イギリス探訪記|(10)ブリテンのオールドバラを訪ねて|能登原由美
イギリス探訪記|(10)ブリテンのオールドバラを訪ねて
Another Side of Britain (10) Britten in Aldeburgh
Text and photos by 能登原由美(Yumi Notohara)
ロンドンから列車を約2時間乗り継ぎ、そこからタクシーで20分ほど行くとオールドバラという街に出る。夏になるとリゾート客で賑わうこの海辺の小さな集落は、イギリスの音楽を語る上では欠かせない作曲家、ベンジャミン・ブリテンゆかりの地としても知られる。公私にわたるパートナー、ピーター・ピアーズとともに住んだ家が街はずれにあり、2013年の生誕100年に合わせて建てられた資料館や庭など一連の施設が「レッド・ハウス」と呼ばれて一般に公開されている。
訪れたのは7月も終わりになる頃であった。この国にはすでに1年近く滞在しているのに足を運べなかったのは、もちろん自らの怠慢のせいではあるけれども、昨年来頻発している鉄道ストライキと補修工事による列車の運休・減便により、旅行などの予定が何度も変更を強いられてきたからでもあった。もちろん、車を使えば楽だしすぐにでも行けただろう。どのみち駅からはタクシーを拾う必要があり、こちらに住む音楽研究者の知人はみな、ブリテンの家を訪れるには車が必要だと口を揃えて言っていたのだ。自家用車のない私でもレンタカーに頼るという手があったが、日本では滅多に見かけない「ラウンドアバウト」の運転に恐れをなして、何としてでも電車で行くことを決意していたのである。実際、もうこれ以上は先延ばしできないと覚悟を決めてホテルなどを手配した矢先、今度はロンドンの地下鉄がストライキを告知。やれやれどうしたものかと思っていたところ、直前にスト中止の発表。行く前からあれこれ気を揉んで、ただでさえ遠い道のりがさらに倍増したように感じたのであった。
訪問の目的は研究のための資料調査だが、ここではむしろ、彼の生きた土地や家など、その人を取り巻く空間から感じられたものに敢えて触れてみたい。その中心となるのはやはり、ブリテンが最後の19年を過ごした家である。なにせ、作曲部屋から寝室、書斎、リビングに至るまで、家具や調度品、小物類の配置などほぼ全て当時のまま保存されているというのだ。
また、音楽や文学ばかりか、美術にも鋭い眼識を持っていたらしく、今なお壁を彩るアート・コレクションも見応えがあり、そちらを見に来たという美術関係者もいた(ブリテンに興味があるわけではないとのことだった)。けれども、私がより惹きつけられたのは、棚に収められた洋服や鞄類、酒瓶など、生活の痕跡をリアルに伝えてくれるものたち。これらも作曲家が使っていた当時と同様に保管されているらしく、案内人が扉を開けて見せてくれる度に、目に見えないオーラのようなものがこちらに伝わってきて、私も含めた見学者の口から次々とため息が漏れ出た。すでに亡くなってから50年近く経つだけに、さすがにデザインは古びている。が、どれもすぐに使うことができそうな面持ちで、今でも主人の帰りを待ち続けているように見えてきた。
その主であるブリテンが63年の生涯を終えたのは、1976年12月。まさにこの建物2階の寝室であったという。その臨終を迎えたベッドの傍らには、人生に大きな影響を与えた3人の人物の写真が飾られていた。1枚はもちろんパートナー、ピアーズのそれ。もう1枚は敬愛する師匠、フランク・ブリッジ。だが、最後の1枚は誰なのだろう。案内人の説明から漏れていたのでその名を尋ねてみたが、2人のベテラン・ガイドのどちらもわからないという。そのうちの1人が裏返してみると、ウィルフレッド・オーウェンの名前が現れた。ブリテンの手書きらしい。第1次世界大戦に従軍し、終戦の僅か1週間前に戦死したイギリスの反戦詩人である。そのテクストは、1961年に作曲されたブリテンの代表作《戦争レクイエム》の根幹をなすものとなっている。
「私の主題は戦争であり 戦争の哀れみである
詩は哀れみの中にある…
いま詩人ができることは警告だけである」
