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パリ・東京雑感|本当は怖い埴輪の顔|松浦茂長

本当は怖い埴輪の顔

Text & Photos by 松浦茂長 (Shigenaga Matsuura)

『盾持人』東京国立博物館特別展「はにわ」

秋に上野の国立博物館で「はにわ」の展覧会があった。
パリ駐在のとき、前任者から「シラク大統領は相撲と縄文土器の熱烈なファン」だと聞かされた。記者会見の最中、大統領が彼に「あなたは縄文と弥生と、どちらが好き?」と質問したというのだから、ずいぶんのご執心だったようだ。ネアカの埴輪とネクラの土偶。弥生系が好きか、縄文系が好きかで人は二派に分かれるかもしれない。

埴輪派の筆頭は大正・昭和の代表的彫刻家、高村光太郎だ。

これはわれわれの持つ文化に直接つながる美の源泉の一つであって、同じ出土品でも所謂縄文式の土偶や土面のやうな、異種を感じさせるものではない。縄文式のものの持つ形式的に繁縟な、暗い、陰鬱な表現とはまるで違って、われわれの祖先が作った埴輪の人物はすべて明るく、簡素質樸であり、直接自然から汲み取った美への満足があり、いかにも清らかである。そこには野蛮蒙昧な民族によく見かける怪奇異様への崇拝がない。所謂グロテスクの不健康な惑溺がない。天真らんまんな、大づかみの美が、日常性の健康さを以て表現されてゐる。(高村光太郎『美の日本的源泉』)

たしかに埴輪は明るい。人も動物も鳥も、何の気苦労も無さそうな、無邪気な顔をしている。「清らか」かどうかは分からないけれど、罪のない「天真らんまん」な表情だ。愁いの影もない顔を次から次へ見るうち、こちらも口元がゆるんできて、考古学展としては法外な2100円の入場料にも、腹が立たなくなった。
でも、先史時代の表現を論じるのに、「グロテスクの不健康な惑溺」は、ちょっと場違いではないか? 光太郎が、「グロテスクの不健康な惑溺」と書いたとき、彼の頭にあったのは、同時代の芸術の退廃ではないだろうか。その憎むべき「不健康」の対極にある「直接自然から汲み取った美」の理想の具現として、埴輪を持ち上げたのだ。

ところが、ほぼ同じ世代の哲学者、和辻哲郎は、埴輪を「稚拙」と断じ、これより古い縄文については、「決して稚拙ではない」と評価している。

『仮面の女神』尖石縄文考古館

(埴輪と同時代の)神々の物語にしても、この埴輪の人物にしても、前に言ったようにいかにも稚拙である。しかし稚拙ながらにも、あふれるように感情に訴えるものを持っていることは、否むわけに行かない。それについてまず第一にはっきりさせておきたいことは、この稚拙さが、原始芸術に特有なあの怪奇性と全く別なものだということである。わが国でそういう原始芸術に当たるものは、縄文土器やその時代の土偶などであって、そこには原始芸術としての不思議な力強さ、巧妙さ、熟練などが認められ、怪奇ではあっても決して稚拙ではない。それは非常に永い期間に成熟して来た一つの様式を示しているのである。しかるにわが国では、そういう古い伝統が、定住農耕生活の始まった弥生式文化の時代に、一度すっかりと振り捨てられたように見える。土器の形も、模様も、怪奇性を脱して非常に簡素になった。人物や動物の造形は、銅鐸や土器の表面に描かれた線描において現われているが、これは縄文土器の土偶に比べてほとんど足もとへもよりつけないほど幼稚なものである。(和辻哲郎『人物埴輪の眼』)

弥生・古墳時代の造形を縄文の「足もとへもよりつけないほど幼稚」と決めつけたからと言って、和辻を縄文シンパに分類するわけには行かない。日本人の美的表現は縄文で最初の頂点に達し、その完成度の高さにくらべると、異民族がもたらしたコメ=弥生文化は「幼稚」な低さでしかないと認めはするが、だからといって、和辻は、縄文を日本文化の出発点に置こうとは考えない。それは、「怪奇性」を特徴とする原始芸術であって、「文化」以前。「日本」は、弥生・古墳から始まるのだ。和辻は、埴輪の顔の中に、白鳳仏に直接つながる「不思議な生気」を読みとっている。名著『古寺巡礼』の著者にとって、埴輪はその稚拙にもかかわらず、日本の美の始まりなのである。

