パリ・東京雑感|戦争の狂気を描き、罰された『お菊さん』の海軍士官|松浦茂長
戦争の狂気を描き、罰された『お菊さん』の海軍士官
Madness in a War, Scandal Sparked Off by Pierre Loti’s Article
Text by 松浦茂長(Shigenaga Matsuura)
1883年8月18日、フランスの戦艦7隻が、アンナン(今のベトナム中部)の都フエを守る砦を襲い、3時間足らずで制圧した。アンナン側の死者1200人、フランス軍の死者はゼロだった。
10月13日(1-2ヶ月後に第一報が伝えられるのは普通だった)『フィガロ』紙に、<X…>の筆名でこんな記事が載った。
胸をやられた者らは、砂の上に血を吐きながら、ぞっとするような重い叫び声をあげていた。銃剣を口に突っ込まれた者は、剣先にかじり付き、剣が奥に入り喉が切り裂かれないよう、血まみれの歯に全身の力を込め、鉄と歯のきしる音を立てながら、必死で剣先を食い止めようとする。しかし、水兵は強かった。歯は砕け、剣先がうなじからとび出て、そのまま男を砂の上に釘付けするようなかっこうになった。水兵たちは叫び声と血の色に酔い、むしろ陽気に殺していた。
翻訳するのに苦労する名文だ。当時の新聞はプロの記者を遠くの戦場に送り込むほどの経済力がなかったので、軍人に原稿を書いてもらうことが多かった。この記事を書いた<X…>とは海軍士官ジュリアン・ヴィオー。ただの軍人ではなく、すでに小説を発表していたピエール・ロティである。
ロティの『お菊さん』は、フランスの海軍士官が長崎で1ヶ月擬似結婚する物語だ。西洋の軍人にちっぽけな日本が見下されているような居心地の悪さも感じるが、ゴッホの日本熱を大いに刺激したと言われるだけの鋭い観察と、感情の真実がある。
私は今この可愛らしい日本でうまく調子を合わせて暮らしている。私は縮こまって、様子ぶっている。私の思想は狭隘になって行き、そうして私の趣味は可愛らしい、ほんの笑わせるだけの事物の方へ、傾いて行くような気持がする。私は小さい器用な家具や、人形の使いそうな机や、ままごと用の朱塗りの椀などにも慣れて来た。畳の単調な美しさにも慣れて来た。私は私の西洋的の偏見を失った。すべての私の思想は今宵蒸発しては消えている。(ピエール・ロティ『お菊さん』 パリ・東京雑感2021/05/15『蝶々夫人からアトランタのマッサージ嬢殺害まで』参照)
背筋が寒くなるようなアンナンの戦闘描写と並べて読むと、西洋の尊大な植民地獲得戦争に疲れた海軍士官が、単調で可愛らしい日本に束の間の癒しを求めたかのようにも読める。
フエの戦いに至る歴史をおさらいしてみよう。1840年にアヘン戦争が起こった。(ロンドンにいた1980年頃、おとなりの歴史専攻の大学生が「高校までアヘン戦争について教わらなかった!」と憤慨していた。)当時イギリスは、中国から茶、陶磁器、絹を買ったが、売るモノがない。貿易赤字を埋めるため思いついたのが、インドで生産していたアヘンを中国に売りつけることだった。清国が麻薬輸入を取り締まろうとしても、イギリスの軍艦にはかなわない。アヘン戦争に負けた中国は、西洋の商品に門戸を開く不平等条約を結ばされる。
ときあたかも、ヨーロッパは産業革命によって飛躍的に生産量がふえ、国内だけではさばききれない、市場拡大競争の時代に入るところだった。売るモノが無かった時代と逆に、いまや中国はポスト産業革命時代の巨大市場として西欧に狙われる運命だ。
西洋が珍しい物を求めてアジアに来た異国趣味の時代は終わり、沢山作って沢山売りつける殺伐とした時代である。ロンドンで親しくなったアイルランド出身の読書家のお年寄りが「イギリスはインドに綿織物を売りつけるために、インドの織物職人の手を切り落とした」と言っていた。自国の産業のためにインドの伝統産業を破壊した、情け容赦ない英国資本主義精神を象徴する言い伝えだろうか。
フランスがインドシナに進出したのも、中国市場にもぐり込むためだった。1860年にサイゴンを襲い、次第に北に勢力を広げて行く。その過程の一エピソードがフエの戦いである。
商品を売り込むための植民地であり、商売を拡大するための戦争だったとはいえ、ヨーロッパの人びとは、遅れた国の人びとを文明化する崇高な使命を果たしているのだと信じこみ、やましい思いをする人はまれだった。
