オーケストラ・アンサンブル金沢 第487回定期公演 マイスター・シリーズ|齋藤俊夫
オーケストラ・アンサンブル金沢 第487回定期公演 マイスター・シリーズ
Orchestra Ensemble Kanazawa the 487th Subscription Concert / Meister-Series
2024年11月9日 石川県立音楽堂 コンサートホール
2024/11/9 Ishikawa Ongakudo Concert Hall
Reviewed by 齋藤俊夫(Toshio Saito)
写真提供:石川県立音楽堂
<演奏> →foreign language
オーケストラ・アンサンブル金沢
指揮:井上道義
ソプラノ:ナデージダ・パヴロヴァ
バス:アレクセイ・ティホミーロフ
コンサートマスター:アビゲイル・ヤング
<曲目>
西村朗:『鳥のヘテロフォニー』(1993年OEK委嘱作品)
ショスタコーヴィチ交響曲第14番 Op.135
第1楽章:深き淵より
第2楽章:マラゲーニャ
第3楽章:ローレライ
第4楽章:自殺者
第5楽章:覚悟して
第6楽章:マダム、御覧なさい!
第7楽章:ラ・サンテ監獄にて
第8楽章:コンスタンチノープルなるサルタンへのザポロージエ・コサックたちの回答
第9楽章:ああ デーリヴィクよ デーリヴィク!
第10楽章:詩人の死
第11楽章:結び
(アンコール)
武満徹:『3つの映画音楽』より「ワルツ―『他人の顔』より」
西村朗『鳥のヘテロフォニー』、これは全てがクレッシェンドで上昇していく音楽なのだな、と理解した。冒頭の全奏スタッカートからフワアアッとグリッサンドが膨らんでいくクレッシェンドに始まり、幾度も幾度もクレッシェンドとsubito p が繰り返されていく音楽的脈動は心臓の脈動にも似たものを感じさせる。序盤の静けさから激動の頂点に至ってまた静けさが支配する中、ステージ左右に置かれたヴィブラフォン2台が弓奏で呼び交わし、そこからまたクレッシェンドが再開される。弦楽器がリズミカルに踊り、フルートと打楽器も加わって、さらに金管が吠えて南アジア民俗音楽的群舞が繰り広げられる。軽快にステップを踏んで上半身も盛んに動かしての井上の指揮ぶりもまた民俗舞踊的だ。全楽器が轟いての怒涛のクレッシェンドがまたしても頂点に達し、了。井上はあまりの運動量の多さが腰にきたようなパフォーマンスをする。かつてこの作品を井上指揮・オーケストラ・アンサンブル金沢で初演した時、存命中の西村朗が「なんでこんな曲をやるんだ?」と言いながら踊りつつ台上に上がったという思い出話などしながら舞台袖へ。
西洋の観念論で失われた生の官能の悦びを歌い上げる西村朗作品の後でショスタコーヴィチ交響曲第14番(通称『死者の歌』)を奏でるのはその芸術の表現する生のベクトルにおいて正反対で落差がありすぎるのではないか?といぶかしみつつ後半に臨んだ。
『死者の歌』第1楽章『深き淵より』、荘重なバスの歌声と、深く死の色を帯びた弦楽器の静かな調べに息を呑む、というか息ができない。
第2楽章『マラゲーニャ』、全然目出度くないのに目出度い音楽というショスタコーヴィチ的アイロニーに慄然とする。カスタネットの音で死ぬまで踊り狂わせられるようだ。
第3楽章『ローレライ』、ソプラノとバス2人の高速早口大声歌唱の凄まじいパワーにやられる。オーケストラも弦楽器と打楽器だけとは思えないほどの重みとキレの良さの両立。ローレライの死が知らされる鐘の音の無情さよ。
第4楽章『自殺者』、チェロの独奏からソプラノが切々と歌い上げるその歌の孤独さと美しさ。なんとむごく悲しい音楽か。「一本目[のゆり]は私の傷から生えている」「二本目は蛆のわく臥所で喘ぐ私の心臓から生え」「三本目は根を張り拡げて私の口を引き裂く」の歌詞の「一本目」「二本目」「三本目」で絶叫するように歌うソプラノ。そこから静まって弱音でやはり孤独に美しく歌うソプラノにコントラバスが寄り添う。それでも人は生きていても独り、死ぬ時も独り、死んだ後もきっと独り。
第5楽章『覚悟して』、ショスタコーヴィチ得意のシロフォンとトムトムの調べがなんと危険な!「近親相姦と死の中で 私は美しくなりたい」などという歌詞なのだから危険で当然だが⋯⋯。あまりにも救いがないというか⋯⋯こんな歌詞でこんな陽気な打楽器は⋯⋯。
