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シャイニング・シリーズVol.12 北村朋幹 ピアノ・リサイタル|藤原聡

シャイニング・シリーズVol.12 北村朋幹 ピアノ・リサイタル
Shining series Vol.12 Tomoki Kitamura Piano Recital

2023年2月25日  東京文化会館小ホール
2023/2/25 Tokyo Bunkakaikan Recital Hall
Reviewed by 藤原聡 (Satoshi Fujiwara)
Photos by 飯田耕治/写真提供:東京文化会館

(曲目)        →foreign language
シューマン:森の情景 Op.82
ホリガー:エーリス 3つの夜曲
バルトーク:戸外にて Sz.81 BB89
ノーノ: …..苦悩に満ちながらも晴朗な波…[エレクトロニクス:有馬純寿]
シューマン:暁の歌 Op.133
※アンコール
シューマン:子供のためのアルバム Op.68〜第15曲 春の歌
シューマン:森の情景 Op.82〜Ⅸ.別れ

 

かつて浅田彰は映画作家トリュフォーとゴダールの対比を武満徹と高橋悠治のそれと並置したことがあった。トリュフォーと武満徹の場合、その作風は何らかの内的関連やその時々の興味対象、そして作家の円熟による作品/メチエの深化といった軌跡をある程度明快かつなだらか、そして物語的に辿ることが可能なのに対し、ゴダールと高橋悠治においてのそれは一見脈絡がなく、一般的な意味でのストーリーは容易に見出し難い。その都度の作家の興味は自身の中で必然的な連関があろうとも、それが分かり易い物語に回収されることを拒むのだ。または、あらかじめ想定した軌跡を辿るのではなく、自身のその都度の内的欲求に従って、傍から見れば衝動的、非因果的とも取れるアウトプットが行われる。なぜいきなりこんな話から始めたのかと言えば、筆者は北村朋幹の活動にゴダール=高橋悠治的なものとの同質性を感じたからに他ならない。それは彼の今まで/これからのレパートリーを見れば明らかで、当リサイタルでは北村自身の語るところによるとそれは「夜の音楽」なるコンセプトの元に構成されており、シューマンを初めとしたロマン派の源たる夜あるいはシューマンの心の闇、有機物が蠢き出すバルトークの夜、ホリガーの『エーリス』の詩的源泉となったトラークルの精神の薄明、元来「夜=夜明け」とのタイトルを持っていたノーノ作品(さらに筆者が追加すればワーグナーの『トリスタンとイゾルデ』やジャンケレヴィッチの著作『夜の音楽』、レヴィ=ストロースとの精神的相同性も当然あるだろう)、とそのコンセプトはなかなかに明白ではあるが、しかしシューマンからノーノの振れ幅だ。現在リストの『巡礼の年』を継続的に演奏するシリーズを行っており、他方ケージの『ソナタとインターリュード』の録音まで行っている北村はインタビューで高橋悠治からの影響を語っていて、やはりそうなのだと合点が行く。この「とっ散らかり方」はいかにも高橋悠治的ではないか。と、話はここで冒頭の浅田彰に繋がる。以上は前置き。

さてリサイタル当日。軽やか、とも言えるにせよ、むしろいささか不安定なぎこちなさと形容した方がしっくり来る様子でその細い体躯を翻しするっとステージに登場した北村はまずシューマンの『森の情景』を弾き始める。その演奏はしかし、当初こちらが(勝手に?)想像していた重々しく沈滞していくようなものとは違い、基本的に小気味良いテンポと明快なダイナミクスを駆使した「明るい」演奏であり、それは「孤独な花たち」や「気味の悪い場所」でも変わらない。名高い「予言の鳥」においても不気味さよりは浮遊するかのような浮世離れした軽さがある(この辺りは内田光子などとは正反対だ)。深読みに過ぎるかも知れぬが、これなども北村の戦略とも取れるのだがさて。

ホリガーの『エーリス』は紛うことなき名演。極限まで切り詰められた音数、抑制された特殊奏法を用いての異界からの声、雄弁な間=沈黙の効果。筆者が複数種類聴いたことのある他の演奏に比べても、これらを北村はこの上なく活かし切っていたように思う。ここまでの2曲においても既に一筋縄では行かない北村の相貌が感知されよう。

録音も行っているバルトークの『戸外にて』は野蛮の極みを行く洗練された演奏だ。つまりバルトークの意図を正確に反映した演奏ということだが、例えば「舟歌」でのたゆたうリズム的な妙味や「夜の音楽」における音色の多彩なグラデーション、そしてどれだけ暴れても品格を失わない「狩」、まったく一級品である。この辺りは録音よりも断然素晴らしい。

しかしノーノは難しい。何せ初の実演体験なのだから(ポリーニのそれは不参加)。その上で何事かを記すならば、ここではライヴ・エレクトロニクスの効果はかなり抑制されたものとして扱われ、生演奏とのコントラストよりは両者が寄り添ったものとして聴こえた。素人聞きながらその音響バランス調整は実に巧みなものであるのは容易に理解できる(特に後半部)。繰り返すが実演未体験であり、録音で接していたポリーニ及びKairosレーベルのジャン・ミシェルズ盤と一概に比較は出来ないが、演奏の質自体はポリーニの激烈な硬質さは感じられず、より美しさを志向したものとなっていたように思う。これもまたノーノのイタリア的側面を表象したものと感じたのだが如何に。演奏終了後には客席中央の調整卓に陣取っていたエレクトロニクスの有馬純寿氏もステージに招かれ聴衆の拍手を浴びる。

鬱蒼とした森の中から朝=暁へ。シューマンの『森の情景』から始まったリサイタルは同じ作曲家の『暁の歌』で閉じられようとしている。ここで北村は5曲のそれぞれを柔らかな音色で溶け合わせ、暁でありながらも極めて夢幻的な様相で描き出していた。つまるところシューマンは夜の世界の住人であり、しかしそれでも暁を志向するという相克。なお、当リサイタルのプログラムは北村自身が執筆しており、『暁の歌』の項目において同じシューマンの交響曲第2番と『暁の歌』の主題的関連について触れているが、ここでのディオティーマへの言及からはノーノの『断章=静寂、ディオティーマへ』を想起させ、さらにはヘルダーリンからはホリガー諸作におけるこの詩人への傾倒が直ちに思い起こされよう。全ては繋がっている。

アンコールはシューマンの『子供のためのアルバル』から「春の歌」、そして再び『森の情景』から終曲の「別れ」。前者は作曲家の愛らしい素朴さが魅力的な佳品だが、後者の演奏は本プログラム時の演奏よりも一層情感に満ちていたように思う。

北村のリサイタルは、卓越した演奏それ自体に耳を澄ませるのは当然として、多様な知的連関を解きほぐす/想いを巡らせることの愉しみを提供してくれる。この上なく豊穣な世界へようこそ。

(2023/3/15)

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〈Player〉
Kitamura Tomoki

〈Program〉
Schumann:Waldszenen,Op.82
Holliger:Elis Drei Nachtstücke
Bartok:Szabadban,Sz.81,BB89
Nono: …..sofferte onde serene…[Electronics:Arima Sumihisa]
Schumann:Gesange der Frühe,Op.133
※Encore
Schumann:Album für die Jugend,Op.68〜No.15 Frühlingsgesang
Schumann:Waldszenen,Op.82〜Ⅸ.Abschied