バイエルン放送交響楽団 2024年 日本公演|藤原聡
バイエルン放送交響楽団 2024年 日本公演
Symphonieorchester des Bayerischen Rundfunks Japan Tour 2024
2024年11月27日 サントリーホール
2024/11/27 Suntory Hall
Reviewed by 藤原聡(Satoshi Fujiwara)
Photos by 池上直哉/写真提供:ジャパン・アーツ
〈プログラム〉 →foreign language
リゲティ:アトモスフェール
ワーグナー:歌劇『ローエングリン』第1幕への前奏曲
ウェーベルン:6つの小品 Op.6
ワーグナー:楽劇『トリスタンとイゾルデ』より 前奏曲と愛の死
ブルックナー:交響曲第9番 ニ短調(コールス校訂版)
〈演奏〉
バイエルン放送交響楽団
指揮:サー・サイモン・ラトル
サー・サイモン・ラトルが2023/2024年から首席指揮者に就任したバイエルン放送響(以下BRSO)と来日した。もちろんラトルは過去さまざまなオーケストラとわが国を訪れているが、BRSOとは今回が初である。このオケの自主レーベルから発売されている録音を聴くに、ラトルの牽引とオケの自発性に任せる部分のバランスが絶妙であり、指揮者の個性とオケの持ち味が二つながらに生かされている印象。その意味では、この指揮者とベルリン・フィルという強烈に表現意欲の高いオケとの関係において常に発生していた指揮者とオケの「エゴのぶつかり合い」―それは手放しで称賛というわけにも行かない演奏となる場合もあった―という方向性ではなく、よりナチュラルな音楽が展開されているようだ。その辺りを実演で見定めたい。
まず1曲目はいきなりリゲティのアトモスフェール(指揮台のスコアの大きさにたまげるが、ミクロポリフォニーゆえこうなる)。海外オケの来日公演では有名名曲がプログラムに乗りがちな中この選曲にはさすがラトル、と唸る他ないが、また演奏の緻密度が抜群だ。最初こそアインザッツのわずかな乱れが聴き取れたものの、BRSO特有の倍音成分の豊かでシルキーな弦楽テクスチュアの美しさといったらない。中間部のピッコロの耳をつんざく最高音からいきなり奈落の底に叩き落とされるかのようなコントラバスの最低音トレモロに至る箇所ですら衝撃性がなくまろやかなのだ。ここに至ってアトモスフェールは現代の古典作品となった印象を持ったが、それはこのように緻密で完成された演奏を聴いたからこそ抱いたものとも言える。軋みが軋みとして聴こえずに危うさがなく円満なものとして提示されており、その意味で安心して聴けたのだが、より鬼気迫る表現を聴きたかった思いもある。非常に贅沢な不満であることは承知しているが。ちなみに、情報としては知っていたが楽曲の最後近くの「ピアノの弦をこする」奏法をこの目で実際に確認できたのは非常に興味深かった(蓋を取り外したピアノの弦を最初1人の奏者が、途中からまた1人が加わってブラシでグリッサンドのように往復させてこすっていた)。
指揮者はアトモスフェールのあと、全く間を置かずに『ローエングリン』第1幕への前奏曲の冒頭和音を開始、これには理屈抜き、不意打ち的に感動するしかなかったが、演奏も実に素晴らしい。リゲティの箇所にも記したBRSO特有のやわらかで倍音成分を多く含み紗のかかったような音色は既にしてこの作品の超越性を表している。和声感の絶妙さ、これに伴うオケの一体感により聴き手は四方から包みこまれるような感覚を味わう。中間部の高揚は音量を抑えめにして(シンバルですら目立たず溶け合って調和している!)透明性を嫌が上にも際立たせ聴き手に静謐さと神秘性を感知させるが、これは歌劇の結末をも予見させるようなあえかな悲劇性とはかなさをも内包する。凡庸な高揚とは一線を画したこの表現にラトルとBRSOの凄さを実感させられた思い。ここで一旦インターバル、拍手。
次のウェーベルンでもラトルとBRSOは無双。一体にウェーベルンの楽曲ではダイナミクスの短いスパンでの交代が頻出、音色の変化による楽想の対比の効果も最大化せねばならない。この点で本演奏は全く理想的なものだ。特に第4曲の終結部におけるトロンボーンと打楽器の絶叫のインパクト。第2曲の繊細極まる声部間の受け渡しも忘れられまい。緻密であればあるほど良い―ということは必ずしも緻密でなくとも名演奏が生まれる作品があるということも示唆しているが―この作品の1つの理想郷。
