評論|西村朗 考・覚書(33)室内オペラ『絵師』(2-1) 『絵師』ハンブルク公演|丘山万里子
西村朗 考・覚書(33)室内オペラ『絵師』(2-1) 『絵師』ハンブルク公演
Notes on Akira Nishimura(33) “ESHI”(2) (Der Maler) Kammeroper für Sopran, Kammerensemble, eine Tänzerin und drei Tänzer
*(2-1)ハンブルク公演(2-2)草津公演として分載
Text by 丘山万里子(Mariko Okayama)
西村の『絵師』の台本は非常にシンプルにまとめられ、西村が原作のどこに着目し、何を伝えようとしたかは明瞭だ。芥川の原作は、眼前での娘の断末魔をも顧みぬ良秀の絵の道という芸術至上主義であったが、素材となった『宇治拾遺物語』上の第三八《絵仏師良秀家ノ焼ヲ見て悦事》の内容はこうだ。
隣家から類焼の我が家、中に妻子がいるにもかかわらず一人逃げ出した良秀が、腕組みしつつ傍観、時々笑う様子に、どうかしたのかと人が尋ねると、「長いこと不動尊の火焔を下手に描いていたが、このように燃えるとわかった。画法を会得したからには、これから大儲けできる」と嘯(うそぶ)いたという1)。
ちなみにこの良秀の説話の前には鳥羽僧正の奇行が載っている(第三七)。日本最古の漫画『鳥獣人物戯画』を描いたとの説もある絵画に通じた高僧話のあとに、世俗の貧しい絵師良秀を置き、最後を「その後にや、良秀がよぢり不動とて、今に人々めであへり。」(当時の人々が良秀を称賛したということ)と結んでいる。そこに、この物語集の選者の鋭い時代センス、はたまた平安後期の市井の空気が読めるようではないか。芥川の芸術至上主義は、強者と弱者の構図の中に芸術の本然を見つつ、漢文化素養と西欧文化の波濤に向い立つ自身の背負う時代性ゆえ、とも言えよう。良秀を猿と呼ぶのもまた、そうした意味を継いでいるように思う。
一方、権力者たる大臣(大殿、西村は室町時代に設定、将軍としている)にフォーカスした三島由紀夫は、やはり「力」への欲望あるいは執着の御仁であったと見える。犠牲になるのを承知の娘と知らぬ父との別れの愁嘆場を設置、嫌が上でも御涙頂戴路線を敷く。が、いざ炎に巻かれる娘を見るに、「眼次第に爛々と、思はず知らずに手にとる絵筆、御体俄かに妖力溢れ、精魂籠めたる絵師が面目...」と、画魂を燃え立たせ、さらに「良秀はたと膝を打ち、」「地獄変の屏風の絵柄、隈なく心裡にえがかるれば、古今の名作疑ひなし。」2)なぞと良秀に言わせるのである。続く彼と大臣の問答は、焦熱地獄に誰がいるだの、炎の高さはどれくらいだのバッタバッタと畳み掛けるリズミックな掛け合いとなり、最後を大臣の呵呵大笑で締める。この筋書き、大戦前後の明暗に自己存立の美学の狼煙を上げずにいられなかった自画像のようだ、と筆者は思う。文楽で見たら大変な迫力であったろう(三島はまず歌舞伎戯曲を、のち文楽『地獄変』も書いた)。
さて、西村は?
