上野信一&フォニックス・レフレクション 西村朗メモリアル KITORA|丘山万里子
上野信一&フォニックス・レフレクション 西村朗メモリアル KITORA
Shiniti Uéno & Phonix Réflexion Akira Nishimura Memorial KITORA
2024年12月26日 国立オリンピック記念青少年総合センターカルチャー棟 小ホール
2024/12/26 National Olympics Memorial Youth Center, Small Hall
Reviewed by 丘山万里子(Mariko Okayama)
Photos by 渡邊孝嗣
<演奏> →Foreign Languages
上野信一&フォニックス・レフレクション
フォニックス・レフレクション:青柳はる夏、悪原至、金宗響、木次谷紀子、城戸優花、小山大凱、杉江瑠維子、高瀬真吾、中野志保、曲淵俊介、三森友美、渡邊まや
<曲目> オール西村朗プログラム
ケチャ : 6人の打楽器奏者のための(1979)
プンダリーカ: 打楽器ソロのための (2009)
マートラ : 独奏マリンバ、独奏ティンパニと5人の打楽器奏者のための(1985)
〜〜〜
ヤントラ : 打楽器合奏のための(2002)
キトラ : 8台のマリンバのための (2019)
上野信一を中心に国内外で活躍する若手打楽器奏者たちが集った打楽器集団フォニックス・レフレクション。その名称にはメンバーそれぞれが互いの音楽的感性を反射反映させ、より高度な音楽表現を目指し研鑽し合うという願いが込められているとのこと。その彼らが、一昨年9月に急逝した作曲家西村朗の打楽器作品による西村朗メモリアル公演を行った。
冒頭の『ケチャ』。
西村、大学院3年次のまさに初期作品、すでにヘテロフォニー第1作『弦楽四重奏のためのヘテロフォニー』(1975/87)は書かれているが、珍しく改訂を重ね87年が決定版ゆえ(同年ヘテロフォニー4部作完成)、彼の代名詞たる「ヘテロフォニー」はまずこのリズム・ヘテロフォニーから出発したと言って良い。和声・対位法勉学環境適応不全を起こしていた彼に道を開いたのが民族音楽学の先駆・第一人者小泉文夫。その講義からインドネシアのガムランを知り、本作が生まれた。
ケチャはバリの伝統芸能で、古代インドの叙事詩『ラーマーヤナ』(ラーマ王子が悪魔に誘拐された妃を奪還する物語)に基づく舞踊劇。王子と悪魔の戦闘を援護する猿の大軍の活躍と王子の勝利を描く場面がケチャである。猿を模した「チャクチャクチャクチャク」という男声リズム合唱が特徴で、現地のそれは野生に満ち満ちいかにも猿の大群の叫びを思わせるが(動画によれば)、西村のそれはうんと洗練されている。もののその「掻き立て」具合と「鎮静」具合は彼ならでは。
まずはppコンガ、大地をはねるバッタ群の軽快跳梁にドドドロ〜〜ンと雷の如く落っこちるティンパニ。たまらん。筆者はどうも身体反応がストレートなようで勝手に身体がゆすられてしまうのだが、この手の誘惑に全く動じない客席がいかにも不思議。のうち、はじまる「チャクチャク〜〜」。合間にクラッピング。スレイベルやチューブラーベルも適宜入っての響きの多彩、中間部での静寂神秘幻想から再度盛り上げクライマックス、ののち闇に掻き消え目を凝らすところへ最後の一打。と、上げたり下げたりの構成がピシリと決まる。
若い奏者たち満身投身の叩きぶりを要所でぐいと引き締める上野がまた渋い。何よりその体幹の強靭に、打楽器はこうでなくちゃ。そう、こういう快感体験こそが音楽の水源なのだし、そこに居ながらじいっと無音無動の客席を筆者はやはり訝しく思う。踊ろう、というわけでない。けれど、こうまで沈着冷静なんて勿体無くないか。音楽享受ってなんなのだろう。
若き西村がまずはぶっ壊したかったのは、そういう現代音楽シーンではなかったか。
自分にとっては西欧がエキゾティシズムなのだ、と奮い立ったその第一宣言に筆者はつい武者震いしたのであった。
ちなみに武満徹がクセナキスらとバリを訪れたのは1972年。
アフリカのドラムに影響を受けたS・ライヒ『ドラミング』は1971年作、1973~74年にガムランを学んでいる。
