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12月の3公演短評|齋藤俊夫

12月の3公演短評

Reviewed by 齋藤俊夫(Toshio Saito)

♪東京現音計画#22~コンポーザーズセレクション8:木下正道 密やかさの探究~無音よりさらに深い静けさへ向けて~
♪山澤慧チェロリサイタル マインドツリー vol.10 バッハツィクルス5
♪芥川也寸志メモリアル オーケストラ・ニッポニカ 第45回演奏会 賛否両論?!プリングスハイムのオケコン

♪東京現音計画#22~コンポーザーズセレクション8:木下正道
 密やかさの探究~無音よりさらに深い静けさへ向けて~→曲目・演奏

2024年12月5日 杉並公会堂小ホール

筆者にとって最も恐ろしいのは睡眠障害気味で眠れない夜に聞こえてくる耳鳴りの音、さらにその時聞こえてくる自分の息と心臓の鼓動の音だ。筆者にとって最も心安まるのは田舎の実家の午後2時から4時頃、父も母も筆者もめいめいがウトウトと午睡に入ろうとしているときのあの静かな空気だ。筆者にとって最も五月蝿く野暮ったく嫌らしいのは東京で夕方5時きっかりに鳴らされる「夕焼け小焼け」の曲だ。
静寂と轟音とを司るどこぞの修験者のような作曲家・木下正道と東京現音計画が今回我々に聴かせた様々な「静けさ」は筆者が先に挙げた恐ろしい音と安らぎの空気の両方を含んでおり、その静けさの中に一瞬一瞬挿入される「音」は暴力性をはらんでいた。だが東京の夕焼け小焼けの嫌らしさは皆無。恐ろしいのと安らぎと暴力、その不安定な針の頭でバランスを取り続けることは作曲者にも演奏者にも、そしてもちろん我々聴衆にも非常な精神力を要求する仕事だ。それでも、喩えようもなく恐ろしく、喩えようもなく安らぐ静けさを「聴く」ということ、それが夕焼け小焼けのような「オンガク」に囲まれた生活を営む我々現代人にはなんと贅沢な体験であったことか。企画・作曲・演奏者たちに感謝を述べたい。

♪山澤慧チェロリサイタル マインドツリー vol.10 バッハツィクルス5→曲目・演奏

2024年12月7日 トーキョーコンサーツ・ラボ

日本現代音楽界(という狭い世界)の台風の眼的存在たる梅本佑利の新作『Kyrie eleison, Christe eleison, Confiteor』を聴いて、これまでずっと彼の作品には「個人的な」拒絶感を抱いていたが、やっと梅本と自分がどのような世界にいて、どのように相対すれば良いかがわかった気がした。
結局は「オタク」という人種を巡る新旧世代の葛藤だったのだろう。
梅本が操る「萌え声」を、彼を称賛する人々(おそらく彼らは昔のオタクたちのことなど何も気にしないのだろう)はなんの抵抗もなく受け止めているが、それが筆者にはできなかった。それは筆者のような、かつてオタクが排斥されて肩を狭めて生きざるを得ない(筆者の大学の友人は学生食堂がキラキラし過ぎていてそこでは飯が食えないなどと言っていた。筆者は構わずにカレーうどんなど食っていたが)時代を生きてきた世代の、そのオタクとしての多分に「性的な羞恥心」ゆえである。「まどマギ」の脚本家、虚淵玄など、今でこそ一流(オタク)クリエイターの座にいるが、以前はマニアックな「エロゲー」のシナリオライターであったのだから。
また、梅本の「萌え声」の操作なども、今は既に音楽趣味の1ジャンルとして定着したボーカロイドが登場(初音ミクは2007年発売)してまもなく、ちょうど筆者がボーカロイド音楽についての評論で柴田南雄音楽評論賞をいただいた2010年頃の先鋭的なボーカロイドシーンで現れた作品群と比べると、さほど独創的なものとは思えなかった。当時のことをわかる人にしかわからないかもしれないが、暴走PやささくれPや盛るPやヒッキーPらの作品と比して梅本がどれだけ先に行っているかと言えば、筆者は前者に軍配を上げていた。だが、梅本の生年は2002年。ボーカロイドの歴史など「知らなくても困らない」世代だ。
オタクを選択肢として選ぶか選ばないか自由に生きられる梅本世代と、オタクとして「生きざるを得なかった」筆者世代との業の違いが筆者が梅本を遠ざけていた原因であろう。
しかし、今回の梅本作品で、やっと梅本が筆者の耳を追い越した、そう思えた。「キリエエレイソン」が「キリエエエエエエエエエイソン」「キリエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエ⋯⋯」と暴力的に拡大され多重化され細切れにされていくのを山澤が必死に追いかけるように遮二無二チェロを擦り続けるその姿に梅本の残酷性が見えた。その残酷性は今まで非オタク人を惹きつけ、筆者のような古いオタクに避けられていた梅本の媚び、科(しな)とは反対のものだ。今までにもその萌芽はあったのかもしれないが、そこは筆者にはわからない。それでも、やっと自分が梅本とのお互いの位置関係を見出した、そう感じられた。