フエの戦争当時、有名なジュール・フェリーが首相だった。フェリーは無料の義務教育を始めた公教育の父みたいな大政治家だが、同時に植民地思想の熱烈な布教者でもあった。われわれアジア人から見ると、高邁な文化・教育への情熱と獰猛な植民地支配への情熱は逆方向のように見えるが、当時のヨーロッパ人に矛盾はない。
19世紀のヨーロッパ人は、人類は1本の道を通って進歩していると考えた。だから一番先頭を歩んでいる西欧は、のろのろと遅れた国を高い文明へと引っ張り上げる使命がある。とすると、教育も植民地も「進歩」の道に適応させるという点で同じこと。どちらも文明伝達の使命なのだ。「進歩」の思想は怖い。
フエの砦の虐殺があった1880年代はじめは、ちょうど西欧の武器の力が東を圧倒する転換点にあたっていた。それまでも軍艦の威力に関しては、西洋の大砲が強かったので、数のうえでは英国よりずっと優勢な清を降伏させることが出来たのだが、いったん陸に上がると案外弱い。英国軍は、1879年、南アフリカのイサンドルワナでズールー軍に大敗したし、1880年にはマイワンドでアフガン軍に負けた。
ところが、このころ連発銃や大がかりな機関銃が実用化し、陸の戦いでも西洋は負けなくなり、19世紀末、スーダンの英国軍と現地軍の戦いでは、スーダン側の死者11,000人に対し、英国側の死者は20-30人というほどの殺傷力の差が出来てしまった。
ピエール・ロティは西洋絶対優位時代の幕開けを記録したわけだ。
大殺戮。一斉射撃が始まった。右へ左へ思いのままの方向へ発射される弾丸の束が、命令に従って、一分間に二回、整然と確実にかれらを撃ち倒すのを見るのは、喜びだった。かれらは、ひとかたまり、また次のひとかたまりと順々に、砂と小石を跳ね上げながら、なぎ倒されていった。……
水兵たちは、面白がって死体を数え始めた。左に50、右に80。村では死体が山積みになっているのをいくつも見つけた。どれも焼け焦げているが(この前に水兵が村々を焼いて狂喜する場面がある)、まだ動きが止まっていないのもある。腕が1本、あるいは脚が1本、痙攣しながら、まっすぐぴんと突き出る。大声で叫ぶ、気持ちの悪い声も聞こえた。
要塞の死者と村の死者を合わせると800人から1000人になっただろう。水兵たちは、何人殺したか議論をはじめ、死者数を当てる賭けまで成立した。……
もう殺す相手はいない。太陽と戦闘音で頭がぼーっとなった水兵たちは、要塞から出て、一種の神経的震えに突き動かされるようにして、負傷した敵に襲いかかった。くぼみにうずくまり、恐怖にあえぐ者ら、ござの下に隠れ、死んだふりをしている者ら、慈悲を求めて手を差し出し、ぜいぜい息をする者ら、胸を引き裂くような声で、「ハン!……ハン!……」と叫ぶ者ら、――水兵たちは、銃剣で突き殺し、銃床で頭を打ち砕き、彼らを片付けた。……
水兵たちには相手の見分けすらつかない。彼らは気が狂ったのだ。――彼らを制止しようとした――彼らにこうも言った「ねえ君たち、君たちのしていることは汚い、卑劣だよ」
この文章は、最初に引用した記事の4日後、10月17日の『フィガロ』に、今度は<X…>ではなく、ピエール・ロティの名で掲載され、末尾に「つづく」と印刷されてあった。ところが、大好評のシリーズ、続編は日の目を見なかった。海軍大臣直々の命令で、禁止されたのだ。そしてピエール・ロティには、直ちにパリに戻り海軍省に出頭せよとの命令が出た。
ロティとしては、大成功したフエの戦闘をなまなましく描き、フランス軍の栄光を讃えたつもりだったので、なぜ呼び戻されるのか理解できなかったし、海軍から追放されるのではないかと非常に心配した。
しかし、今のように通信・交通が発達しない時代、時が彼を救ってくれた。ロティへの命令が届いたのが12月2日。彼がパリに着いたのは2月初め。直ちに出頭すると、海軍大臣から、君の問題はもう忘れられたよ、と言われ、クビになるどころか、休暇までもらった。
ロティが遠くにいる間に、植民地主義をめぐる左右の攻防やら、ロティの記事は真相をありのままに書いた自然主義か、それとも誇張と空想を交えたロマン主義かの文学論やら、にぎやかな論争が巻き起こったのだが、本人不在、ほとぼりが冷めたころ帰国したというわけである。
