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特別寄稿|追悼文 安倍オーペル節子(1933-2021) ― 熊本からドイツ・バート・ゾーデンへ 演奏、通訳、文化仲介者としての生涯(2)|デトレフ・シャウヴェッカー

追悼文
安倍オーペル節子(1933-2021) ― 熊本からドイツ・バート・ゾーデンへ
演奏、通訳、文化仲介者としての生涯(2)
In Memory of Abe-Opel Setsuko (1933-2021). From Kumamoto to Bad Soden (Germany) ―
A Life as a Singer, Interpreter and Cultural Mediator

Text by デトレフ・ シャウヴェッカー(Detlev Schauwecker):Guest

コンサート活動 1959-1985

留学終了の1959年に節子はフランクフルト大学の講堂でおそらく初めてドイツの演奏会に参加した。フランクフルト音楽大学の留学生が母国の音楽を紹介するコンサートであった。節子は3曲を歌った(2月20日)。
彼女は卒業後、日本に戻ることは考えていなかったようだ。1960年代から1980年代初頭までのフランクフルト滞在について1984年前後にまとめた文章がある。近くのダルムシュタット市にある音楽アカデミー(Darmstädter Akademie für Tonkunst)という著名な音楽院に宛てた手紙の下書きもしくは写しと思われるものだ:

私は1963年W.F. ニーベル博士 との結婚によって、ドイツ国籍を得ました。それ以降、添付のプログラム(抜粋)が示すように、習得した歌曲とオペラアリアのレパートリーを主に使って演奏しました[同プログラム書類が節子の遺品になかった]。特に、長年一緒に働いてきたヴィルヘルム・レティヒ(Wilhelm Rettich)のフランクフルトでの「Geisha-Lieder」(芸者の歌)の初演奏を取り上げたいと思います。同時に、教会音楽(ミサ曲、カンタータ、モテット)を学び、レパートリーを増やしました。その間、ドイツと日本の文化の仲介者(通訳)として働きました。1984年に離婚した後、日本に戻り、ドイツで得た知識と技術を声楽者として伝えるつもりです。そのためにダルムシュタット音楽アカデミーの試験を受けたいと思います。

彼女は結局日本には行かず、翌1985年にヨアヒム・オーペルと再婚した。再婚届に「職業」として「歌手」と記入したが、 この意味で、彼女はフリーランスの芸術家であり、生計を通訳や団体案内で立てた。
手紙から2点を取り上げる。

・ ヴィルヘルム・レティヒ Wilhelm Rettich(1892-1988)の「芸者の歌」のフランクフルト初演について。

ここ数十年注目を集めてきた作曲家W.レティヒとの協力に関する証拠が見つからなかったが節子に関するヒントは一つだけあった。 ユダヤ人の亡命作曲家(スターリン、続けてヒトラー体制下で迫害をうけた)レティヒは、1960年代に ― フランクフルトから2時間離れた ― バーデン・バーデン市の近郊に住んでいた。「芸者の歌」とは、クラブント Klabund(1898-1928)の詩を基にした「芸者おせんの四つの歌」作品第18番を指す。 節子は母がしばらくの間芸者であったのでこれらの歌をどのような気持ちで歌っていたであろうか。 同じく、数年後映画で芸者役をやった時にどう思 っていたであろうか。どちらも日本の実態から離れた西 洋人の空想的なものであった。

・ 残念ながら手紙に添付されたと書いてあるコンサートプログラムは発見できなかったので、教会音楽への指摘も確認できなかった。が、彼女がフランクフルトにあるプロテスタント 教 会(Evangelisch-lutherische Wartburg-Gemeinde)で洗礼を受けるための授業を受けて、結婚したのでその教会と密接な関係になり、何らかの形でその教会の活発な音楽活動に参加したと考えられる。節子が老後になって最後に歌ったコンサートもその教会の主催であった(以下参照)。が、教会資料室には彼女に関するそれ以前の教会音楽会参加に関する文献は見つからなかった。