まず筋書きだが、ざっとこうだ。
時は室町。権力を恣に良秀の娘を手籠にした将軍は、娘を返してほしいと嘆願する良秀に、その条件として地獄を描けと命ずる。承諾した彼は弟子たちを苛みその苦悶の様を描くが、どうしても描けないものとして天から炎に包まれ落ちてくる牛車(ぎっしゃ)の中の若く高貴な娘の焼かれる姿を見たいと将軍に請う。将軍は縛った娘を乗せた牛車を用意、火を放つところで気づいた良秀は「アアーッ!」と、叫び助けを乞う。が、将軍は、さっさと絵を描け、と高笑いするばかり。出来上がった屏風絵を見事と褒め上げる将軍に、最終シーンでの良秀の長いモノローグがくる。最後の言葉は将軍への捨て台詞、「あなたの地獄 その地獄の名は“虚無”!」。突然出てくるこの「虚無」とはなんであるか。
詳細は後述するが、西村はあくまで良秀を娘想いの父として描き、屏風完成のちの自死を「私も今よりこの絵の中に入っていこう」というセリフで表している。最終景での権力者への怨念に満ちたモノローグ部分は、地獄絵に託した彼のある種の復讐すら臭う。
オペラのタイトルが『絵師』であるのは、娘への愛を、絵師としての良秀の矜持のなかに描こうとしたことを伝える。かつ、何より重要なのは、このオペラにおいて初めて、彼は自らの芸術観と宗教観を言葉と音楽と行為という三業(身口意)のうちに吐露したということだ。オペラという空間でなければ造形構築しえない彼独自の世界観がそこに込められていた、とも言えよう。
先走るが、それが『紫苑物語』と真っ直ぐに繋がっていることは言うまでもない。
西村はこののち、室内オペラ『清姫〜水の鱗』(2012)、『バガヴァッド・ギーター(神の歌)』(2013)、『ふり返れば猫がいて』(2014)、『中也!』(2016)、オペラ『紫苑物語』(2019)、デュオ・オペラ『山猫飯店』(2022)の6作を書いているが、明らかに『絵師』と重なるのは『紫苑物語』だ。歌道(歌人)、武道(武人)、仏道(仏師)の三道を背景に、根底には宗教と芸術の問題をも抱えるこのオペラは、『絵師』の延長線上にあると言って良い。そうして、この宗教と芸術の狭間に宙吊りされる人間のありようこそが西村世界の両軸であり、ゆえ、やはり彼は原始から今日に至る普遍的な意味での宗教音楽家だったのだ、と筆者はここで確信するに至った。いや、そもそも、宗教と芸術、あるいは哲学が分岐する以前の人間が奏でる音楽をこそ探っている、と言ってしまいたい。それはヘテロフォニーとか、シンフォニストとか汎アジアといった西村像よりはるかに本質的なことではないか。
ともあれ、作品を見よう。
筆者はまず、ハンブルク公演(2002)のDVDを観た。その後、草津の能仕立てを観たわけだが、この相違の大きさは実に多くのことを示唆するものだった。それは後ほど。
初演はハノーヴァーでデータは以下(全音スコアより)。
ハンブルク公演はソプラノSARAH LEONARD, 指揮ROBERT HP PLATS, 振付HENRIETTA HORN, 演奏Ensemble für Neue Musik, 将軍Francesco Pedone, 絵師 Manuel Quero, 娘 Mu-Yi Kuo, 弟子のダンサー4人。絵師、娘それぞれの人形遣い2人に将軍は2人の人形遣い(1人は弟子の二役)がつき、総勢7人のダンスである。器楽奏者はフルート、クラリネット、ピアノ、打楽器、ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロの7人。
全8景で以下。
[Ⅰ]将軍 [Ⅱ]良秀の娘 [Ⅲ]将軍と良秀の娘 [Ⅳ]良秀と将軍 [Ⅴ]良秀とその弟子 [Ⅵ]将軍と良秀と娘 [Ⅶ]将軍と良秀 [Ⅷ]良秀
全てをソプラノが歌い語り、人形遣いが黒子役のような形でダンサーを補助する。文楽からの着想ということでそのようにしたのであろう。ただ、ダンスを伴うこうした影の設定は大方が説明過多に陥り、動きのシンクロで表現を増幅しすぎるきらいがあり、この上演もそうした感は否めない。ステージ脇にソプラノが立ち、ステージ上に7人の奏者が散在、その間を縫ってのダンスであれば、いささか頭数が多く、人形遣い(以下、影とする)がそこまで必要だったかどうか。しかも奏者が椅子を抱え、場面に応じ移動するので、よけい目まぐるしく感じる。ただ、器楽のみの時でもダンスや奏者の移動が行われるので、ステージは絶えず動きつつ音楽的一貫性を保ち、場としての密度の高さは維持されている。演奏そのものも非常に優れており、その緊張に満ちた上演に筆者は深い感銘を受けた。今後、日本での再演を積極的になすべき室内オペラの名作だと考える。
