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特別寄稿|ウィーン感傷記(2)シュテファン大聖堂|丘山万里子 

(2) シュテファン大聖堂 

Text & Photos by 丘山万里子(Mariko Okayama) 

37年前のシュテファン大聖堂記によれば。

雪の聖堂の前に立った時は、ああ、と全身で言うより他なかった。一緒に見上げた子供が、火事で焼けちゃったの?と思わず聞いたほど、全体が黒くすすけて、長い長い時の流れを、本当に歴史というものの重さを、語りかけてくる。1263年から1511年まで、ほぼ250年がかりで建てられるうちに、最初の後期ロマネスクからゴシック様式ヘと、そのスタイルも変化した。しかも、高さ137メートルほどの南塔に対し、北塔は未完のまま終わっているのである。気の遠くなるような作業ではないか。――真っ直ぐに天へとかけ昇る屹立したその姿は、その天へ、つまり神への、限りない憧憬に身を固くするヨーロッパの精神そのものなのだろう。いや、そんなふうに簡単にいうことは許されまい。聖堂の中に足を踏み入れて、祈りに訪れた人々のともすいくつもの小さなローソクの炎がゆれるのを見た時、そして、右手の壁にかかるマリア・ペッチの奇蹟画の前に、静かに座り続ける幾人もの人々の姿を認めたとき、私はズカズカと入り込み、あちこちを眺め回してはあれこれの感想をもらす観光客の、自分もまた一人であることに身が縮んだ。信仰の場、その第一義的な尊厳に、面を打たれる痛みがあった。」

これを書いた頃、まだ筆者はスペインのガウディのスケッチによる「サグラダ・ファミリア」を知らない。完成まで300年以上を要すると言われたこの聖堂は、近年の驚異的な工期短縮により2026年には完了と言う。西欧世界が聖堂建築に託す情熱と思いは、今なお変わらない。
ウィーン暮らしの頃は車であちこち旅し、教会・聖堂を見て回ったが、最も印象的だったのは青の聖堂と呼ばれるシャルトル大聖堂。もちろん、堂内の薔薇窓、ステンドグラスのシャルトルブルーに染まっていると海に漂うようだったけれど、一面のひまわり畑に伸びる道の果てにくっきりとその繊細な尖塔が見え、一歩入ってのこれまた一面のブルーは、これがフランスだ!と思ったものだ。
「美」はそんなふうに訪れる。
もう一つ、忘れ難いのはアッシジ。オリーブの葉裏が銀色に輝く丘の上、サン・フランチェスコ聖堂の、とりわけフランチェスコの生涯を描いたジョットの連作28枚の不可思議な浮遊感。遠近法以前の画家の、ピカソらに通じる眼と筆にどれほど驚いたか。ジョットはパドヴァのスクロヴェーニ礼拝堂の『ユダの接吻』があまりに有名だが、筆者は何より天蓋の蒼と星々の瞬きに心惹かれ、これがイタリアだ!と思ったものだ。

『アダムの創造』

もちろん、ヴェネチアのサン・マルコ大聖堂も水浸しの広場に並べられた木の机みたいなのの上を渡って入ったこと、バチカンのサンピエトロ寺院システィーナ礼拝堂のミケランジェロのフレスコ画『アダムの創造』(筆者には『ET』に見える)など、思い返せばキリがない。
イタリアにゆけば、ギリシャを想い、ギリシャへゆけばイスタンブールのモスクを想い、そういえばガウディの初期はアラビア風、と、西欧のなんたるかが、少しずつ感触されるようになり、「これが何々だ!」みたいな枠組みが緩やかに溶け出し、キリスト教圏の背後に広がる壮大なユーラシアという大地が筆者の中に拡がっていったのだった。それは明らかに、キリスト教からユダヤ教へ(ホロコーストも含む)眼がゆかざるを得なかったこと、そうして、イスラエルへゆけばエジプトが必須となり、と気持ちが膨らんでゆく。東・西・南アジア世界の旅にあって必ず訪れた各地の聖堂・仏堂・仏塔・古跡から、改めて人類の「祈り」の姿形へと想いが及ぶようになったものの、その意味はなお筆者に遠い。