♪芥川也寸志メモリアル オーケストラ・ニッポニカ 第45回演奏会
 賛否両論?!プリングスハイムのオケコン→曲目・演奏

2024年12月22日 紀尾井ホール

西洋文化文明が世界唯一の普遍的なものと見なされていた時代には、音楽”Music”は決して複数形の”Musics”になることはなかった。世界の全ての音楽を積分すれば世界唯一の普遍的な”Music”になるのだから、世界諸文化、諸時代の音楽がそれぞれ独立した”Musics”として現れることはない、そう思われていた時代があった。だが、民族音楽、音楽人類学の研究発展の後、今では諸文化、諸時代の音楽はそれぞれ独立した”a Music”であり、それらを指す言葉は複数形の”Musics”となる。
プリングスハイムの『管弦楽のための協奏曲』についての言葉(プログラム参照)として「一つの『現代的』な、しかも近代を包括した、時代を代表した様式、時代の異種的様式要素を総合的に包括し、一つに融合して新しい一つの様式の統一を来すようなものを創造すべきであります」とあるが、ここに表れた”Music”は複数形なき単数形としての”Music”であろう。
プリングスハイムのオケコンは、筆者の耳には確かに五音音階だが日本の伝統的な五音音階とは異なる音階を西洋的な和声進行でまとめたように聴こえ、それだけで日本人として強い違和感を覚えたが、また同時に問題となるのは作品中にラヴェル、R.シュトラウス、マーラー、ヴァイル、それにバッハを本歌にしたと明らかにわかる変奏が多々聴こえてきたことである。本作品が浮き彫りにした複数形なき単数形としての”Music”理念の袋小路は異文化への植民地主義と同様に自文化の歴史への植民地主義もが出現してしまうことであり、そこに本作の「西洋普遍理念」の時代的蹉跌が表れていると筆者には考えられた。
ただ、上記のことを別にして、本作品をある種のパロディ、パスティーシュとして捉えたときに独特の面白さが感じられるであろうことも注記しておきたい。

(2025/1/15)

東京現音計画#22~コンポーザーズセレクション8:木下正道
 密やかさの探究~無音よりさらに深い静けさへ向けて~
<演奏>
プログラム監修:木下正道
出演:東京現音計画
Electronics:有馬純寿、Sax: 大石将紀、Perc: 神田佳子
Pf: 黒田亜樹、Tuba: 橋本晋哉
客演:Guitar:杉本拓
<曲目>
木下正道:『ただひとつの水、ただひとつの炎、ただひとつの砂漠IV』
Sax, Perc
ルイジ・ノーノ:『ドナウのための後前奏曲』
Tuba, Electronics
ジョン・ゾーン:『ダーク・リバー』
Perc, Electronics
大友良英:『Cathode 2024』
Sax, Tuba, Pf, Perc, Electronics
杉本拓:『ノー・タイトル・フォーエヴァー』
Sax, Tuba, Pf, Gutar, Perc, Electronics
佐原洸:『蘇芳香』
Br.Sax, Tuba, Electronics
木下正道:『静謐この上なき晴朗さII』
Sax, Tuba, Pf, Perc, Electronics

♪山澤慧チェロリサイタル マインドツリー vol.10 バッハツィクルス5
<演奏>
チェロ:山澤慧
<曲目>
渡邊陸:『エクロージョンI』
望月京:『プレ・エコー  ―J.S.バッハ作曲無伴奏チェロ組曲第5番のための前奏曲―』
J.S.バッハ:無伴奏チェロ組曲第5番ハ短調BWV1011
高橋宏治:『踊りたい気分』
D.ガブリエリ:『リチェルカーレ第5番』
梅本佑利:Kyrie eleison,Christe eleison, Confiteor
佐藤伸輝:チェロとエレクトロニクスのための『発声練習』
酒井健治:『レミニサンス/ポリモノフォニー』

♪芥川也寸志メモリアル オーケストラ・ニッポニカ 第45回演奏会
 賛否両論?!プリングスハイムのオケコン
<演奏>
指揮:野平一郎
ゲスト・コンサートマスター:長原幸太
オーケストラ・ニッポニカ
<曲目>
Z.コダーイ:管弦楽のための協奏曲(1940)
大栗裕:管弦楽のための協奏曲(1970)
三善晃:管弦楽のための協奏曲(1964)
K.プリングスハイム:管弦楽のための協奏曲ハ長調作品32(1935)