内容に入る。
西村は全8景に通しナンバーを記入しており、そのナンバーに従って内容を追ってゆく。この数字は「節」もしくは「段落」とでも考えれば良いか。同一節が前後の景にまたがっていることもある。
全体を見渡すと、最も長い[Ⅴ]良秀が弟子を苛む景にこのオペラの力点があると思われる。何より良秀が胸中を語る長いモノローグが肝で、これは最後の[Ⅷ]での良秀のモノローグに照応する。次いで長いのは[Ⅲ]、娘を手籠にするシーンだが、ここは将軍(影)、娘(影)、良秀(影)、と影全員がさまざまに入り乱れ、将軍に一人抵抗する娘が浮き彫りにされる。見どころ聴きどころの一つである。[Ⅵ]の炎上は、悶え死んだ娘を最後に抱きしめる良秀に、全編を貫く良秀の愛が強調される。終盤[Ⅶ][Ⅷ]のコンパクトさは最後のセリフに向けて緊張を高めるにふさわしい。
各景、スコアを追いつつ見てみよう。
[Ⅰ]将軍 (1~15節) 将軍のモノローグで、A,Bの2部と筆者は読む(以下同様)。
A:(1~3)
冒頭、大太鼓の一撃と鈴の一振り。一息おき、ppでpicc.ソロ。横笛的音色でつんざくような高音。次いでcl.、次いでvn. va. vc. が入り、pf.内部奏法(詳細な指示がある)でのsfff。ここまで11小節。
一呼吸のち、sop.がppで「炎(かぎろい)よ かぎろいよ たて」(ais-h-h-c)と歌い出す。言葉の合間にヴォカリーズ (a ア)が細かく揺れ、あるいはポルタメントにすでに不穏な空気が広がり、間隙にpf.もしくは打の打撃音。ステージ背後には傲岸不遜な表情の将軍が一人座すから、この声はいかにも威圧的に響く。そのままsop. ヴォカリーズで残り、fff. 高音で叫んで一区切り。
B:(4~15)
pf.が内部奏法で箏をはじくように入り、新鮮。節目ごとの大太鼓、鈴とともに非常な効果をあげている。邦楽器の持つ味わいを洋楽器でうまく奏出するのに感嘆だ。加えて気合いが凄まじい。
「朝(あした)に太陽を呼び 夕に月を招く 山よざわめけ 海よ波立て」に続きヴォカリーズ。
「さがれ!さがれ!悪霊ども、うせよ! お前たちも我より何も奪えぬ さがれ!さがれ!」「深き川の流れも 我をさえぎることはできぬ! 川に豪奢な橋を架けよ その橋のもとに 人柱を立てよ! 美しき童どもを生きたままで埋めよ!」
こののち再び最初の句が繰り返されるが、語りに近く、ヴォカリーズ部分が上下ポルタメントなどで表情を付ける。打が言葉の要所で響き、pf.の内部奏法や弦の弱奏トレモロが声を際立たせる書法だから非常に聴き取りやすい。
「女たちよ、我に その身を捧げよ!アーッハッハッハ・・・!」と高笑い。「アーッ」の高音からの下降ポルタメントが強いインパクトだ。のち、弦がpp<fffまでノイジーに膨張、pf.が炸裂して了。
[Ⅱ]良秀の娘(15~31節) 娘のモノローグで三つの和歌( 一、二、三)に沿う構成。
前景よりpf.はペダルで響きを保持しており、そこに弦ppp、vibr.がppで入り、ついでcl., fl.。以降、現れるfl.は娘、cl.は将軍と思えば良いか。赤いドレスの娘がなよやかに踊りだす。pf.強打のち、「みずのおもにあやおりみだる〜〜〜」(h-a, c-h-a-h)とsop.が吟詠(和歌吟詠に準ずると筆者は考える)。3) 吟詠の音程の上下行、揺れ加減、合いの手たる箏や笛を思えば良い。静けきたおやかな調べが流れてゆく。
娘のソロに和歌を持ってきたのは、いかにも西村だ。高校生時代から愛好した和歌の世界は合唱作品『式子内親王の七つの歌』(1990)、『寂光哀歌』(1992)、『炎の恋悲歌』(1992)、『炎の挽歌』(2000)まで、和歌をテキストに使用しており、本オペラ作曲の時期と重なる。言葉とヴォカリーズの扱いはすでに『式子内親王の七つの歌』の書法にあり、ここでのsop.と器楽にそのまま映じている。もっとも、合唱とは異なり独詠ゆえ、あくまでそのラインを際立たせるよう、弦、管はヘテロフォニックなドローン。
採用した歌は三つ。いずれも『式子内親王の七つの歌』と同じ『新古今和歌集』から春の歌。
