プロムナード|唄は物語のように|秋元陽平
Text by 秋元陽平 (Yohei Akimoto)
Steady&Co.やLOVE PSYCHEDELICOに親しんだ思春期から幾星霜、J-POPに耳を傾ける機会を失っていた。長い膠着状態を偶発的に破ったのは、3歳になるかならないかの娘が保育園から持ち込んだYOASOBIである。彼女は『アイドル』をBGMにお遊戯会で踊った(だが、いったいどのように?)のを契機に、わたしに同ユニットの楽曲のストリーミング再生を要求するようになり、それらの楽曲は、ちかごろ集中的に聴取していたストラヴィンスキーの後期室内楽作品、そして長いブランクを経てなぜか再びわたしの中で頭の一隅を執拗に占めるに至ったジャミロクワイと競い合うように、わたしのミュージックアプリの視聴履歴をにわかに埋め尽くすことになった。
なるほどこのユニットには、折々のタイアップ先である小説やアニメ作品をさほど知らないわたしにも、NHKのダイバーシティソングから深夜アニメまで、かつて誰も成し遂げなかったタイアップ界のヘゲモニーを握るに相応しい実力が確かに感じられる。ストラヴィンスキーとの偶然の並びから牽強付会を言うわけではないが、彼らはヴォーカロイド文化とその近傍に位置するJ-POPの先駆者たちに対して、ある種の(新)古典主義的な姿勢を貫いている。といってもそれは作曲技法上の話ではなく、むしろ快く感情を揺さぶるための素材の標準化、形式化、そしてより重要なことに、一定の距離化への漠然とした志向においてである。古典主義的とここで漠然と名付けておくこの態度は、個人的な内面の発露を表現の源泉とするひとりよがりの危険を避ける一方で、「内面の発露」という概念そのものは決して捨て去らない。つまり、感情表現は重要だが、それは遊戯的規則にあえて従わなくてはならない。初期のヴォーカロイド文化は、人間の声を離れたとはいえ必ずしもこういった感情との距離感を持つものとは限らず、しばしばジャンル黎明期の手探り感のなかで非定型の表現を恥ずかしげもなく噴出させてきた。AYASEの志向する「ポップスらしさ」はこの点はるかに操作的で、JPOP風アフェクトの文法に自覚的であり、たとえアラベスクのような音形をピアノロールの四方八方に配列するときも、『アイドル』のように複数ジャンルのサウンドメイキングをつまみ食いするときであっても、そこから発生しうる情感への没入効果を慎重に制限しているように見える。あくまで意匠であって表現主義ではないのだ。
ただし、遊びのルールに従うということは、単にわざとらしいとか、本腰ではないということをまったく意味しない。ホイジンガの言うように(『ホモ・ルーデンス』)、遊びはつねにそれ特有の真率さをともなう。たとえば『群青』を聴くと、まるでこの「わたし」の透明な感情は、情緒化傾向をぎりぎりのところで剪定された穏やかで集合的な枠組みの中でこそ共有/共感の対象たりうると言わんばかりの、このユニット独特のバランスのとれた真摯さが見受けられる。ある種清潔だが定型的な感情表出はもちろん、そもそもひとが書いた「物語」を引用的に展開するというプロジェクトユニットの性質に由来するのだし、殺到する主題歌オファーも、彼らの職人的な距離感によって、まったくばらばらの表現主題に、個性の刻印を残しつつもカメレオンのように(別にストラヴィンスキーに準えるわけではないが)色彩適応できるがゆえだろう。
しかしこうしたすぐれたパッケージングはいかにプロデュースと楽曲制作が良くとも、結局素材の次元でその可否が決してしまうものであって、この意味でYOASOBIのバランス感覚には明らかに、ヴォーカルikuraの特異な歌唱能力の寄与するところが大きい。彼女の声には、どんな姿勢で放り投げられても一定の姿勢で着地できる猫を彷彿とさせるアジリティがあって、音域を問わないアタックの立ち上がりの早さと丸さ、その艶やかな安定性は楽器で言うとソプラノサックスに相当する。ソプラノサックスは、その定型性と柔軟性を兼ね備えた強靭な音質ゆえに、クラシックからジャズ、ときには電化されフュージョンの分野まで、スーパーのBGMでも、オーケストラの中でも、間違いなくクリアカットに活躍する、金属の艶やかさと木管楽器のニュアンスを兼ね備えた楽器でもある。彼女とタッグを組んだAyaseが創作意欲を刺激されただろうことは想像に難くない。
わたしはYOASOBI楽曲中の白眉として”Undead”を挙げる。おそらくこのユニットに(とくに年配の)JPOPリスナーを当惑させる要素があるとすればそれはまず、物語をそのまま要約するような歌詞の「文字通り性」だろう。しかしこの西尾維新の『化物語』シリーズ——平成的なものの集大成といった感があるが——に捧げられたUNDEADに関してはその特性が功を奏する。ひとつには、なぞるべき物語が、本屋大賞的なエモさではなくメフィスト賞的ナンセンスに満ちていることによる。西尾維新——この清涼院流水の(不実な)弟子は、戯言使いシリーズの昔からすでに、ギークな言葉遊びとのうちにじつに少年漫画的な根性論的世界観を隠蔽してきた(「幸せになろうとしないなんて 卑怯だ」)のだが、この遊びと真剣さの配分はそれ自体YOASOBIにうってつけのものだ。Ayaseによるリリックワークはかつてなく技巧的で、説教くさいリテラリティ*(「生きていることを 愚直に果たせよ」)と周到な脚韻(「残念 積んだ経験の因果 形骸化された神話と退屈な進化」「整ってくガイダンス 増えるコンプライアンス」)を交互に配置することで、この浅いレヴェルではすに構えた、しかしどこか憎めない西尾のユーモアを手際よく織り込んでいく。驚異的なのはここでもikuraのソプラノサックス的なしなやかさであり、レジスターキーの音域でポップに檄を飛ばす(「お前に言っているんだ」…「お前とお前の連鎖」)。ikuraが ブレイクで差し挟むキュートな声質のタイトルコール(Undead!)はさながら、個々のキャラクターとCVから自律した、いわば無視点・複視点の抽象的なキャラクターソングであるかのようだ。
なお、娘のお気に入りはわたしと異なり、Youtube経由で発見した『夜に駆ける』のミュージックビデオである。どうしてこの女の人は泣いているの、二人はどこに行ったのと答えに窮する問いを投げかけた挙げ句、エンドレスリピート再生を要求し、転調部分で足をバタバタさせて興奮し、歌詞を形式的にではあれすべて暗記してしまった。形式的に、というのは、例えば「騒がしい日々に」を「騒がしいミッフィーに」と覚えているからだ。彼女にとってその深刻な物語内容は、さして重要ではないのだ。
(2025/1/15)