「塔の尖端へは、人がやっとすれ違えるほどの狭く暗い石段を、ひたすら昇る。右手をコンパスのようにしてぐるぐると円を描いて昇ってゆく。目が回る。時折、明かり取りに開けられた小さな窓から、黄色と黒――緑かもしれない――の、ハッとするほど色鮮やかで現代的ですらあるモザイク模様の屋根がのぞく。息が切れる。降りる人も、昇る人も、みなハアハアと肩で息をしている。そうして、やっとの思いでたどりついた頂上からは、ウィーンが一望に見渡せるのである。雪に埋もれて、白く輝くウィーン。」
今回、筆者は北塔のエレベーターで上がった。エレベーターおじさんは私を含め4人ほどの乗客を箱に押し込めるとガッチャンとドアを閉め、ガタガタとそれは上昇した。
さしたる風もない穏やかな秋空のもと、ぐるり見晴しスペースを歩きつつ、ああ、大観覧車、ウィーンの森、カーレンベルクの丘があそこか、あの麓あたりに住んだんだっけ?あの時は …、みたいな感慨、に耽るほどのこともなく、あっさりと地上に戻ったのであった。つまり、人は苦労しないと物事を深く感じ取れない典型。
ただ、モザイクの美しさは変わらずで、そこにイスタンブールでのモザイク美をはっきり意識したことは確か。もう一つ、シュテファンがウィーンの魂と呼ばれるように、市内を囲む形のリンクを含めそこに見えるのはまさに「中心」をめぐるコンパス世界で、垂直螺旋。平地に広がるアジア的水平仏塔群との相違をも思う。

ルクソール神殿(エジプト)

「未来の建築は柔らかくて毛深いものになるだろう」
ガウディを語ったダリの言葉だが、読んだ当時、筆者にその深い意味はわからなかった。が、天へ天へと尖った指先を伸ばすヨーロッパの尖塔から、ガウディの柔らかく毛深い感触への変貌はグエル公園にも見えようし、ほぼ対極に近い コルビュジエのロンシャンの礼拝堂もまた胎内帰りに思える。
同時に、イスタンブールのモスク、エジプトのピラミッドや墳墓、オベリスクを経てアジア各地の仏跡を巡れば、私たちに親しい大乗仏教(原始仏教はバラモンとヒンドゥーの混交)より、ヒンドゥー教のケバい寺院と参詣する信仰篤き庶民の姿は現世御利益でいかにも素朴かつパワフル。血を流すキリストとはえらい違いなのである。
そういえばイスラエルの旅、ときに灼熱の太陽の下、照り返しに蒸れる東屋の一画で、人々は集い、礼拝し、歌っていた。最後の晩餐の広間では、黒人グループの深々とした歌声を聞いた。ローマ軍との闘いで全滅したマサダの要塞で礼拝をしていたグループは、ユダヤ教の人々だろう。祭司司祭に唱和する抑揚が、うねって砂漠の風にのってゆく。イエス生誕の地、ベツレヘムの生誕教会では日本からの巡礼一行が、生真面目な顔を寄せ合い、細い声で『きよしこの夜』を歌っていた。

サルナートのストゥーパ(インド)

そこに筆者は信仰と歌の姿を見たが、それはいつでも手を携え、人をつなぎ、また分つ。エルサレムの「嘆きの壁」はその象徴だが、アジア各地にそうした形跡を筆者はほぼ見なかった(が、経済や民族をめぐっての内戦は多い)。
中国、インド、カンボジア、タイ、ベトナム、韓国での遺跡や寺院群を巡りつつ考えたのはやはり、宗教(信仰)のなんたるか、だった。

タ・ブロム(カンボジア)

こう記しつつ、ふと思った。
筆者は長らく紀元前500年あたりのヘラクレイトス、ブッダ、老子らのいわば哲学・宗教の淵源者の同時出現を不思議に思っていたのだが、彼らの間になんらかの往来があったのではなく、おそらく眼前の「自然」から全てを学んだのではないかと。
人類の知恵とは周囲の環境世界からの学びに尽きるのではないか、と。
どこに、いつ、生まれようと、居ようと、自然から本質を学ぶ。
そこに共通の答えを見出すのはごく「自然」なことで、それこそが、私たち人間にできる最善なのかもしれない。

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(2024/12/15)