ただ、その清明な色調は全き『寂光哀歌』で、そうか、ここに現れたか、と思った。同時に寂光院の夕暮れの道も。全てはこうしていく筋もの絹糸のように縒りなわれ、音の帯を、景色を編んで行くのだ、としみじみ思う。
(一)伊勢の御息所(みやすどころ)とも称される藤原継蔭の娘の作。
「水のおもにあやおりみだる春雨や山のみどりをなべて染むらん(『新古今和歌集』65)
(水面に綾を乱すように織る春雨が、山の緑をすべて染め上げるのだろうか)
pppで弦が声に沿い、fl., vibr., pf. が響かせるヘテロフォニックな和声の帯が柔らかに包む。いかにも楚々たる風情だが、ダンスはかなりクネクネで、つい、能仕立てであったらと思ったが、いや、文楽の濃厚な表現主義であれば、こちらが近いかも、と考える。次句に入る前に器楽間奏があり、将軍の影が舞いだし、娘の表情が不安に変わる。
(二)平安時代の貴族、菅原孝標女(すがわらのたかすえのむすめ/『更級日記』の作者)の作。
「浅みどり花もひとつに霞みつつおぼろにみゆる春の夜の月」(『新古今和歌集』56)
(春と秋とどちらに心が惹かれるかと申しますと、わたくしは薄藍の空も、桜の花も、ひとつの色に霞みながら、朧ろに見える春の夜の月のすばらしさで、それゆえ春と申します)
一瞬見せた不安は消え、娘とvc.のデュオ。ゆったりした吟詠に応えるようにvc.の箏風ピチカート、pf.もまた箏風で、まさに和歌の吟詠そのもの。雅なシーンで、(三)にそのまま入ってゆく。
(三)皇太后宮大夫俊成女、藤原俊成卿女の名で活躍の歌人の作。
「風かよふねざめの袖の花の香にかをる枕の春の夜の夢」(同上112)
(春の夜、夢からさめると、床を風が吹きかよい、袖は花の香に匂う。そして枕にも花の香り――夢の中でも花が散っていたかのように)
将軍は座したまま、二人の影が動き出し(3人シンクロ)、vc., pf.の爪弾きに合わせ、将軍組は威嚇の素振りを示し、娘の影はそれに反応するものの娘は依然ゆるやかに舞い続ける。
音楽は静寂を湛えるが、娘をめぐる影たちの動きはピリピリ。終句ののちsolo molto espr.の指示でピッコロ・ソロが響き、高音で次景を暗示するようにヒューッとつんざく。
[Ⅲ]将軍と娘(32~63節) A~Dの4部構成で将軍が娘を力ずくで自分に従わせる場面。
ページにすると14pと、[Ⅴ]に次いで長い。
A: 打から開始の器楽序奏部(32~37)。cl.(将軍)のagitatoソロfffがいかにも居丈高。次いでのalt fl.ソロは影か。弦低音トレモロが生む不穏の空気の収縮膨張に打が要所で入る。尺八風むら息が鋭く空気を刺し、後方の将軍と影たち3人のシンクロ所作が不気味。
B: テクスト部は短く、一気に進む(38~43)。
「女よ 女よ こちらへまいれ」。
いかにも命令調で、前景に出てきた将軍組3人が威圧的な所作を繰り返す。
「月に照らされた その美しい黒髪 けがれを知らぬその目、その唇 女よ 女よ その身を我に捧げよ」
跳躍音程を含むセリフを縫ってfl., cl., 弦が強い表情を加え娘に迫りfl.が悲鳴を上げる。
「おゆるしを・・・おゆるしを・・・」
この娘のセリフは無表情に近く、将軍組はさらに彼女に寄せつのる。彼女の影は内面を表すような所作。
「こちらへまいれ!」
「おゆるしを・・・おゆるしを・・・」
迫る将軍ら。たまらずfl.が悲鳴を上げる。そこへ一撃、将軍の声。
「ならぬ!」
アクセントを伴うfffにpf.とvibr.が炸裂、2つのtam-tams.が拍子木のように尾を引き打ち鳴らされる。
C: 器楽間奏(44~48)
箏風にvc.がpp<ffへジャラランと弦を鳴らして開始。弦3声、管(fl., cl.)、pf.がそれぞれに絡み合う中、将軍組に激しく追い詰められる娘。
fl.が高音で2回叫び、弦(as, a, b)がノイジーにppp<fffで膨張、pf., fl.の一打。3cymbalsがppで入るとともに次景 sop.のハミング(mムー)へ
D:ハミングと器楽 (49~64) で娘が3度逃れつつ、屈服するまでの様子を描く。ダンスは影を含め全員が動き回るから見た目には激しいが、音響はあくまでソリッド。
