九州交響楽団第411回定期演奏会|柿木伸之
九州交響楽団第411回定期演奏会
The 411th Subscription Concert of the Kyushu Symphony Orchestra
2023年4月13日 アクロス福岡シンフォニーホール
April 13, 2023, Acros Fukuoka Symphony Hall
Reviewed by 柿木伸之(Nobuyuki KAKIGI)
写真提供:九州交響楽団(Photos by The Kyushu Symphony Orchestra)
〈演奏〉 →foreign language
指揮:小泉和裕
九州交響楽団
〈曲目〉
アルテュール・オネゲル:交響曲第3番「典礼風」
ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン:交響曲第3番変ホ長調「英雄」作品55
オネゲルが第二次世界大戦の終結からほどない時期に発表した交響曲第3番「典礼風」の第2楽章は、ヘブライ語聖書の詩編にもとづいて「深き淵から」と題されている。このアダージョの楽章の冒頭で遠くから聞こえてくるのはやはり、戦争によって「深い淵の底」へ突き落とされた者たちがそこから「主を呼ぶ」さまざまな声だろう。小泉和裕が指揮する九州交響楽団の演奏によるこの楽章を聴いてまず印象的だったのは、救いを求める声たちの歌が自然に応え合っていたことである。
声たちはやがて折り重なり、一つの流れを形づくる。その高揚は、地の底からの、そして魂の奥底からの願いを止めどなく湧き上がるように響かせながら、そこに複数の声があることを忘れさせることはない。だからこそ、この祈りの歌は力強く語りかけてくる。ここには、小泉が音楽監督として十年にわたり九響とともに追究してきたであろう音響の姿が象徴的に表われていると同時に、戦火が止まない今に生きる者の魂を揺さぶる歌が響いていた。
「深き淵から」の楽章の終わりでも、「われらに平和を」と題された最終楽章の終わりでも、旋回しながら舞い上がる鳥の姿とその歌を一つながらに響かせるように、フルートの旋律が鳴り響く。それはとくに全曲のコーダにおいては、傷ついた者たちを包むような弦楽器の響きに乗って、その魂を天へ引き上げるようだった。ただし、その美しさが際立つのは、人間による人間の破壊を正視する音楽との対照においてである。そのような音楽が、両端楽章で厳格に響いたのも、今回の「典礼風」交響曲の演奏の特徴と言えよう。
「怒りの日」と題された第1楽章では、人間を否応なく巻き込んでいく巨大な運動と、そこから逃れようとする人間のもがきとの抗争が、オネゲルに独特の音楽の躍動として迫ってくる。それは最終楽章において、一つの機械と化した集団の運動を形成することになるが、小泉と九響は明確な響きを持続させることによって、そこに音楽としての説得性を与えていた。トロンボーンをはじめ低音の楽器が描く仮借のない前進と、ホルンの咆哮などが示す、それに対する反抗との緊張関係が、音響の緊密さに結びついていたが、それによって、戦争を体験するなかで作曲家が抱いた、集団としての人間に対する問題意識も浮き彫りにされていた。
演奏会の後半では、ベートーヴェンの「エロイカ」交響曲が取り上げられたが、これも戦争を背景に作曲されている。ヨーロッパ全体を巻き込むことになるナポレオン戦争のなかで深められた人間への問いが、破格の規模を持つとともに、思想の表現を含んだ交響曲を作曲家に書かせたことは、今回の演奏からも伝わってきた。その頂点は、葬送行進曲と題された第2楽章のフガートにあった。そこでは悲哀を基調に、死者に対するいくつもの、相対立するものを含んだ思いが激しく衝突していた。
