小人閑居為不善日記|剥ぎ取られた顔――《首》と《鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎》|noirse
剥ぎ取られた顔――《首》と《鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎》
Stripped Face
Text by noirse : Guest
※《首》、《鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎》、《狂骨の夢》の内容に触れています
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北野武6年振りの新作《首》は、信長、秀吉、光秀らによる荒木村重の「首」を巡る確執がやがて本能寺へ雪崩れ込んでいくもので、権力闘争を描いたヤクザ映画《アウトレイジ》(2010)シリーズの戦国バージョンと見る向きも多い。とはいえ戦国時代をパワーゲームとして捉えるのはよくある趣向で、《首》に独自要素があるとすれば衆道、つまり男同士の恋愛が持ち込まれた点だろう。
同性愛要素は、北野が得意とするジャンル、ヤクザ映画にも内在していた。《昭和残侠伝》(1965)シリーズの高倉健と池部良の関係からは、思わずただならぬ雰囲気を嗅ぎ取ってしまうものだった。
このような男社会のセクシュアリティにいち早くメスを入れたのが大島渚だ。《日本の夜と霧》(1960)や《絞死刑》(1968)など政治映画の傑作群を撮った大島が《戦場のメリークリスマス》(1983)や《御法度》(1999)で「BL」を扱ったというのは意外にも思える。しかし男同士の情愛が権力構造を揺るがしうるという点で、政治的な題材でもあったのだろう。そしてその両方の現場に、北野は役者として出演していた。
《首》は最後、北野演じる秀吉が光秀の首を蹴り飛ばし、「光秀が死んでさえいれば首なんてどうでもいい」と吐き捨てるシーンで終わる。これは首実検に象徴された暴力的な男社会の否定と取れる。《その男、凶暴につき》(1989)や《ソナチネ》(1993)と、組織や社会から逸脱していくアウトサイダーを共感を込めて描いてきた、北野らしい結末ではある。
またこれも多々指摘されているが、信長の光秀や村重への苛烈な暴力とそれとは裏腹の愛情は、芸能界、特に北野も属するお笑い芸人を取り巻く体質と重なる。後輩芸人をイジりながら可愛がるホモソーシャルなノリは、容易にパワハラへと繋がっていく。
身内の閉鎖的なノリを「おもしろいもの」として全国へと発信していった80年代の笑いの中心には、ビートたけしの《オレたちひょうきん族》や《天才・たけしの元気が出るテレビ!!》があった。後輩芸人から「殿」と呼ばれていた北野は秀吉そのものだ。そういう意味で《首》は自己批判ともなっており、ジャニーズ問題などが取り沙汰される現代らしい主題であると、一応は受け取ることができる。
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《鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎》に移りたい。おなじみ水木しげるの大ヒットシリーズの映画化だが、今回は鬼太郎が生まれる前の彼の父親を描いた、劇場オリジナル作品。1956年、財政界の大物・龍賀一族の当主の死が報じられる。仕事の一環として龍賀一族が暮らす哭倉村へ向かった血液銀行の社員・水木は不可解な連続殺人事件に遭遇、ゲゲ郎という男と出会い、陰陽師たちが操る妖怪「狂骨」との戦いに巻き込まれていく。
「もはや戦後ではない」と経済白書に記されたのが1956年。しかし哭倉村は前時代的な価値観のままで、女性や子供の人権は軽んじられている。陰陽師とは古代の官制で、大まかにいえば天皇の配下であり、龍賀家の長男の貴族めいた振る舞いも天皇の存在を匂わせる。つまり哭倉村は、天皇を頂点とした戦後日本の縮図であることが窺える。
ゲゲ郎は幽霊族の末裔で、いなくなった妻を探して哭倉村へ来たのだが、彼女は龍賀に囚われていた。狂骨の正体は虐げられた幽霊族の怨念の集合体だった。龍賀は幽霊族を監禁し、その血液を元にした薬品を闇で売りさばいてのし上がってきたのだ。狂骨は最後に龍賀の手から解放され、彼らへの復讐を果たす。このように《鬼太郎誕生》は、国家に抑圧された民衆の蜂起という図を描いている。
しかしこうした設定には違和感も覚える。水木が大戦中に激戦地のニューギニア戦線へ出征し、奇跡的に生還したことはよく知られている。一連の戦記ものや《悪魔くん》などを読むと権力や現代社会への疑義や皮肉も散見されるが、しかし水木は、戦争や国家、天皇制を名指しして弾劾するようなことはしなかった。
戦地で死線をさまよい、人間よりも妖怪を愛する水木は、評論家の呉智英いわく「朗らかなニヒリスト」で、俗世間を超越しており、自らを苦しめた国家ですらこだわることはない。それを踏まえれば、《鬼太郎誕生》は、水木の思想から逸脱した内容となっている。
