カデンツァ|繰り返す憎悪の歴史にあって|丘山万里子
繰り返す憎悪の歴史にあって
Text by 丘山万里子(Mariko Okayama)
写真提供:中村治(Osamu Nakamura)
10月6日、アジアオーケストラウィーク2023でトルコのイスタンブール国立交響楽団を聴く。20年ぶりの来日だそうで、芥川也寸志『弦楽のための三楽章[トリプティーク]』、自国作品ウルヴィ・ジェマル・エルキン『ヴァイオリン協奏曲』、チャイコフスキー『交響曲第4番』を演奏した。
メンバーに女性が多いのには驚いたし、演奏も不思議な響きと搏動であったが、アンコール2曲目やはりエルキン作の舞踊組曲『コチェクチェ(Köçekçe)』での抜群の弾みと楽興を大いに楽しんだ。
イスタンブール、かつてのコンスタンティノープルのボスポラス海峡にかかるガラタ橋からはるかに望んだアジア、橋から釣り糸を垂れる男たち。日々、ミナレットから流れるアザーンと女性立ち入り禁止(外国女性OK)のモスク。ごちゃごちゃ賑やかなバザール。アラブ文化の美と豊穣...。
10月7日、ハマスがガザ地区から大規模なロケット攻撃でイスラエル奇襲のニュースが流れる。
私がイスラエルを旅したのははるか昔の2006年。エルサレム、嘆きの壁(ユダヤ)と黄金に輝く岩のドーム(イスラーム)の奇妙な混淆、分断壁を越えてのベツレヘムで見たパレスチナの人々(パレスチナ地区に居住するアラブ人の呼称)の突き刺すような、あるいは荒んだ若者たちの眼差し。イエス生誕教会の洞窟に嵌め込まれた銀の星を前に、毎年世界中に送られるローマ・カソリックのクリスマス・ミサを思った。
トルコのピアニスト、ファジル・サイがガザ市民を巻き込んだイスラエルの攻撃への非難と平和的解決を訴えるトルコのエルドアン大統領への支持をSNSで表明、10月中旬から開始の山田和樹率いるバーミンガム市交響楽団との協演(チューリッヒ、ベルン、ジュネーブ、ルツェルン)を降ろされたニュースが入る。
2006年の旅の折に書いたエッセイの一部を引く。
エルサレム。その混然・雑然を「ここは我がもの、我が地」と互いに言い合うこと。「地」の所有が、土地を耕す農耕文化のもたらした意識なら、定着を拒みさすらう遊牧民にとっての「地」は、本来、誰のものでもない、みんなのものだろう。彼らは、時々に必要なもののみを携えてオアシスの間を動く。
ユダの荒野で、ネゲブ砂漠で、砂地と岩山の合間にしがみつくように点在するアラブ人の部落やベドウィンのテントを何度も見た。
伝統的な黒ヤギ皮のテントで暮らすベドウィンたちの数は減りつつあり、今はトタンの小屋が多い。それでも、荒れ地のかなたに、ヤギの群れとそれを追う少年の姿を見かけたときは、一瞬、創世記の世界そのまま、と思った。砂漠に追われたアブラハムの息子の1人、イシュマエルがそこに立っているのでは、と。
彼のもとからはアラブ民族、イスラーム世界が形成され、もう1人の息子、イサクは神の生け贄という試練をへて、ユダヤ、キリスト教世界への道を開く。
女奴隷ハガルの生んだイシュマエルと妻サラの生んだイサクの間の葛藤は、すでに旧約世界に用意されたもの。あるいは、アダムとイヴの二人の息子、土を耕す兄カインは、羊飼いの弟アベルを殺したが、そのように、兄弟宗教間の争いと殺戮の歴史は根深い。丹誠込めた畑を荒らす羊への憎悪は、労働と収穫の相違を因としようが、とどのつまり「定着」と「流動」、あるいは「一」と「多」の根源的な相克ででもあるのだろうか・・・。
人間の営みにとって、それらはもともと、相互補完しあってこそのもののはずなのに。
旧約世界もまたユダヤの物語に過ぎず、それぞれの土地にはそれぞれの人々のそれぞれの物語があることを思う。
* * *
写真家中村治氏が2010年、TVのムービーカメラマンとしてエルサレム、ベツレヘムに入り、取材の傍ら撮影した写真を提供いただいた。連綿と繰りかえされる民族間の憎悪の歴史にあって、その一コマは、今、私たちに何を伝えようか。
中村氏よりうかがったエピソードを一つご紹介しておく。
イスラエル、パレスチナでの取材の最終日、エルサレム旧市街の裏通りの階段を登っていたら、痩せこけてヒョロヒョロと歩く猫を見かけ、カメラのレンズを向けました。
数十段上から階段を降りていた女性が近づいてきて「この猫は人間たちによってこんな姿にさせられてしまったの、可哀想な猫、人間はなんでこんなにも邪悪なの?それはどうして?」と突然問いかけてきました。
前日までベツレヘムで生活を制限されたパレスチナの人々を見てきたばかりだったので、頭にはその風景が浮かびました。
答えに窮して彼女に「あなたは人間は邪悪だと、お思いなのですか?」と聞き返すと、少し苛立つように「私はあなたに聞いているの」と強く私を見つめた後、去っていきました。
「人間はなんでこんなにも邪悪なの? それはどうして?」
私たちはこの問いに、どう答えられるだろう。
(2023/11/15)