そしてまたウェーベルンから繋げてのワーグナー『トリスタンとイゾルデ』。ここでも『ローエングリン』で述べたことが概ね当てはまる。「愛の死」において繰り返される弦のターン音型、その背後でそれを支えるトロンボーンの柔らかい音色。このような調和感覚はそう聴ける類のものではない。
前半の4曲、アトモスフェール/『ローエングリン』のペア、そしてウェーベルン/『トリスタンとイゾルデ』のペア。アトモスフェールのトーンクラスターの源流に弦楽8声分割の『ローエングリン』。ウェーベルン作品の作曲動機たる母の死に対比される『トリスタンとイゾルデ』の死。ラトルのプログラミング意図の推測、当たらずとも遠からず? ともあれ前半で既にラトルとBRSOの実力を堪能、まだ後半が控えているとは。
いわゆるSPCM補筆完成版での4楽章版の録音をベルリン・フィルと2回行っているラトルだが、今回はそのSPCM版の校訂者の1人、ベンヤミン=グンナー・コールス校訂の3楽章版を用いてのブルックナー:交響曲第9番(かつてのベルリン・フィルとの来日公演でも演奏している)。ラトルの演奏であるからにはいわゆる枯淡の趣きやら超俗性などの、あいまいに「精神性」などと呼ばれるものには背を向け、非常にエッジを効かせた機能性抜群の演奏が展開された。しかしそこはBRSO、過度に刺激的にならない。深々とした柔らかい響きそのものにまずは打たれるが、ラトルは要所でテンポを細かく変動させ、あるいは濃密なクレッシェンドを仕掛けたりとその表現は実に意欲的だ。この演奏でもっともラトルの良さが生かされたのはスケルツォではなかったか。このような演奏で聴くとその現代的な和声やリズムが非常に際立ち、ロマン派の枠をはみ出て現代音楽にすら近接するこの作品の特異性が前面に出てまことに面白い。終楽章でのワーグナーチューバやホルンなどの金管群の演奏もほぼノーミス、まったく完璧だ。正直に告白するならば、筆者は来日公演におけるヴァントと北ドイツ放送響(現・NDRエルプ・フィル)のまさに彼岸に到達せんとするかのような祈りと平安に満ちた演奏が未だに忘れがたいのだが、では今現在あのようなブルックナーを演奏できる指揮者がいるのか、と問われればそれは難しいだろうし、どうあれこの日に接したラトルとBRSOの演奏は個人的な好悪を超えた現代最高の演奏と断言するしかない。
ブルックナーを聴き終えての全体のプログラミング俯瞰。アトモスフェールの弦楽器のトーンクラスターとブルックナー冒頭のトレモロ(さらに遡ればベートーヴェンの第9だ)およびアダージョの繋がり。『トリスタンとイゾルデ』愛の死における執拗なターン音型のブルックナー第3楽章への継承〜発展。先述したブルックナーの和声的な斬新さ→ウェーベルンら新ウィーン楽派の予感。前半4曲中の2曲/2曲ペアでの連関にブルックナーを加えて考察するとこの辺りも浮き彫りになるが、しかしなんと考え抜かれていることか。演奏ともども改めてラトルに感嘆する。
1回の実演だけで言い切るのも早計な気はするが、ラトルはベルリン・フィルよりもBRSOとの方が相性が良いのではないか。筆者はラトルとベルリン・フィルおよび他のオケとの実演、およびラトル以外の指揮者とBRSOの過去の来日公演にも複数回接しているが、限られたその体験の中で申し上げれば、ラトルとしてもBRSOとしてもこの日の演奏が最高であった。さて、このコンビの次の来日はいつ?
(2024/12/15)
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〈Program〉
G.Ligeti:Atmosphères
R.Wagner:“ Lohengrin”Prelude to Act1
A.Webern:Six Pieces for Orchestra Op.6
R.wagner:“Tristan and Isolde”prelude and Isoldes Liebestod
A.Bruckner:Symphony No.9 in D minor(Cohrs critical edition)
〈Player〉
Symphonieorchester des Bayerischen Rundfunks
Sir Simon Rattle,Chefdirigent