エッセイの冒頭から、大正・昭和の先達の文章を長々と引用させてもらったのにはわけがある。シラクさんにとって「縄文か?弥生か?」は、美的趣味の問題だったが、日本人にとっては、「どちらがお好き?」ですまされない重い課題が隠れていることを、知ったからだ。明治の新国家建設以来、埴輪は日本的なるモノの原型的役割を負わされ、昭和になると、戦場に赴く兵士の表情が、埴輪の顔の明るさ、清らかさになぞらえられる。埴輪をめぐっては、ナショナリズムとからみあった、あぶないイメージがさまざまに生み出されたのである。

縄文教の教祖、岡本太郎は、パリで10年間暮らし、「伝統」が日本とまるで違う働き方をしていることに驚嘆する。僕も、コレージュ・ド・フランスでピエール・ブルデューの講義を聞き、「左翼社会学者が、こんな風に<伝統>を説くとは!」と、ちょっとびっくりした記憶がある。それは「マネの絵画革命」をめぐる連続講義だった。ブルデューは、いかにマネが徹底的に絵画の伝統を究めたかを語り、「伝統の体得なしに革命はあり得ない」とのたまったのだ。
岡本太郎がぶつかったのも、ブルデューが論じたと同じ「伝統=革命」の切っても切れない関係性だろう。フランスで生きるうちに、伝統とは自己とぶつかり合い、あらたな創造の道を開いてくれる強靱な力であると悟ったのである。
創造の源泉となるダイナミックな「伝統」を知った岡本太郎の目に、日本の伝統なるものは、何から何までひどく弱々しく、陰湿に映った。日本の「伝統」に絶望した岡本は、しかし1951年、縄文土器に出会う。

尖石縄文考古館

ながいあいだヨーロッパに暮らして、世界の非情でたくましい、さまざまの伝統に慣れてきた私は、帰国いらいふれる日本の文化、ことに「伝統」などというレッテルのはられたすべてが、ひどくよわよわしく、陰性であるのにがっかりしたものでした。
近世日本の小ざかしい、平板な情緒主義はいうまでもありません。大陸から直輸入され、そのまま伝統の中に編入されて、わが国の最大の古典としてまつりあげられている、豪華で壮大な奈良時代の仏教美術などをながめても、素朴な段階にあった当時の日本とはそぐわない、爛熟した大陸デカダンス文化の、おもく居丈高い気配に、なにか後味のわるさを感じたりしました。さらにさかのぼって、古墳時代の埴輪文化のあまりにも楽天的な美観にも、現代日本人にそのまま通じる、イージーな形式主義を見て取り、絶望したのです。
してみると、なんとなくなまぬるい、消極的な楽天主義(オプティミズム)は、どうにもならないわが国文化の宿命なのだろうか、――やや身の置きどころのないような自己嫌悪的気分にとらわれました。
その私が思わずうなってしまったのは、縄文土器にふれたときです。からだじゅうがひっかきまわされるような気がしました。やがてなんともいえない快感が血管の中をかけめぐり、モリモリ力があふれ、吹きおこるのを覚えたのです。たんに日本、そして民族にたいしてだけではなく、もっと根源的な、人間にたいする感動と信頼感、したしみさえひしひしと感じとる思いでした。(岡本太郎『日本の伝統』所収『縄文土器―民族の生命力』)

岡本太郎『犬の植木鉢』

縄文に触れることで、人間への「信頼感」を取り戻したとは、途方もない告白だ。「埴輪に始まる日本」=伝統には、人間性さえ失わせる抑圧力があったのか?「全てがひどく卑弱であり、陰性である」と、呪いの呻きをあげるほどに、岡本太郎の絶望は深かった。
おもしろいことに、岡本太郎の彫刻には縄文的な暗さも、陰鬱さもない。風変わりかもしれないが、明るく健康的で、「怪奇異様への崇拝」や「グロテスクの不健康な惑溺」とは無縁だ。その点ではむしろ埴輪の楽天性を引き継いでいる。

上野の「はにわ」展と同じ頃、竹橋の近代美術館では、「ハニワと土偶の近代」という、意味ありげなタイトルの展覧会が開かれた。そもそも埴輪より土偶の方が古いのに、なぜ「土偶とハニワ」でなくて「ハニワと土偶」なの? 土偶の方が後に発見されたためもあるが、「近代」日本の国家神話形成に大いに貢献したのは、埴輪だからである。もともと埴輪は古墳の飾りなのだから、天皇中心の国家を作り上げるために、埴輪が担ぎ出されないはずはない。武人埴輪スタイルのよろいを身につけたヤマトタケルや、みずらを結った若者が働く埴輪工房の絵からは、国家建設のみずみずしい空気が漂ってきた。