まず、sop.ハミング(as)に3c-s.がその周囲を不気味な静けさで震わせる。この間、娘は激しく踊り続け将軍に向き合うが、弦のノイズを背景に背後から将軍の影に捉えられ跪かされる。「ha―」と大きな息が1小節を挟み2回sfff>ppで吐かれる。無音の中、彼女の頭に手をのせまさぐる将軍。睨みつけ、影を振り解き逃げる娘。音楽は異常な緊張をはらみつつも音数は極めて少ない。器楽全員ppp「S—Si—Su」の発声を続け、再びfl.が叫ぶ。ハミング(e)が伸びたゆたい、再度「ha―」。娘は自ら膝を折る。が、再び将軍に触れられ逃げまどう。
ここから最後まで、引っ掴んだり殴ったりの暴力的ダンスが繰り広げられ、弦管打が多様な表情を見せるが、あくまで音響は背景として抑制されている。倒れた娘にのしかかる将軍。picc.が悲鳴をあげ、勝ち誇ったようにcl.が高笑い。最後はpicc.の叫びffffを3c-s.とpf.がsfffで打ち砕く。振り付けの気持ちはわからぬでもないが、このシーンは筆者にはいかにも西欧的に「見えた」(聴こえた、ではない)。
[Ⅳ]良秀と将軍(64~78節) 二人の会話で、長さは[Ⅰ][Ⅱ]と同じ。
舞台上では良秀は前景終尾から姿を現す。おどおどと卑屈な眼差しで挙措も猿秀の呼称らしく猿に似せたもの。2tam-tams.のpppから二人の会話が開始。ここでは「大殿さま お願いがございます」「申してみよ」「なにとぞわが娘をわたくしにお返しくださりませ」「ならぬ!」から始まり、将軍が条件として地獄の絵を彼に注文するシーンだが、セリフのいちいちは拾わない。将軍の地獄絵の注文のセリフのみ挙げておく。
「地獄!地獄の絵を!」このセリフは「じっ・ごっ・くっ」と強く吐かれる。続いて、「わしはこの世の愚かな弱き者たちが地獄を恐れるのが面白い 地獄とはどのようなものじゃ? 弱き者どもの心の中の 地獄のありさまを描いてみよ わしはその地獄を この手の中につかみたい 見事に描いてみよ されば、娘を返してやろう」。
このセリフは次景、良秀のモノローグでの「地獄」と照応し、それは西村自身の地獄観でもあるゆえ、一応、おさえておきたい。
二人の会話は言葉の抑揚に沿って音程がやや動くほどのもので、語りに近い。打(大太鼓の連打が場の緊張を盛り上げる)とpf.がこれに合いの手を入れるというシンプルなもの。前述の将軍が語る地獄のセリフからpicc.、fl.が入り、語りのラインに沿いつつ、背景を不吉に埋める。この間、舞台上での動きは良秀の影も加わり大袈裟にペコペコ頭を下げたり、将軍もいかにも威張り、大変に忙しい振り付け。打楽器が多彩な活躍をする場面でもある。そのまま途切れることなく次景へ。
[Ⅴ]良秀と弟子( 79~113節) A~D
最も長く、この景が西村が最も注力した部分ではなかろうか。弟子を縛り、打ち、虐げる責苦のシーンだ。
A: 器楽序奏部(79~86)
pf.のソロで非常に長い序奏がpp<fffで駆け上がり、一息おいてのfffの打奏で開始される。殴りかかるような衝撃音が、一つ、また一つと打ち鳴らされる。as fast as possibleの指示による底鳴りする低音の波形が凄まじい形相でぐあんぐあんと舞台に轟きわたる。その間、良秀は折り畳み椅子を抱え、猿のように歩き、走り、座り込み、キョロキョロ目を泳がせる。これに反応、動き回る弟子。
次いでvc.が凄愴に低音から駆け上がり、va.とともにぎじぎじと切り刻み、あるいは下降し、良秀のモノローグを導く。
B: 良秀の長いモノローグ部分。テクスト部分は5段落に分かれるが、1)~4)までを Bとする。筆者は中でも地獄について語る3)が最重要と考える。
1)sop. がff「弟子よ」で開始。「お前を縛り、お前を責める この恐ろしい責苦に耐えよ 苦しめ!血を流せ!呻け!悲鳴を上げろ!・・・・この絵のために!」サディスティックな責苦のシーンが展開される。cl.のトレモロ、vc., va.のトレモロ、次いでpf., fl.と加わり、fl.の切り裂く高音の叫びにmarimba(初出)が血の如く飛び散り、一段とおどろおどろしい様相。(87~91)
2)地獄についての語り・描写(92~93)
「地獄はこの世のいたるところにある 無数の貧しい者たちは 飢えて死に 病で死に
罪人たちは首をはねられて死に 死者たちの無惨なむくろが この町をおおっている。死の臭いが立ちこめているではないか!」
尺八風fl.がむら息やコロコロ(ビブラートあるいはトレモロ)的に響く。
