ロナルド・ブラウティハム|丘山万里子
ロナルド・ブラウティハム
Ronald Brautigam, fp
2022年11月29日 トッパンホール
2022/11/29 TOPPAN HALL
Reviewd by 丘山万里子 (Mariko Okayama)
Photos by 大窪道治/写真提供:トッパンホール
<曲目&楽器> →foreign language
ベートーヴェン:エロイカの主題による変奏曲とフーガ 変ホ長調 Op.35
ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第23番 ヘ短調 Op.57《熱情》
使用楽器:ポール・マクナルティ製作、1800年頃のアントン・ヴァルター・モデル
〜〜〜〜〜
シューベルト:ピアノ・ソナタ第21番 変ロ長調 D960
使用楽器: ヨハン・ゲオルク・グレーバーのオリジナル(ウィーン式/1820年製)
(アンコール)
シューベルト:楽興の時 D780より 第3番 ヘ短調
ベートーヴェン:バガテル《エリーゼのために》イ短調 WoO.59
ステージに並んだ木目の古雅な2台のフォルテピアノ。
とりわけ後半のシューベルトで使用されるヨハン・ゲオルク・グレーバーのオリジナルのゆたかな装飾が美しい。
もう一つはベートーヴェン用のポール・マクナルティ製作、アントン・ヴァルター・モデル。
開演前、三々五々、興味深げに覗き込み、あるいはスマホ撮影するファンたち。
いつも聴くモダンピアノがなんだか厚化粧の女、みたいに思えたこの日の演奏。
もちろん楽器のせいもあるけれど、当時、ベートーヴェンが、シューベルトがどんな音響世界で遊んでいたか、生きていたか、夢見ていたか。
一方で、各々の時代・社会での居場所、のようなもの。
それを浮き彫りにしてくれたブラウティハムの、知情意のバランスの見事さ。
いや、知情意とは「人間の精神活動に含まれる三要素:知性、感情、意志(『大辞林』)」であれば、筆者はむしろ仏教における身口意(しんくい)としたい。すなわち、身体の働きである身(動作、振る舞い)、言語活動である口(表現)、精神作用である意(思慮分別)の三つで、これを三業と言う。
ブラウティハムが創出した音楽はこの三業が同期する生命体、つまり三位一体の「響き」の搏動であった。
それにしても、楽器の響き、それ自体の雄弁さはどうだろう。
ブラウティハムではとくにそれが際立つ。
エフェクトを削ぎ落とした素の音楽のフォルムが、その響きから立ち現れる。
ベートーヴェンにおける変奏とは、ソナタとは、とかいうふうに。
いやまず、樹の声だ、その響きの手触り。
黒塗り、ぴかぴかの例えばスタインウェイに、それは決して無い。
生(き)の声なのだ。
そしてエロイカの主題、その導入、コード(和音)の一打から身を潜めての低音での咳払い、と、そこに鉄槌が下ろされる。B(シ♭)のダダダン! 続く、いたってのびやかな旋律。お天気屋ベートーヴェンの「振る舞い」が見えるようではないか。ボンのベートーヴェンの生家で見たすり減った鍵盤(特にC,E,F,G)、歯並びが悪いみたいにガタガタに並んだそれを思い出す。
それからの変奏は、低音主題と高音主題が入れ替わり立ち替わり、なのだが、つまりは冒頭コードをひたすら様々な形で飾り動かしているだけの組成。大事なものはたったひとつ。あとは全てそれの変容変異、見せ方の違いだけ。ここぞというところで鳴らされる Bは、いわば世界の基底音。
ブラウティハムの身口意はかくてベートーヴェンがいかに音と遊びながら「たったひとつ」のもつ本質・真髄に迫ってゆくかを明らかにするわけだ。
それがくっきり劃然と見えるのは、やはり響きに余計なにじみ、ぼかしがないからで、どの音もキッパリとそこにある。しかも雑味を含むそれぞれの「声音(こわね)」で私はここ、とそう主張する。フォルムというのはそこからこそ立ち上がってくるものだ、とそう言う。
終盤、第14変奏の短調の響きのやるせなさ。そこからたっぷりした間合いで歌われる最後の変奏、トリルのちゃらちゃら飾りの揺れ具合のチャーミング。Codaでは不安と慰撫が交差し、パキパキ積木のようにフーガが積まれ、トリルの細波で目配せし、軽やかなダンスのあと、アルペッジョの波にのってとどめの主和音が鳴り響くと、「本質を追え!」とのベートーヴェンの赫赫たる声が響き渡るのであった。
変奏曲ってこんなに凄いものだったなんて、と筆者、すっかり変奏曲に目覚めた気分。
この楽器の、とりわけ低音と高音のまるきり異なる響きの質は、『熱情ソナタ』でいっそうその劇性を高める。