しかし、埴輪が天皇制国家神話の原イメージに祭り上げられたとなると、埴輪のかもし出す明るさや天真らんまんさは、日本国民の原性格としてたたえられ、ネクラや屈折した性格の人を生きにくくさせる、無言の圧力になりかねない。日本人は、明るく素直でなければいけない――埴輪のように……。

蕗谷虹児『天兵神助』

1943年、戦意高揚をはかる航空美術展に『天兵神助』と題する絵が出品された。ぐったりした航空兵(まだしっかり刀をにぎっている)を、埴輪そっくりのよろい兜をまとい、勾玉の首飾りをつけた「天兵」が抱きかかえている。二人は雲の上だ。遠景では、天兵と航空兵が、仲良く刀を振り上げ、敵をめざして空中を疾走している。日本は神国だから、戦場に倒れた英雄たちは、「天兵」によって天の宮殿に運ばれるのだ。天に昇った英雄たちは、ワルキューレの物語のように、祖国を破滅の危機から救うために待機するのだろう。

高村光太郎は戦後『暗愚小伝』と題する、胸を打つ懺悔の詩によって自分の誤りをさらけ出した人だが、あれほど深くヨーロッパ文化と人道主義を身につけたのに、開戦と同時にたやすく戦争の狂気に感染し、「陛下をまもらう/詩をすてて詩を書かう」と戦争賛美の詩に熱を上げてしまった。
埴輪についての短い文章の中で、光太郎は、戦場に赴く若者たちの顔が、埴輪のように明るく、素朴で清らかだとたたえる。埴輪たちは、いま、その「天真らんまん」の心によって、祖国の戦いに奉仕する。埴輪の「素朴」があるかぎり日本は滅亡から守られるのだ。

日本に遺ってゐる造形芸術の中で、埴輪ほど今日(昭和17年)のわれらにとって親しさを感じさせるものはない。埴輪ほど表現に民族の直接性を持ってゐるものはない。それはまるで昨日作られたもののやうである。その面貌は大陸や南方で戦ってゐるわれらの兵士の面貌と少しも変ってゐない。その表情の明るさ、単純素朴さ、清らかさ。これらの美は大和民族を貫いて永久に其の健康性を保有せしめ、決して民族の廃退を来さしめないところの重要因子である。世界の歴史に見る過剰文化による民族滅亡の悲劇が日本に起こり得ないのは、国体の尊厳に基く事はもとよりであるが、又此の重要因子の作用するところも大きいのである。(高村光太郎『野間清六編「埴輪美」序』)

乳飲み子を抱く埴輪

戦場に送り込まれた若者たちも、彼らを見送る親たちも、明るく、素朴で清らかな顔を作らなければならない無言の圧力の下にあった。泣いたり恨んだりすることは許されない。すべての日本人は、「天真らんまん」な埴輪の顔をもつことを強制されたのだ。
光太郎は、埴輪的<健康性>と、欧米の過剰文化の<廃退>を対照させ、その健康性ゆえに「民族滅亡の悲劇が日本に起こり得ない」と予言している。いま、プーチンが正教ロシアの純潔を、欧米の退廃文明と対照させ、戦争の目的は「腐りきった西欧の毒が、うるわしいロシアの家族を汚染させないためだ」と言い張るのと同じ理屈ではないか。「清らかさ」を守るためと称する「聖戦」イデオロギーである。

さて、日本人は埴輪の呪縛を解かれたのだろうか?
あるグループで、LGBTをテーマにした『カランコエの花』という映画を見たとき、舞台となる高校の教室が、終始あまりにも明るく、軽やかなのが、僕には気持ち悪かった。何かにつまずいても深刻に悩んだり、苦しみを訴えたり出来そうもない。ネクラは排除されるのだ。映画を見たグループの中には、高校で教えている方もいて、「とてもリアルだ」と評価していた。いまの若者は、昔よりももっと明るく、素朴で、楽天的であることを強いられるのではないだろうか? ネクラを許さない空気の中で、どうやってLGBTのようなマイノリティの苦悩に感情移入できるだろう? 岡本太郎は埴輪から現代に通じる「イージーな形式主義」を指摘したが、そこに強制があれば、決してイージーではない。死をもたらすほどの圧力ともなるのだ。
明るさ、素朴さ、清らかさがたたえられるとき、私たちは「ちょっと待って」と、疑いを持たなければいけないのかもしれない。埴輪とそのバリエーションを通じて、日本人の陥りやすい罠に気付かせてくれる、素晴らしい展覧会だった。

(2025/01/15)