手紙で示した複数のプログラムは遺品の中に発見できなかったため、現存する数の少ないものを取り上げることにした。他に残った広告、舞台写真、新聞記事などを基にして当時のコンサートイベントの文化的色彩にも触れる。その中、日本人女性に対して残っていたいくらかジャポニズム風のエキゾチックなイメージも取り上げる。

節子の音楽活動は三つの時期に区分が出来る:
(I)1960年代-1980年代前半:西ドイツ金融の都であったとも言えるフランクフルトのブルジョワもしくはハイブルジョワの世界でのコンサート。
(II)1980年代後半-1990年代:フランクフルトの庶民の音楽界との接触、
(III)1990年代-2021年:田舎町の音楽会、声楽教師としての活動。

(I)に関して、五つのコンサートを取り上げる。

1.  「ドルンブッシュの家」(Haus Dornbusch) で歌う節子、1960年

卒業後のコンサート活動は、1960年の夏、フランクフルト市内のドルンブッシュ地区にある「ドルンブッシュの家」という文化センター(「市民の家」)で始まった。この古い高級住宅地は「詩人の町」(Dichterviertel)といわれる著名な町もあり文芸に関する水準の高いプログラムを期待していたと考えられる。節子のコンサートは「隣同士の夕べ」のイベントシリーズの中でこの地域の 場所柄に合うようなものであった。
チラシに載った節子の写真の説明文に「魅力的な若い日本人女性歌手」の登場が予告された。魅力的という言葉にはこの文書の前後に半世紀前のジャポニズム趣味の余波が響く。前述の「頑固」さや「とてもエネルギッシュ 」と言った節子のレッテルとは対照的であることは面白い。
彼女が歌った日本の歌は、女優イルゼロッテ・ヴォルフIlselotte Wolf による和歌などの独訳の朗読と交互に紹介された。朗読のプログラムは第1部に平安時代の和歌を、第2部に松尾芭蕉など江戸時代の著名な俳人(与謝蕪村、小林一茶など)から近・現代の詩人までを紹介した。和歌などを選ぶときに、おそらく当時フランクフルト大学の日本研究主任だったオットー・カロー (Otto Karow, 1913-1993)にアドバイスも求めたであろうが、 参考にできるドイツ語訳の日本詩歌集もジャポニズム時代の1900年前後にたくさん出版されていた。

節子は主に、作曲家山田耕筰(1886~1965年)、橋本國彦(1904~1949年)など20世紀初頭の日本童謡運動の歌を歌った。その多くが日本で今でも日本創作歌曲のレパートリーの一部となっている。
プログラムの始めの方に「さくらさくら」を歌っていたであろうが、年 配の客の中には、20世紀初頭の青少年運動(Jugendbewegung)で日本に対する憧憬の気持ちを持って歌われたことのあるこの歌を馴染んで聴いていた者がいたかもしれない。それ以外の日本の歌はみなが初めて聞いたであろう。それでも、山田耕筰のような作曲家は歌曲にシューベルトの技法も 応用しており、たまにブラームスなどドイツロマン派のモチーフも ― ペンタトニックへ直した形で ― 使用していたため、節子が歌った日本の歌は聴衆に全く異質というわけではなかったと思われる。
コンサートの前半の終わりに節子は、もしかしたら19世紀後半日本に入った元南ドイツの民謡「ムス・イ・デン」(「ムシデン」, 元歌名:「Muss i denn」;シルヒャー作曲)を歌ったかもわからない。同じく、コンサートの後半の終わりに「O Tannenbaum」の日本語バージョンを歌ったのであろうか。
配布されたプログラムには以下のような曲名が載っていた。(カッコ内はシャウベッカーの説明。日本の曲名や和訳):

Gesang am Strand(「浜辺の歌」、成田為三[1893-1945])
Die Kirschen blühen(「さくらさくら」?)
Beim Anblick des Fujiyama(「富士山見たら」、橋本國彦[1904-1949])
Abschied(「ムシデン」「さらばさらば」?)
(休憩)
Erwartung am Abend(夕べで待つ?、不明)
Narayama(「平城山」、平井康三郎[1910-2002])
Leuchtkäfer-Gras(「蛍草」、不明)
Kirschblüten(「桜の花」、不明)
Kinderlied(童謡、不明)
Tannenfest (「もみの木の祭り」? 「O Tannenbaum」?)