第6楽章『マダム、ご覧なさい!』、ソプラノの「ハ・ハ・ハ・ハ!」という笑い声は完全に狂っている。かつみだらに、さらには妖艶に。ここでもシロフォンの乾いた音が怖い。
第7楽章『ラ・サンテ監獄にて』、なんというバスの歌声の筋力! 誇り、自負といったものを感じさせる。だが最後には寂しく、神にも見放され、そこにいるのは自分独りだけ。
第8楽章『コンスタンチノープルなるサルタンへのザポロージェ・コサックたちの回答』、弦楽もバスも重厚かつ荒くれ過ぎる。ストロングスタイル。酷く攻撃的でもしかすると下品な言葉の連なりなのかもしれないが、音楽の求心力に引き込まれる。
第9楽章『ああ デーリヴィクよ デーリヴィク!』、第8楽章から一転してバスが優しく柔らかく。しかし権力への怒りをこめて、芸術と美を気高く歌い上げる。そこに背景の弦楽オケが影を落とす。
第10楽章『詩人の死』、第1楽章の冒頭と同じ弦楽の旋律に合わせて、感情があるのかないのかわからないソプラノの歌声が無常感を湛えて響く。全てが死、虚無に侵されて消えていく。ショスタコーヴィチ晩年の境地か。
第11楽章『結び』、誰もかも、何もかも死ぬ!「死は全能なり」という歌詞のなんという残酷な真実!
この残酷極まりない音楽美のなんたる蠱惑的なことか! だがショスタコーヴィチ=井上の音楽は死を赦し、安楽として捉える態度とは正反対であり、そのような美的安楽としての死に対して、死は死以外の何物でもないと喝破することによる死とその赦しへの反抗・反逆から、自らの生を逆説的に肯定しようとする態度、そこに井上が自らの指揮者人生の終幕近くにこの曲を選んだ彼の芸術家としての思想がうかがえる。それは三島由紀夫『金閣寺』で死の美的象徴たる金閣寺が主人公に強迫的に襲いかかり、その金閣寺を燃やす=死なせることで初めて「生きよう」と言わしめたことと相似する。金閣寺を燃やすがごとく、音楽によって死をありのままに現出することで死への反抗・反逆から生の肯定へといたるこのプロセスは、人間と死を嘲笑う悪鬼妖魔の類いの歌のような、もしくは死という不可避にして誰にも不可視の深淵を覗き込むような美的・存在的体験となる。恐ろしい。美しい。恐ろしい。
前半の生の悦びに満ちた西村朗の音楽から、死そのものの音楽たるショスタコーヴィチへと至る今回のプログラム、それは生から死へという人生を模したものであり、また死を眼前にして生をどのように肯定するかという思想を体現したものであり、それは音楽の力がない限り不可能なものだろう。
ショスタコーヴィチで体全体を鞭のようにしならせての全力の指揮の後、アンコールの武満徹『3つの映画音楽からワルツ―『他人の顔』より』ではもうフラフラになって指揮をする井上。だが演奏会を見事に終演させてのその姿にブラボーとスタンディングオベーションの嵐。いくら舞台袖に引っ込んでも聴衆の拍手鳴り止まず、最後にはクルクルと身体を回転させて引っ込むというオチをつけてやっと聴衆も満足。ありがとう、マエストロ。本当に、ありがとう。
(2024/12/15)
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<Players>
Orchestra Ensemble Kanazawa
Conductor: Michiyoshi Inoue
Soprano: Nadezhda Pavlova
Bass: Alexey Tikhomirov
Concertmaster: Abigail Young
<Pieces>
Akira Nishimura: Birds Heterophony (Commissioned by OEK, 1993)
Dmitriyevich Shostakovich: Symphony No.14 Op.135
De Profundis
Malagueña
Lorelei
The Suicide
On Watch
Madam, look!
At the Sante Jail
The Zaporozhian Cossack’s Answer to the Sultan of Constantinople
O Delvig, Delvig
The Poet’s Death
Conclusion
(Encore)
Toru Takemitsu: Waltz- from “Face of Another”(from Three Film Scores)