3)地獄のキモ部分の語り(96~99)
「だが 私の絵の地獄は違う この地獄には 富める貴族も僧侶も、神に仕えるものたちも 皆、落ちてくる 紅蓮の炎の中を逃げ惑い、鬼たちに槍で体をつらぬかれ 剣で切られ 髪ひきぬかれ 油で煮られ 怪鳥や龍に噛み裂かれ 無限の苦しみを味わい続ける この地獄には すべての者が落ちてくるのだ!」
なぜキモかと言えば、「富める貴族も僧侶も、神に仕えるものたちも 皆、落ちてくる」と言っていることだ。階級貧富に関わらず、全ての人間が良秀の地獄には落ちてくる。これは将軍のいわば全権掌握者思考「自然であれ、悪霊であれ、童も女も人柱に、など全て我が意のまま([Ⅰ]でのセリフ)、愚かな弱者が恐れる地獄がどんなものか知りたい、それを掌中に掴みたいのだ([Ⅱ])」に対し「いや、恐れを知らぬあなたもまたここに落ちるのだ」と言うに近い。そうしてこの言葉が、最終景の彼のモノローグにつながってゆき、さらに本オペラにおける西村の地獄観がそこで明らかにされる。その意味で、まさにキモなのだ。
ちなみに原作もまた、あらゆる人間が堕ちる地獄であり、「いわばこの絵の地獄は、本朝第一の絵師良秀が、自分で何時か堕ちて行く地獄だったのでございます。」4) と語り手に絵師の宿業を語らせている。
良秀が自分の地獄観を語るこのモノローグ部分は弦、管、打(mba.)、pf.が様々な響きで照応、かつステージでは虐待が続く。とりわけこのⅤ景から姿を現すmba.がセリフに沿って恐怖を煽るのが印象的。
4)人間の業苦についての語り(100~105)
「生は苦しみに満ち 死もその先も苦しみに満ちている そこから逃れる者は一人もいない 生まれ、存在してしまった者は 永遠に苦しみ続けなければならぬ! 弟子よもっと苦しめ!血を流せ!呻け!〜〜(中略)私の絵のために!」
弟子がすっとんだり転げ回ったりの苦悶を続け、「逃れるものは一人もいない」では椅子に座った良秀がガタガタと足踏みし焦燥感を募らせ、「私の絵のために!」の終句は弟子の肩に馬乗りになり髪を引っ掴むのである。弦の中でもvc.がfffで悽愴に音を弾きむしり、pf.のクラスターと保続音がアッチェルランド、器楽のみのCへと突入。
C: モノローグ5)への器楽序奏部(106~110)
弦のpp<ffトレモロ、pf.の低音sfffクラスターが不気味さを増す中、良秀と弟子は忙しく動き回る。
D: モノローグ5)(111~113節)
Pf.の一撃にa—–とsop.が叫ぶ。「ああ、だが...この絵の中に描けぬものが一つある それは美しい布の 簾をたらした牛車〜〜(中略)若く高貴な娘が乗り 娘の髪も体も 炎に焼かれようとしている それが描けぬ!描けぬ!」
molt espr.!(tempo rubato)の指示があり、sop.のほかは沈黙を守る。「焼かれようとしている」の上で一瞬fl.の悲鳴、弦のsffピチカートの引っ掻き音のち「それが描けぬ!」pf.のsfffクラスター、「描けぬ!」でゲネラルパウゼ。
[Ⅵ]将軍、良秀とその娘(113~139節)A~D。牛車炎上のシーン。
将軍に呼ばれ参じた良秀、眼前で炎上する牛車の中に我娘を見て助けを乞う。炎に巻かれる娘、冷笑する将軍。
A: 器楽序奏部(113~116)
大太鼓と2 sleigh bells、fl.の旋律がfから2オクターブ近くの上下行でこの景へと引きずり込む器楽序奏部だ。pf.の打撃音、弦の重音の波、mba. が不安を掻き立てる。
B: 将軍と良秀の会話(117~121)
pf., mba. ,下では弦が(as, b)でロングトーンを鳴らし続け、低音での不穏の波がひたひたと迫る。将軍は傲然と中央に座し、良秀に影たちが絡む。
将軍「燃える牛車を見てみたいという お前の願いを今日かなえてやろう。中にはあでやかに着飾った美しい娘が縛られて入っている その牛車が燃え上がり、娘が焼かれるのを、その目でよく見て描くがよい」
fl., cl.が加わってのffの一撃。
良秀「ありがたきしあわせ」
pf.のsfff轟音とともに将軍「わしに出来ぬことは何もない よいか! 牛車に火をかけよ!」
C: 牛車炎上(122~126)
tubular bellsがburn with flame(炎上)の指示とともにppで響き始め、picc.が宙を切り裂く。 同時に悲鳴Ah―――!!