耳の肥えたドルンブッシュの客は、普段聞こえない詩と音楽のプレゼンテーションに感動して帰ったであろう。節子にこの最初の演奏会が大きな成功だったにちがいない。
このドルンブッシュの歌の夕べは、地域活動のグループが地元の外国人の協力を得て、その外国の文化を紹介してもらう一例であった。

2. ヴィースバーデン市(Wiesbaden)の舞台演奏、1961年

翌1961年に、節子の演奏のヒントとしてフランクフルトに近いヴィースバーデン市で彼女が「ハンブルグの青少年劇場」のメンバーと一緒に写った舞台写真が残っている。他の女性芸術家たちと並んでいる節子が贈り物を受け取っているスナップである。写真には監督者であったハリー・ゴンディが、「とてもチャーミングな安倍節子に、良い願いを込めて捧げます」と書いた。前述のジャポニズムの匂いが強い「魅力」は 、男女の間のアピールをも響かせる「チャーミング」に変わった。 H .ゴンディ(1900-1969)は当時の人気俳優であった。

3. テレビシリーズ「ヘッセルバッハ一家」に登場する節子、1963年

1962年にヘッセン州立放送局が節子を雇用した。彼女は、1963年4月24日に初回放送された人気のあるテレビシリーズ「ヘッセルバッハ家」の第41回「東京会議」で「芸者」の役を演じた。予告は、東洋の美しい「アーモンドアイ」と書いて宣伝した(それは節子の場合間違っていなかった)。が、番組の中には、逆にヘッセルバッハの二十歳ぐらいの娘が東洋人の細い目をちょっとした動きでふざけて目尻を両手の指で引っ張りあげる場面がある。昔の差別的な仕草なので不適切である。
契約上、節子の出演料は350マルク、さらに日本の歌の翻訳料は50マルクであった。(総額は現在の1,000ユーロ弱に相当、ほぼ15万円)。舞台は東京都内の「芸者の家」で、役は客のヘッセルバッハ(男性主役)の前で踊り、三味線の伴奏で一曲の歌を歌うことであった。
映画の場面は現実とは程遠いものであった。場所設定はインド、中国、日本ともいえるあいまいさで、中国と日本が混ざったような「蝶々夫人」などのオペラの古い上演設定の舞台に似ている。「芸者の家」は都内にある中級中華料理店を思わせるもので、そこでヘッセルバッハは上等な畳でなく、粗く編んだ農家の筵の上に座っている。
節子の芸者役を見てみよう。まず髪型。普段に芸子に見えるようなぴったりとくっついた、複雑な構造をもったものの代わりに、彼女はくしゃくしゃなかつら──無声映画期の古代ファラオ時代の大衆シーンに使ったようなもの──を被っていた。衣装は控えめというよりは目立つ柄デサイン、歌声は芸子の硬い歌い方と違って柔らかいビブラートをもって、ブラームスの子守唄に合うような繊細な歌い方、伴奏として、傍にいる三味線奏者が弦を撥ではじかないで、撫でさわるふりをする格好、聞こえてくる音はハープの響きなどなど、一言でいえば1960年代初頭にヘッセン州立の映画スタジオで「蝶々夫人」などのオリエントジャンルを踏まえて立派にでっちあげられた舞台だ。
節子は母国をイメージした奇妙な舞台に出た時にどう思っていたであろうか 。

4.「ヒルデガルト・フォン・バトラー゠シェーンプフルーク声楽スタジオ」
(Gesangstudio Hildegard von Buttlar-Schoenpflug)のコンサート、1967年

