ピエール=ロラン・エマール ピアノ・リサイタル|藤原聡
ピエール=ロラン・エマール ピアノ・リサイタル
Pierre-Laurent Aimard Piano Recital
2023年12月1日 ヤマハホール
2023/12/1 Yamaha Hall
Reviewed by 藤原聡 (Satoshi Fujiwara)
Photos by Ayumi Kakamu/写真提供:ヤマハホール
シューベルト
12のワルツ Op.18,D145より 第1、2、4、5、6、8、9、10、11、12番
34の感傷的なワルツ Op.50,D779より 第23番
16のドイツ舞曲 Op.33,D783より 第2、3番
16のレントラー Op.67,D734より 第3、15番
17のレントラー Op.18,D145より 第2、4、5、6、7、8、9、12、16、17番
20のワルツ「最後のワルツ」 Op.127,D146より 第10、11、12、14、15、20番
12のドイツ舞曲 Op.171,D790より 第5、6、7、8、9番
36の独創的舞曲 Op.9,D365より 第2、3、5、21番
G.クルターグ
ピアノのための遊びより
J.S.バッハ
平均律クラヴィーア曲集 第1巻より
第2番 ハ短調 BWV847
第5番 ニ長調 BWV850
第6番 ニ短調 BWV851
第9番 ホ長調 BWV854
第17番 変イ長調 BWV862
第21番 変ロ長調 BWV866
フーガの技法 BWV1080より
コントラプンクトゥスⅫ
拡大及び反行形によるカノン
上の演奏曲目の記載の仕方からは書いてあるまま順番に弾いたように思われるかも知れないが、実際にはそうではない (え? まあ読み進めてみて下さい)。さらには、実際の演奏順番の詳細を記載すると余りに膨大になるため割愛させて頂く。
これは何ともエマールらしいプログラミングのリサイタル、と書きたいところだが、クルターグその人がECMレーベルにおいて夫人のマルタと共に『ピアノのための遊び』とバッハの作品を適宜織り交ぜた構成によるアルバムを録音しているし、かつこの日のヤマハホールで行われた同曲とシューベルトを交互に演奏するということはクルターグ自身の本意らしい。であれば、この作曲家に薫陶を受けたエマールはその意図を当夜忠実に実行に移しただけ、とも言えるが、それをかくも当たり前のように易々と(少なくとも聴衆からはそう見える)行える―または行おうとして本当に行う―ピアニストがエマール以外にいるのだろうか(いや、いまい)。
当初のリサイタル前半にシューベルト、後半にバッハとクルターグをそれぞれ交互に演奏するプログラミングは、当日プログラム冊子に挟み込んであった紙と会場アナウンスによって前半と後半を入れ替えると告げられる。理由は定かではないが、『フーガの技法』も含み厳粛な空気をまとうものになりそうな当初の後半ではなく、シューベルトでインティメイトに終えたいということなのか、と想像したり。
前半のバッハ&クルターグにおいてエマールはバッハでもペダルを積極的に用い、『フーガの技法』と言えども声部の切り分けを最優先にしているわけではなくモダンピアノの性能を十全に活かして豊かな響きを生み出していて、この辺りはピリオドやオーセンティシティとは明らかに距離をおいていた印象。クルターグでは「アンタル・ドーラの誕生日のために 2」でのペダルを踏み込んだままでの特異な響きや「アンドラーシュ・ミハーイの思い出に」における極めて印象的に奏でられる沈鬱な和音、あるいは「フェレンツ・ファルカシュ90歳へのオマージュ」のイノセントな単音などが特に記憶に残るものだったが、バッハも含めそれら個別の曲の演奏内容云々よりも、バッハとクルターグを隔てなく交互に演奏することで新たな文脈が設定されることによる聴き手に対するパフォーマティヴな効果こそがなんとも興味深く新鮮であった。演奏時間の上ではそれぞれ数分のバッハとクルターグだが、コズミックな前者と日常的な後者、しかし違和感なく繋がるこの不思議さ。
後半はバッハに代わってシューベルトとのサンドイッチプログラムだが、ここでエマールが取り上げたシューベルトは全て舞曲で、半ば「機会音楽」で単純である。それぞれは愉しく快活な楽曲たちなのだが、正直まとめて長時間たて続けに聴くようなものでもあるまい。しかしここにクルターグが挟み込まれることによってシューベルトを飽きることなく聴けるという効果が生まれる。そして、自身に近いところから作曲のモチベーションを生じさせるシューベルトとクルターグのこれらの作品の本質的な相似、だからこそクルターグはシューベルトと交互に演奏することを推奨したのではないか。先にこれらシューベルトの作品を「半ば機会音楽」と書いたが、このようにクルターグと混ぜこぜにされて連続して演奏されると、その音楽の表層的な相違を超越した本質的な類似性が顕れると同時に、その「作家性」とでも言うべき個性の発露すら雲散霧消する。さらに言うなら「作曲したのは誰かなどどうでもよくなる」。もとよりシューベルトもクルターグもそういう地平で書かれた音楽だったのでは、という思いを抱かせるのだ。エマールの演奏それ自体で言えば、シューベルトにおいては細やかなアゴーギクを自然に用いてシンプルな曲を巧みに聴かせており、クルターグでは超絶技巧を用いないだけに単音のニュアンスの魅力、説得力がものを言う「ズザナ・シロカイへのライン」や「アンタル・ドーラの誕生日のために 1」でエマール独特の張り詰めた美音を披露して耳をそばだてるしかない。
こういうコンセプチュアルなリサイタルは、普通に演奏される場合には思いもしなかった/気が付かなかったことが閃く。もちろんそれはエマールのような最高のナビゲーターあってこそ、だ。
(2024/1/15)