西村のヘテロフォニーの始点『ケチャ』がこうした時期に世に出されたことは意識してよかろう。彼がその地を訪れたのはその10年後だが、その音景に飛びついた26歳にたぎるマグマが、幼少期、大阪天満宮「だんじり」を夢中に追いかけたあの熱狂と変わらないことも。
続く『プンダリーカ』は一気に30年飛ぶ。プンダリーカとは白蓮華で、炎の紅蓮に対し、楚々たる清浄美を示す。上野に献呈された作品で、金属打楽器のみによるソロ。ヴィブラフォンとチューブラーベルのヴィブラート(これも西村の典型書法)が靄(もや)る幻想美にゴングとシンバルがまとわりつく。ほろほろと降る花弁、あるいは透明な星光の瞬き。残響・余韻・倍音渦による神秘嗜好が明瞭に示され、『ケチャ』とは対極をなす音景だ。楽器に囲まれた上野の法悦境(奏者はそれどころではなかろうが)が出現した。
この種の官能的幻想性は、最後の完成作『胡蝶夢』にまで続く彼の一貫した幻夢への憧憬を伝える。
『マートラ』は海外からの委嘱作だが、思わせぶりな「間」的ジャポニズムで媚びることなく、リズムパターンのずらしや重ねで攻め続ける。マリンバの軟・鋼音質の絶妙な組み合わせにティンパニの打音が効果的に配分され、快感と興奮を巻き上げ、猿だけでなく周囲の小動物や鳥の声降るアジアの森林を徘徊する気分に。
ここでも若手奏者の溌剌が爽快だ。
後半は2000年代の作品2つ。
ヒンドゥー教やジャイナ教で用いる瞑想用の図像を意味する『ヤントラ』は、89年頃に出会ったグラフィック・デザイナー杉浦康平のアジアの宇宙観、図像世界の投影でもある。宇宙遊泳でもするごとく音の帯に漂う人魂。あるいは闇に落ちる水滴、その響きの輪が重なりうなりとうなりが合わさっての浸潤する酩酊といったら良いか。瞑想と酩酊とは真逆であろうが、しばしば打ち鳴らされる刺激的覚醒作用音。西村いうところの「色彩音響オーラ」(瞑想に色彩があるのか?)一色に染めあげないところがつまりは西村なのか、と思う。
当夜の締めくくりに置かれた『キトラ』は奈良明日香キトラ古墳内部に描かれた4つの聖獣 、天文図に発想を得たもので、「現代の宇宙・時空間と古代の宇宙・時空間はキトラ古墳において響き合う」 (スコアより)。
8台のマリンバがステージいっぱいを占め、ここでも軟・鋼自在な音色の変化(へんげ)、多声一声、小気味よいリズムの重ねと組み合わせ、あるいはドローン上、淡いトレモロ幻想にたゆたうメロディラインの「くねり」、ソロでの対話応答をはさみ、虹の階梯を駆け上り駆け降りグリッサンド、最終シーンでぐんぐんヒートアップ、全員同一音これでもか一心不乱連打でエイヤッと討ち取るのであった。
筆者、なぜかこの作品、一貫してそれが8人の叫びやおしゃべり、囁き(もある)に聴こえ(チャカポコとか、チントンシャン的な言語化でなく)、とりわけ最終景でのノリ具合、玉汗飛び散る音玉群が、狂熱まみれでだんじりにひっつき転がる幼き西村の沸騰音そのものに思え、『ケチャ』からここまでの40年、これが西村の本然であった、と実感したのである。
武満ら先行世代を「西欧がエキゾティシズム」と振り払うことのできた新たな位置どりの作曲家の、大江健三郎的「根拠地」からの第1声、そうしてはるか古代と今日の響応への「幻夢」がここに遺されてあると。
若者たち、その音の気宇壮大神秘酷烈な原始幻渦にこそ、迷わず飛び込め。
追記)
本誌2020年7月より連載の『西村朗 考・覚書』は2024年7月に完了、前年急逝の西村氏の一周忌に供え同年9月に『西村朗しるべせよ: 始原の声、大悲の淵』として春秋社より上梓したことをご報告させていただく。
(2025/1/15)
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<Player>
Shiniti Uéno & Phonix Réflexion
<Program>
All Akira NIshimura Program
Kecak : for six percussionists (1979)
Pundarika : for percussion solo (2009)
Matra : for solo marimba, solo timpani and five percussionists (1985)
Yantra : for percussion ensemble (2002)
Kitora : for eight marimbas (2019)