節子は1966年以降、フランクフルトの声楽スタジオで「ソロ歌唱、発音、演奏法」において「ソプラノ」のレッスンを受けた。それは卒業後、練習を続ける一つの道である。費用は一か月4回で70マルクであった。
翌年の1967年には、この声楽スタジオが節子を含めて「4人の若手声楽家のコンサート」を企画した。節子はこの演奏参加に躊躇していた。音楽スタジオの所長、「国家認定の声楽教師」のH.v. バトラー゠シェーンプフルークは手紙で彼女を励ました。言い換えれば危機に直面した若い後輩を、経験豊富な先輩が勇気付けたのである。 スタジオの広告の高級なデザインなどを見ると、権威を振りかざすような印象を受けるが、その手紙はしかしとても温かいものであった:

親愛なる節子!今年、大したものでないこのようなコンサートで歌う機会を得たくないなら、後で厳しいオーディションにどうやって成功するのですか?この職業を選んだのであれば、何よりも自分自身に非常に厳しく、自分自身を克服しなければなりません。そうすれば成功できるでしょう。
自分自身に対する勝利ほど美しい勝利はありません。あなたがこのコンサートに向けて十分な準備ができていることを私や他のみなさんは確実に知っています。あなたが大きな成功を収めることを保証します。
これからあなたのテクニックがさらに上達すれば、まったく異なるやり方で歌やアリアをデザインすることもできるでしょう。それはあなた自身から生まれなければなりませんし、これからもそれが来るでしょう。この展開はあなたからしか生まれないのです。技術だ けが助けてくれます。他の誰も助けてくれません。私は経験から話をするがあなたの中にすべてがそろっています。私はそれを知っています。

そして、手紙の日付から4日後の3月26日、節子はコンサートに出演した。彼女はぎりぎりのところで参加表明をした。それまで勇敢さを示してきた肥後の娘が、どうして気おくれしていたのであろうか。
スタジオのマスタークラス課程4人の学生のデビューコンサートは、音楽ミューズにふさわしいホールで行われた。高い天井からかかる濃い色の重いカーテンが壁に寄せられて、舞台背景をなしていた。カーテンの前の高いところに音楽象徴としてオルフェオのハープの彫刻作品が飾られている。それを2枚のレンブラント風の暗い色調で描かれている大きな絵が挟む(オルフェオとエウリュディケ?)。月桂樹を思わせる観賞用の鉢植えの木が演奏家の登場する花道のようなところ に並べられている。演壇の正面は金色。1960年代に上流階級の音楽堂として保存された、19世紀後期のグリュンダーヤーレ期(Gründerjahre)の好みでこしらえた豪華な空間である。そして、グランドピアノの前に ― 様式として外れるバウハウス風の簡単な椅子に ― オットー・ブラウンという老巨匠の伴奏者が座る。

著名なピアノ伴奏者オットー・ブラウンの隣に節子

節子は、濃い金茶色と紫の色を使った大胆な模様で、深く胸を開けたアレンジ風のドレスを着ている。彼女自身も自信に満ちた笑顔を浮かべて、その顔はウェーブがかった前髪で縁取られており、当時西ドイツ経済膨張期に好まれた高く盛り上げたヘアスタイルからは程遠いものである。コンサート後の晩餐会では先述の大胆な着物から可愛らしい白い衣装へ着替え、彼女の顔は、老巨匠とワイングラスを交わしながら幸せそうに輝き、漂わせる若々しい雰囲気は34歳の年齢とは思えない。

伴奏者とワイングラスを交わす節子

5. 新年レセプションのコンサート 1968年

翌1968年にフランクフルトで開催される独日協会の新年レセプションのコンサート招待状が節子の遺品にあった:

ニーベル・アベ節子さんがフランツ・シューベルト、フーゴ・ヴォルフの歌と「ラ・ボエーム」のアリアを歌います。

彼女が好きなロマン派のシューベルトに、後期ロマン派のフーゴー・ウォルフが加わってきた。前年のコンサートで歌ったプッチーニのオペラ・アリアに続いて、さらに2つのプッチーニのアリア──ミミのアリア? ──を付け加えた。節子がレパートリーを増やしていることがわかる。夫がピアノを弾いていた。
各界 の要人が参加する新年会へ節子が演奏に呼ばれた事は彼女の評判の高いことを示す に違いない。
大きな音楽ステージの上にいる二人の写真はおそらくこのコンサートで撮ったと思われる。節子は前記の声楽スタジオのコンサートにも着ていたドレスで、暗譜で歌う。ピアノ弾きの夫は、ノーネクタイで、カラヤン以降演奏家たちの間流行になったハイネックの黒いセータ──おそらくカシミアのような最良の生地。その上にゆったりとした白いリネンのジャケット──いわば当時の古典音楽会の都会的でモダンスタイル。半円形に置かれた花瓶4本に着物の色相と遊ぶようなアスターと思われる花が入っている。重厚な二本の燭台に太い蝋燭が灯されている。このように半世紀ほど前、フランクフルトの新年リサイタルが行われていた。

フランクフルト独日協会新年レセプションでのニーベル・安倍節子と夫のヴィルヘルム・ニーベルによる1968年の新年コンサート(?)

70年代と思われるコンサートの写真に、エレガントな音楽サロンのソファに並んで座る二人の姿が写っている。夫の表情が落ち込んでいるが、派手な姿の節子は明るく微笑んでカメラを見つめている。手をつなぎそうだけれど触れ合わないようだ。ソファの上は何かおかしいようである。これは、最終的には1980年代前半の離婚につながる結婚生活の危機の兆候であるかのようである。

70年代(?)のコンサートの際に撮った写真

70年代(?)のコンサートの際に撮った写真

(続)

1 )第 一部は当誌2024 年12月号掲載。
2)F.W. ニーベル Friedrich Wilhelm Niebelは80年代前期に法学博士学位を修得したので夫の博士課程の勉強は20年間の夫婦生活を伴っていた。
3)歌曲出版権を引き継いだショット出版社(マインツ市)も、レティヒの伝記著者であるライナー・リヒット (Rainer Licht、ハンブルク市 )も裏付ける情報をもっていなかった。ただリヒット氏は、ヒントとして、調査中ある日本人女子歌手に言及する文章があったことを覚えていると書面で教えてくださっただけだった。筆者は節子が初演に関して書いた文章が明確であり、事実を表すと判断した。
4) 「 ソプラノと室内オーケストラのための作品第18番 『芸者おせんの4つの歌』」。4つの曲名: 1. 「ああ、私の小さな貧しい島」、2. 「森の孤独」、3. 「地面が優しく歩の足に寄り添う」、4. 「この春が私にまだ花を咲かせてくれたこと」。この四篇は クラブントの長い連作詩 「芸者おせんの歌 ― 日本のモチーフによる」からの抜粋だ。同連作詩はミュンヘン:ローランド出版1918年。おせんとはクラブント詩の中では、井原西鶴著「好色一代女」風に繁栄衰退を思い出し語る老後の遊女の名前であるが、史実としては、江戸時代中期の鈴木春信(1725?-1770)の錦絵などで有名な美人の茶屋娘「お山(せん)」であった。 ― クラブントの詩はジャポニズム好みで和歌風の表現を交えた表現主義的なものだ。なお 同詩について、レティヒの作品以外に少なくとも二つの作品が ある。
5)イルゼロッテ・ヴォルフは当時モリエールの「守銭奴」上演(1960 年)やニーバーガルのローカル茶番劇「デア・ダッテリヒ」(Der Datterich)(1963 年)などのテレビ作品に出演していた。
6)釘宮貴子「1890 年代から1910 年代のドイツ・オーストリアにおける音楽のジャポニスム」(博士学位論文)名古屋大学 2020 年、p. 180 (digital: k12981_thesis.pdf)。

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(2025/1/15)

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デトレフ・シャウベッカー 1941年ベルリン生まれ。近松研究で博士論文修了後、1973年来日。以降、主に欧日交流史研究、関西大学名誉教授。現在、京都府で小規模の農業のかたわら妻とドイツカフェ経営(mitokiya.com)。