良秀「アアーッ! それは我が娘! お助けを! お助けを! 大殿様、お助けを!」
セリフには一音一音アクセント記号がつく。必死に平伏する良秀。
立ち上がって良秀に迫る将軍。
将軍「さあ、何をしておる 描け!描くのだ!」(同様、アクセント記号)
「お前に娘を返してやるのだ!」
「お前の地獄の絵の中に!」(一音一音テヌート指示)
「アーハッハッハッハッハッハッハ!」(laugh haughtily)fff、高音より急速下降。
「さあ、描け! お前の仕事をなせ!」(アクセント付き)
良秀「アアーッ!」(shriek) p<ff<fff (highest tone!) この叫びは下から上へ、上から下へと谷底に落ち、這い上がるように鳴り響く。
弦、管、打うちそろい、将軍の非情なセリフに楔のごとくそれぞれの響きを打ち込む。音数は少ないが、各人の内面を抉り出す周到な音設計。とりわけキメどころでの大太鼓が抜群の効果をあげる。おどろおどろしい。
D: 器楽のみ。炎に巻かれる娘(127~139)
娘がfl. とともにうねうねと身体をくねらせ始める。楽器群はいかにも炎のような響きで彼女を取り巻き、舐め回す。影たちはやたら動くのでステージは見た目にかなり煩いし、将軍は炎に悶える彼女に残忍な目を這わせ、全楽器が咆哮する。ただ、娘はかすかに痙攣したりはするものの決して大仰な身振りはしないので、その対比が妙に際立つ。137でpicc. がppで入り、娘の姿を背後でじっとみていた良秀が、動きを止めくずおれる彼女に駆け寄り抱きすくめ、愛おしそうに顔を撫で、抱き上げる。picc.がその上に悲涙のように降りかかる。そのまま彼女を抱いて、次景へ。
ここでの、娘を抱きしめ愛おしむシーンはスコアにそのような指示があるわけではない。草津での能仕立てには無論そんな所作はなく、炎上した牛車から降りた娘はそのままステージ背後に座す。このあたり、何を「見るか、見せるか」の違いで、深く考えさせられるところだ。
ちなみに、次景につながる前のフェルマータにはvery longの指示があるが、さほど間を置かず、さらに良秀が娘を抱いて動くので、両景の段差はほとんど感じられない。
[Ⅶ] 将軍と良秀(139~149節)
良秀、娘を抱え、将軍に向かい告げる。alt fl.(G)がうねうねと動き、vn.と打が背後を支え、のち沈黙で淡々とセリフが来る。
「大殿様 おかげをもちまして、地獄の絵が仕上がりました 謹んで献上いたします」。
timp.の一打に、将軍「オオーッ! これは見事だ!でかしたぞでかしたぞ! 地獄とはこのようなところか 面白い、面白い! アーハッハッハッハッ!」。続くtimp.の連打。
以下、要句を一つ拾っておく。
「弱き愚かな者どもが、死してなおこのように 苦しんでいる姿を見るのは面白い!(哄笑)地獄とは滑稽なところよな(哄笑)」
最後の長い哄笑に弦管打が大暴れ、将軍も大仰にのけぞり腹を抱えの大騒ぎ。娘を抱えじっと見つめる良秀。
最後の長いモノローグ。その間、将軍は操り人形のようにカクカクと動く。
pf.のfffクラスター4小節にvibraphoneが途中から入る。4小節目でarco with a bow of contrabassの指示。フェルマータのち語りが来る。
長いが全てを拾う(テクストではなくスコアに沿う)。
「私も今よりこの絵の中に 入っていこう この地獄絵の中に入ろう
だが、大殿様 あなたはこの絵の中には入れない
あなたは生を知らず!死を知らぬ! 愛を知らず 存在の苦悩さえ知らぬ!
