ドウィドゥー ドウィドゥー」と繰り返す、そこがとりわけ好きで、帰国後、C・クライバー指揮バイエルン国立管弦楽団 、オットー・シェンク演出のミュンヘン国立歌劇場ライブ(1986年12月)を動画で見て、クライバーの陶然たる表情と蝶のごとき掌の舞に隣席のお嬢さんたちを思い出し、つい笑ってしまい、俄然悔しくもなったのであった。
にしても、モザイク様に入り組んだ文化の交差路たるウィーンの地、その複合多様性。原型と言われるヴィンドボナは古代ケルトの村にローマ人が築いた都市で、ドナウ河畔とアルプス山脈終尾の森に囲まれ、東方世界への入り口でもあった。陸路は欧州の東西南北(ゲルマン、スラヴ、マジャールなど)を結ぶ交通の接点、海路はドナウを介しての黒海、地中海交易と、多彩な文化が流入流出混淆する古代国際都市であったのだ。
だからこそ、ウィーンの抱える各々の「ふるさと」への想いのたけ、同時に隣人愛、争いのない平和への切実な願いがある。それが「兄弟姉妹となって」の一節にも込められているのだ。それは地続きのユーラシアが抱く強烈な郷愁と人類愛で、その両者を絶えず歌い続けずにいられない彼らの必然を示してもいよう。
ハンガリーのロマ、イスラエルのクレズマー、ナイル・クルーズパーティーでのアラブ旋回舞踏、ギリシャのブズキ、スペインのホタ、フラメンコ...思いだせば次々浮かんでくるそれらの街中音楽は、詰まるところ根流は一つ、と改めて思う。
今回、短い滞在であれば、街中にシュランメルンを見ることはなかった。
ウィーン・フィル見聞の日曜午後、ケルントナー通りで音大生っぽい若者が楽器ケースに投げ銭でヴァイオリンを弾いていたのを見たくらい。
最終日の夜、筆者は中心街にある唯一のホイリゲ、とかで食事をした。
かつて住んだ郊外の、少し奥へと歩くとたくさん並んでいた家族的なホイリゲ、あるいは通りの向こう側、細道をゆるゆる登るとウィーンの森が見渡せる草地に立つホイリゲ。子供達が大好きで、小さなブランコもあったあの丘。
ポーランドの旅の折、プッツおじいちゃんの家近くを訪ねてみたものの、それらホイリゲが跡形なく消えていたのに驚いた。それでも、ホイリゲの雰囲気を味わいたく、せめて街中でも、と行ったのだが...。
ワインに定番シュニッツェル。
やがて賑わいだした店をあとに、ホテルへの裏路地を歩く。
夢の都ウィーン。
いつまでも黄昏のウィーン。
4年がかりで昨年7月に書き終えた西村朗論 、その西村の最初の音楽との出会いは、小学校5年、放送室でかけたシューベルト『軍隊行進曲』。「全身で震えるように引き寄せられた」その中間部トリオ部分はシューベルトの魔力「神秘へのいざない」で、かつ筆者はそこに微かなロマ性を嗅いだ。ロマが北インド、ラジャスターンを源とする先住民族最下層の楽師を伴う人々であったことを知れば、この曲が書かれたツェレス(ハンガリー)という地の色合いも思い浮かぶ。装飾音にツィンバロンの響きを想起するのもあながち的外れではなかろう。
ウィーンのシューベルトに西村が何を聴き取ったか。
筆者の旅はウィーンから始まり、再びウィーンへと還る。
それは、「ヨーロッパという概念」への問いと同時に、対する「オリエントという概念」への問いの旅でもあったと思う。自らをオクシデントと規定、それと「異なるもの」(ヘテロ)をオリエントと総称したヨーロッパ概念の確立は11~12世紀のことだ。
論を書き終えた今、筆者にはウィーンと大阪(西村の生地)がはっきり重なるようになった。ウィーン同様、難波はシルクロード文化の入り口で、大和への途中にある湿地帯であった河内平野には渡来人の村落が多く、国際的な文化の坩堝でもあった。彼がアジアの宗教をあれこれ渉猟しつつも京都・奈良・大阪三都を自身の文化的出自とし、あくまでそこに立ち続けたのもそれが彼の原風景だったからだ。
37年、各地を歩いた旅の全てが、ウィーンから大阪への道であったのだ、と今はわかる。それを最も伝えたかった人は、もういないけれど。
声、音の「根源へ」。
途上にあっての標は、いつも通過点。
これからも果てなく続くのだろう。
(2025/1/15)