戦争の愚かさを嘆くとともに、それを引き起こし、多くの若者を失わせてしまった大人たちを鋭く糾弾したオーウェン。彼の遺した上記の言葉は、《戦争レクイエム》の草稿に書き記されている。その同じ筆致が、寝室にありながらもほとんど気付かれることのない写真立ての裏にその詩人の名をそっと刻んでいた。第2次世界大戦が始まると「良心的兵役拒否」を表明して2年余りをアメリカの地で過ごし、戦後は平和運動にも積極的に関わるなど、生涯にわたって不戦を貫いたブリテン。彼にとってオーウェンは、その思想を支える大きな柱の一つであったことは間違いないのだろう。オーウェン=ブリテンによって謳われたこの反戦の調べは、同じ敷地にある作曲小屋で生み出されたのであった。
あとでわかったことだが、この写真の主に誰も気づかなかったのは無理もないことのようだ。というのも、兵士でもあったオーウェンの写真については、軍服姿のものが圧倒的に知られており、ここにあったのは滅多に見かけない普段着姿のもの。この見学の後に偶然、資料館のスタッフが「オーウェンの珍しい写真があった」と私に持ってきてくれた写真が、まさにそれであった。「全く別人に見えるよね」と彼女もいうように、そこに写し出された若者は、一般に流布した肖像写真のように勇ましさを誇ることもなく、穏やかな表情を見せるばかり。撮影された時期も異なるのであろうが、多くの人に見過ごされてしまうのもわかるほど、何気ない瞬間を捉えたものであった。敢えてこちらの写真をベッドの傍らに置いていたブリテンの想いが、痛いほど胸に突き刺さってくる。
とはいえ、オペラや歌曲、器楽曲など、様々なジャンルに足跡を残したこの作曲家について語るには、そればかりに囚われすぎてもいけない。行きで乗り合わせたタクシーの運転手は、私の行き先が「レッド・ハウス」であることを知ってすぐに「自分はブリテンに会ったことがある」と話し始めた。もちろん当時はまだ子供だったというから、直接的なつながりはなかっただろう。が、彼がピアーズと共にこのオールドバラに移ってきたときはすでに、英国を代表する音楽家として有名になっており、この小さな集落では彼らのことを知らない者はいなかったに違いない。「ブリテンはスピード狂だったんだよ。いつも街を高速で乗り回していた・・・でもとてもいい人だった」と運転手は話を続けた。実際、その後「レッド・ハウス」を案内してくれたガイドも、ブリテンが車好きであり、お気に入りのロールス・ロイスを乗り飛ばしていたことなどを教えてくれた。その愛車がすでにないのは残念だが、おそらく当時からほとんど変わっていないであろう車窓越しの風景とともに、疾走する彼らの車を想像した。
家から30分ほど歩くとサフォークの海にたどり着く。付近には魚の燻製小屋が並び、私が訪れた日は風が強く肌寒いにもかかわらず、ビールジョッキを片手に海辺で夕食を楽しむ人々の姿がちらほら見えた。とはいえ、岸辺に繰り出す人の数は普段よりずいぶん少なかったに違いない。日の長い夏の夕暮れではあったが、低く雲の垂れ込めた薄暗い空の下で水遊びをする者など見当たらず、ところどころ浜の上に置かれた無人のボートがただ寂寥感を掻き立てるばかりであった。1945年に発表されたオペラ《ピーター・グライムズ》は彼の出世作であり、不毛と見做されがちであったイギリス・オペラの地位を確たるものにしたことで知られるが、貧しい漁村での陰惨な出来事を描いたその舞台はまさにここだったのではと思えてくる。あるいは、北へ車で1時間ほどの距離に広がる生まれ故郷ローストフトの岸。むしろ、自身が子供の頃に過ごしたその海辺の光景が念頭にあったのかもしれない。
最後に街の中心部にある「聖ピーター&聖ポール教会」の墓地を訪れた。ここにはブリテンと、彼の死から10年後に亡くなったピアーズの墓が並べて安置されているはずだ。墓園は思いのほか広かったが、「他の墓石より一段背が高いので分かりますよ」と教会関係者が教えてくれたためすぐに見つかった。思ったよりもシンプルなデザインで、霧雨の降る曇り空の下では、灰黒色の石に刻まれた文字も一目ではそれとわからないほどだ。それにしても、名前と生没年を変えただけの、全く同じ形の墓碑が2基並んでいるのを見ると、その人生と創作に影響を与えた人物の大きさがしみじみと伝わってくる。いや、もちろんそれだけではない。これら2つの石を支えるもの、すなわちこのオールドバラの地がなければ、《戦争レクイエム》をはじめ多くの傑作が全く違うものになっていたかもしれない。と同時に、彼らがいたからこそ、この地に新たな趣が与えられたのもやはり事実だろう。
次はブリテンが始めたオールドバラ・フェスティバルに来よう。そのときは労働環境も改善されて、ストライキが起きませんように…。再訪を誓いつつ、海辺の街をあとにした。(イギリス探訪記・完)
(2023/8/15)