弦楽器の上向音型に乗ってホルンが英雄的な人格を歌い上げようとするかと思えば、それを打ち消すかのような悲痛な響きが空間を貫く。こうして荒れ狂うかのようなフガートは、心底からの悲しみをうねるように響かせる歌へなだれ込んでいく。小泉と九響による「エロイカ」交響曲の演奏で最も印象的だったのは、こうした感情の葛藤とも結びついた劇的な表現だった。最終楽章のハンガリー風の旋律が表われる変奏においては、血湧き肉躍るような躍動が嵐のように迫ってきた。
ただし、今回の演奏の劇性は、激しいフォルテからのみもたらされてはいない。葬送行進曲でコントラバスがピアノで奏でる前打音の動きからも、感情のドラマが感じられた。全曲をつうじてコントラバスの雄弁さが印象的だったが、それは作品と、それに対する小泉のアプローチにふさわしかったと思われる。小泉は、バスの動きを際立たせることによって、リズムの躍動に芯を持たせるとともに、曲の輪郭を明確に描き出そうとしていた。その一方で、自在なアゴーギクを利かせることで、ひと筋の雄渾な流れを響かせようともしていた。
そのことが示すように、小泉の「エロイカ」交響曲の解釈は、ロマン主義的とも言える仕方で、モダン楽器の特性を最大限に活かすものと言える。弦楽器奏者の数は減らされていなかったし、冒頭楽章のコーダの頂点では、トランペットが第一主題を最後まで吹奏していた。今回の演奏は、そうした、ひと頃まで一つの伝統をなしていたアプローチによって、ベートーヴェンが書いた音楽の力を引き出そうとするものと言える。その試みは、壮大であると同時に生気と力感に富んだ、この作曲家にふさわしい作品像を描くのに成功していた。
その要因はまず、小泉が「エロイカ」交響曲を貫く音楽のダイナミズムを完全に摑んでいたことにある。このことはオネゲルの交響曲についても言える。小泉と九響の演奏は、今回二つの第三交響曲を取り上げる必然性を感じさせるものだった。オーケストラの献身的な演奏も忘れがたい。とはいえ、ベートーヴェンの交響曲に関して言えば、作品像に点睛を欠いた感も否めない。先に触れたように、今回「エロイカ」は大編成で演奏されたが、そのためもあって音響の焦点が定まらなかったところが見られた。
各セクションが一体となって、真に求心力のある響きが作り上げられたなら、葬送行進曲の最後のクライマックスでは、もう一歩踏み込んだ表現が可能だったのではないか。それに続く、時を刻むかのようなリズムに乗って奏でられるヴァイオリンの旋律は、もっと繊細に響いたのではないだろうか。それによってこそ、ベートーヴェンの音楽は、哀しみを抱えて生きる者の魂の奥底に届くはずである。今回の演奏会は、新たなシーズンの幕開けを告げるものだった。今季、小泉と九響はベートーヴェンの他の交響曲を取り上げる予定である。その際に、この作曲家の音楽の核心にさらに迫った、そしてモダン楽器によるアプローチの可能性を示す演奏を聴かせてくれることを期待している。今回の演奏は、小泉と九響こそが歩みうるその道を指し示していた。
(2023/5/15)
柿木伸之(Nobuyuki Kakigi)
美学を中心に哲学を研究する傍ら芸術批評を手がける。著書に『断絶からの歴史──ベンヤミンの歴史哲学』(月曜社、2021年)、『ヴァルター・ベンヤミン──闇を歩く批評』(岩波新書、2019年)、『燃エガラからの思考──記憶の交差路としての広島へ』(インパクト出版会、2022年)などがある。訳書に『細川俊夫 音楽を語る──静寂と音響、影と光』(アルテスパブリッシング、2016年)などがある。現在西南学院大学国際文化学部教授。ウェブサイト:https://nobuyukikakigi.wordpress.com
[Performer]
Conductor: Kazuhiro Koizumi
The Kyushu Symphony Orchestra
[Program]
Arthur Honegger: Symphony No. 3 “Liturgique”
Ludwig van Beethoven: Symphony No. 3 in E-flat Major Op. 55 “Eroica”