どこが問題だったのだろう? フランス兵の残酷な描写がスキャンダルだったのだろうか?いや、この時代、残酷な話はいくらもあった。1845年、アルジェリアで現地の兵士らが洞窟に避難したので、フランス軍が洞窟の入口で火を燃やし、女性、老人、子供まで700人から1200人をいぶし殺した。この事件はフランス議会で取り上げられ、ラマルティーヌが「我々は、文明の名において戦争しているのだから、野蛮人のような戦争をしてはいけない。」と非難した。
スキャンダルは英国にもたくさんあった。1865年、ジャマイカの黒人が反乱を起こしたとき、軍が女子供まで無差別に虐殺し、英国内で論争になった。
第一、ピエール・ロティには、軍の蛮行を描いて植民地主義を批判しようなどという気持ちは微塵もなく、ただただ大勝利を讃えたかったのだ。
では何がいけなかったのか? グルノーブル・アルプス大学のシルヴァン・ヴェネール教授は、燃える村を見て歓喜し、殺戮に陶酔する兵士を狂気として描いたことだという。後に戦争の精神病理学が明らかにするように、戦いの絶頂にあっては、理性が消えさり、普段ならおぞけをふるうようなことを平気でやる、いやむしろ、やっていることの意識さえ失っている。ロティは戦場の病理現象を正確に描き出したために、海軍大臣を怒らせたのだ。
ところが、ロティには発狂状態で戦う兵士を批判する気持ちは全くなかった。水兵たちはたいてい漁師の子たちで、善良でナイーブ、大きな子供だ。自分たち士官の役割は彼らが暴走するよう仕向けることだと言い、戦闘の狂気に<崇高>という形容詞さえあてている。
彼らを戦場に投げ込むには、少々暴走させなければならない! 祖国が必要とするおぞましい残虐行為に彼らを引き入れるためには。……すると彼らは向かってゆく。勇気と呼ばれる衝動、英雄をつくり出すあの崇高な衝動に突き動かされて。彼らは私たちより少し先へ行ってしまうだろう。私たちは彼らほどに子供ではないから。火のような太陽を浴びて怒りにかられ、不気味で残酷な黄色いアジアの顔を目の前にして、彼らはいささか限度を越えるだろう。(シルヴァン・ヴェネール『アンナンのロティ 自然主義時代における戦争の狂気』に引用されたロティの日記から)
帝国主義的サディズムとでも名付けたくなる不快な日記なのに、なぜか惹きつけられる。それは、植民地戦争という巨悪の中心に自分を置き、悪の波動に自分の波長を合わせずにはおかなかったロティの文学魂に打たれるからだろうか?
モーパッサンは1881年にチュニジアの植民地戦争を取材して激烈な戦争反対の記事を書き、その中でプロシャ陸軍参謀総長モルトケの文書を引用している。
戦争とは神聖なもの、神の掟によるものである。それはこの世界の聖なる法の一つである。それは人間の内に、最も偉大で、最も高貴なる感情、名誉、公正、美徳、勇気を培い、一言で申すなら、最も醜い物質主義に堕するのを防いでくれるのである
英雄叙事詩の昔から戦争には勇気と美徳の後光がさしていたのだし、いまもプーチンやロシア正教のキリル総主教は戦争による魂の救済を説いている。まして帝国主義全盛のモーパッサンやロティの時代、誰もが徳高き戦争を信じていたのだろう。ときおり残酷な話が伝わってくるにしても、栄光ある戦争の公式プロパガンダが行き渡っていたから、ロティ自身、日記の中で「(彼の記事に対し)おぞましいとか破廉恥だとか叫ぶのは、戦争の真実をはじめて皆の前にさらけ出したからだ」と、弁明せざるを得なかったのだ。
ところで、モルトケ流の「高貴なる」戦争像をぶちこわすのに、モーパッサンの記事とロティの記事とどちらが強い破壊力を持っているだろう? いま読んでもポリティカル・コレクトネスにかなう平和主義者モーパッサンより、黄色いアジアの顔を憎悪し、日本女性と擬似結婚するいやらしい軍人ロティの方が、はるかに深く戦争の真実を伝えているように思えてならない。
ロティはもちろん平和主義者ではなかったが、文明伝達の使命を掲げるジュール・フェリーの植民地思想も信じなかった。政治も倫理も信じない男だったのではないか? ぼくは、小説でも絵でも音楽でも、まっさきに作家、画家の品性・倫理観が気になる方なので、ロティを読むには嫌悪感と戦わなければならない。植民地主義、オリエンタリズム、自然主義……レッテルはりの呪縛を逃れて、虚心にロティを楽しむことができればと思う。
(2023/07/15)