しかしこのようなことは制作側も十分把握しているはずで、あえてそのようにしていると考えたほうがいいだろう。その意図を導き出すために、狂骨について掘り下げてみたい。原作には狂骨と一騎打ちするエピソードはなく、もしかしたらこれは、水木の「弟子」京極夏彦の百鬼夜行シリーズ第三作《狂骨の夢》(1995)からの発案ではないだろうか。
狂骨は鳥山石燕の《今昔百鬼拾遺》が初出で、井戸に棲む強い恨みを持った白骨という、情報量が少なく、つかみどころのない妖怪だった。それを京極は――トリックに関わることなので気になる方は読み飛ばして頂きたい――「顔」を奪われた男たちと解釈する。
水木とゲゲ郎のコンビは好評で、一種のバディものとしてバズッている。しかしゲゲ郎は戦いの結果顔が爛れてしまい、最後は眼球のみとなって、ご存知「目玉のおやじ」と化していく。つまりゲゲ郎も「顔」を失った者なのだ。
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「首」を「顔」と言い換えてみよう。レヴィナスによれば、顔自体に文脈はない。人間には社会的地位だとか交友関係とか、あるいは家族関係など、必ず何らかの文脈があるが、顔にそう書き込まれているわけではない。かわりに顔に宿るのはその人そのものであるという事実で、顔を目の前にすれば、その人を殺すことはできない。顔にはそういった倫理性がある。
首から権力を透かし見ることしかできない信長たちには、そうした倫理性は欠如している。では首を足蹴にする秀吉にそれがあるかと言えば、やはりないだろう。秀吉は権力を巡るゲームをより効率化させたいだけで、首すら一瞥だにしない振る舞いには、倫理の介在する余地はない。
そう考えると、秀吉だけが武士社会の外側にいて、それを批判し得るというような描きかたには、都合のよさが拭えない。秀吉が権力者であるように、北野もまた芸能界に君臨する大物で、世界的に評価される映画監督でもある。結局北野は顔を「奪う」側であって、そこから逃げ出すことはけっしてできないはずなのだ。
一方幽霊族は「奪われる」側だ。しかしゲゲ郎は顔を奪われても鬼太郎の目玉となり、従順な彼を意のままに操る父として君臨する。おやじ自身は非力で、鬼太郎がいなくては何もできない、か弱い存在だ。しかしそれでもなお目玉のおやじは、権力をふるう「男」であることをやめようとはしない。
《首》も《鬼太郎誕生》も男性社会の加害性を告発しつつ、その権力を手放すことはない。《鬼太郎誕生》はよくできた作品だが、結局男性優位社会を批判できているかと言えば、《首》と同様、徹底できてはいないだろう。
《首》における男性社会の否定も、北野が《ソナチネ》や《HANA-BI》(1997)で男性的なロマンティシズムに酔いながら自死を美化してきたことを考えると、欺瞞的な自己否定という意味で終始一貫しているとも言える。
《首》は初期の北野映画と比べ演出や編集のキレが悪く、終始もたついているが、そのダブついた贅肉こそ、この作品を端的に物語ってもいる。《首》とは畢竟死に憧れ、男社会からの逸脱を謳う北野自身の首のことだ。だが本当に死ぬわけにはいかず、みっともない姿を晒している。
映画冒頭で斬首された死体の切断部分に喰らいつく蟹が表わすのは、首を切断されてなお男の身体は腐臭を放つということだ。生き続ける限りは腐臭を拭うことはできないし、死んでもそれは変わらない。《首》という映画のだらしなさは、そうした残酷な事実を突き付けてくる。
4
最後に水木の言葉で締めくくりたい。水木は、戦後数十年経って、ふたたびラバウルの地に降り立った時の心情をこう語っていたという。
「自分はあの戦争で生き残った。日本へ帰ってこられた。でも、戦友たちは食料も薬もなく、ここで死んでいった。そして、自分だけ、今では何でも食べられて生きている。そう思うとですなぁ……」
(中略)
「愉快になるんですよ」
(中略)
「ええ、あんた、愉快になるんですよ。生きとるんですよ、ええ。ラバウルに行ってみて、初めてわかりました」
(呉智英〈水木しげるの最高傑作は「水木しげる」である〉、《水木しげる80の秘密》所収)
普通こういう時に口に出るのは自責の念だろう。単純な生の肯定というには明け透け過ぎる。かといって開き直りでもなければ、ましてや冗談の類でもない。死んでいった戦友たちに申し訳なく思う以上に、生きていることの喜びを実感する。これは生きることの残酷さというもので、水木はそれすらも肯定しているのではないだろうか。
人間社会を終始シニカルに見つめ、妖怪の棲む彼岸に惹かれていた水木なのだから、《首》や《鬼太郎誕生》で問われた男性優位社会にも疑いのまなざしを向けるだろう。しかしそれをことさら告発しようとはしない。それは誰かの犠牲のもとで生きていることを水木は身をもって理解しているからだ。
腐臭を放つ社会から抜け出すことはできないが、水木のようにそれを笑い飛ばすことも、わたしのような凡人にはできはしない。自分自身から漂う腐臭に鼻を摘みながらみっともなく生きるくらいが関の山なのだろう。
(2023/12/15)
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noirse
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