あなたには何もない!
その空しい笑い声があなたのすべて!
あなたはこの絵の中には入れない!
あなたの地獄はまた別の地獄
絵には描けぬ もっと恐ろしい地獄だ
そこへあなたはけたたましく笑いながら 入ってゆくことだろう
そして永遠に笑い続けるがいい・・・
あなたの地獄
その地獄の名は“虚無”」
セリフに付随するアクセント記号はいちいちここに示さないが、sop.がそれを忠実になぞるのは外国人であればいささか難しい。音は要所で控えめに短く鳴らされるのみ。
「永遠に」の句のあとantique cymbalsが入り「笑い続けるがいい」「その地獄の名は」のセリフのあと打ちをするほか、音響は効果音に近く、語りをくっきりと浮き上がらせる。が、舞台上では良秀がバタバタ動き回り背後では将軍がカクカク身を折るので騒がしい。
「あなたの地獄 その地獄の名は」の終わりにa-cが鳴り、短いフェルマータをおいて最後の言葉「虚無(kyo mu)」(h~d)がpで降りる。
再び短いフェルマータののち156節(2小節)。picc.とsop.を含む全奏者がppp<fffで「Si」を吐き、ついでsfff>「ha」、再びppp<fff「Si」、いずれもスコアには休符フェルマータがあるが、この「Si」「ha」はここでは一対として吐かれる。最終節157~159はpf.の一撃とともにpicc.がpp<ff<fff (fis~g~f~fis~g)と2オクターブで空をつんざき、再度picc.を除く全奏者sfff>「ha」。ここで良秀は横たわった娘を抱き上げステージをゆっくり歩き回り、将軍は拳を口にあて恐怖に引き攣った様相で天を仰ぐ。ppp<fff「Si」にfffでpf., a-c、大太鼓の強打が襲い、picc.がpp <ffff! (g~gis)で叫び、最後のsfff「ha」ののち159節pp<fff「Si」に2 s-bと大太鼓fffが轟き、暗転。
この最終節部分の緊張は凄まじい。が、筆者にはやはり演者が動きすぎと思われ、その音空間の緊迫の邪魔をしているように思われた。多弁にすぎる、というのが率直なところだが、ヨーロッパの観客にしてみればこれで良いのであろうし、それは理解できる。
さて、将軍の地獄、「虚無」とは何か。
生死を知らず愛を知らず、存在の苦悩も知らず、けたたましい空虚な笑いが響くのみの「どこか」。
この言葉を最後に選んだ西村にはおそらく西欧のニヒリズムが念頭にあったろうが、それはいわば西欧向け舞台への彼の配慮、翻訳不可能なものであればこその選択に違いない。一方で、では彼自身が「虚無」の実体を感触していたかというと、それもなかったろう、というのが現在の筆者の見解だ(当然、筆者にも「虚無」の感触などひとかけらもない)。いや、そもそもそれは「謎かけ」のようなものとしてそこに置かれる必要があり、西村自身にもそれは了解できていたことと思われる。「不分明なもの」だからこそ、彼は良秀にそう言わせたかった。
再び先走るが、だからこそ『紫苑物語』が書かれたのだ。
この地獄(『絵師』)、草津の能版ではどう描かれたか。
(2-2)草津公演に続く。
註
- 『宇治拾遺物語集』上 全訳注 高橋貢・増古和子 講談社学術文庫 2018 p.341~346
- 『決定版三島由紀夫全集22』新潮社 2002 p.54
- 和歌吟詠 ひさかたの光のどけき春の日にしづ心なく花の散るらむ 紀貫之
https://www.youtube.com/watch?v=C90SXIoQd14 - 『地獄変・邪宗門 好色・藪の中他七篇』 芥川龍之介作 岩波文庫70-2 p.53
資料)
◆書籍
『地獄変・邪宗門・好色・藪の中他七篇』芥川龍之介著 岩波文庫 70-2 岩波書店2022
『決定版三島由紀夫全集22』新潮社 2002
『宇治拾遺物語』上・下 全訳注 高橋貢・増古和子訳 講談社学術文庫 2018
◆楽譜
『室内オペラ“絵師”』〜ソプラノと7人の奏者と4人のダンサーのための
全音楽譜出版社 2007年
◆DVD『“ESHI” (Der Maler) Kammeroper für Sopran, Kammerensemble, eine Tänzerin und drei Tänzer』Video Mitschnitt DEUTSCHES TANZFILMINSTITUT BREMEN
(2023/9/15)