とにかく、テーマのトリルの乾いた質感に加え、運命の動機がドロドロドロンと響くたび、エロイカの Bよりもっとおどろおどろしい怪異までがよぎるのだ、亡霊の如く。それにEs(ミ♭)の同音連打の疾走もドローンのように提示部の奥行きをつくる。ショパンの雨だれはベートーヴェンでは岩を穿つものだったと。古典からロマンへ、そこにベートーヴェンその人の総身の跳梁、意志が見える。そうして低音と高音の激しい往来にあって音たちはゼウスのごとく天翔るのだ。「ソナタ」形式とはそのように、いや、「熱情ソナタ」とはそのように天界めがけて屹立する尖塔に他ならない。
だからこそ、第2楽章、左手の下降付点音型の沈み具合が深く胸を衝いてくる。穿つのでなく、ぐうっと圧で沈みこんでゆく働き。こういうところでの低音の鳴りがずっと尾をひく、それがベートーヴェンの感知、ここでの変奏の肝であったのではないか。アタッカで飛び込む終楽章の一気呵成、その前の一瞬のppの和音こそ、熱情噴出の導火線。
もう一台のオリジナル楽器での後半のシューベルト。
のどやかとも言える冒頭テーマの終尾に鳴る低音のトリルが、前半のベトーヴェンのそれよりいっそう不安を掻き立てる。こちらの楽器は低音高音どころか、各パートの声色が全部違う。それでシューベルトを喋るのだから不可思議ワールドに迷い込んだような気分になる。もちろん、シューベルトの気まぐれさは天下一品なわけで、まさにその気まぐれがどう鍵盤の上を滑り、跳ね、愛撫し、涙ぐんだかを、鍵盤たちが全部そっくり話してくれるのだ。ブラウティハムの指の下からそれが聴こえる。
高音は金雲母を撒き散らすようだし、中音はまどかな温もり、低音はハスキーヴォイス、いやもっとこまごまとした声調が全てにあるのを筆者の貧しい語彙で述べるのは無理。
第2楽章。左手が右手を飛び越えてゆく、オクターブのその「振る舞い」にどれだけの音楽がつまっていることか。ブラウティハムの身体全体の質・重量が描く弧の下でそっと歌う音たち。短調から長調へのうつろい、儚い夢、少しの哀しさ。うんと飛んでの指先が撒く星ひとつ。
フォルム? シューベルトのそれは彼の魂さ、と、ここでピアニストは呟く。
それにしても、ピシッと背筋を伸ばし座った姿勢、足腰腕を決してバタつかせないブラウティハムの身口意の清廉な美しさ。溺れず醒めず、ただ仰ぎみる星空、あるいは覗きこむ澄んだ湖底。これが「転調」というものさ、と彼はささやく。
スケルツォの軽快とコロコロ粒立ちもまた独特。高音はガラスの鈴を振るようだ。
終楽章は冒頭に鳴る Gが基底音。その上にアクロバティックな音の妙技を見せるわけで、全域を駆け昇り駆け下りする声の競演が撒き散らす色彩のめくるめく乱舞は圧倒的だ。
パウゼからのプレストで彼は天へと一さんに馳せ、最後の狼煙をあげたのであった。
ともあれ、ベートーヴェン は積み上げるが、シューベルトは流れる。
「変奏」「ソナタ」「フォルム」?
つまるところ形がなんであれ、何かを生むのは「たったひとつのもの」、つまりその人の生きる「芯」なのだ。
なるほどベートーヴェンは階級社会から逸脱、自由と革命の灯火をかかげた自覚的音楽家だったろう。一方、シューベルトは自分の身辺周囲にとどまりながら、流離や旅への憧れの灯火を絶やせぬ音楽の漂泊者だったろう。
だが二人ともが燃やした灯火の「芯」にあったのは、人は歌わずに居られない、という、やむにやまれぬ欲動じゃないか。
これがブラウティハムの身口意が筆者に伝えたこと。
それから、私たちは、例えば世界遺産をライトアップしたり、紅葉にさらに照明を当てて鮮やかに見せたり、のデジタルカラー世界にすっかり馴染み、もの本来の持つ色味を忘れつつある、と、それも教えてくれた。
(2022/12/15)
————————————
<Program>
Beethoven : Variationen mit Fuge über ein Thema aus Eroica Es-Dur, Op.35
Beethoven : Sonate für Klavier Nr. 23 F-Moll, Op.57 “Appassionata”
Anton Walter Modell um 1800, von Paul McNulty
~~~~~
Schubert : Sonate für Klavier Nr.21 B-Dur, D960
Original von Johann Georg Graeber
<Encore>
Schubert:Moments Musicaux D780
Beethoven : Bagatelle “Für Elise” WoO.59