NHK交響楽団2022年11月定期公演Aプログラム|齋藤俊夫
NHK交響楽団2022年11月定期公演Aプログラム
NHK Symphony Orchestra 2022 November Subscription Concert A Program
2022年11月13日 NHKホール
2022/11/13 NHK Hall
Reviewed by 齋藤俊夫(Toshio Saito)
写真提供:NHK交響楽団
<演奏> →foreign language
指揮:井上道義
NHK交響楽団
<曲目>
伊福部昭:『シンフォニア・タプカーラ』
ドミトリ・ショスタコーヴィチ:交響曲第10番ホ短調作品93
井上道義がN響を振っての伊福部昭『シンフォニア・タプカーラ』、どう考えても最高の体験、となるはずだった。事実、この作品終演後湧き上がった拍手の熱気は大ホールの多くの聴衆にとってこの音楽体験が最高のものであったことを示していた、はずである。筆者が筆者でない他の人であったなら思い切り拍手していた、のかもしれない。それでも、今回のタプカーラのほぼ最初から最後まで、筆者が筆者であるからこそ感じ続けた違和感を記さずにはいられない。
この拭い難い違和感が今回の演奏のどこに由来したのかは判然としない。色々と呻吟して色々と探してみて、努めて客観的な見地の示唆を与えてくれるのは間宮芳生『現代音楽の冒険』(岩波新書)第5章「西のリズム 東のリズム」で論じられた「『加速派』リズム」「ゆっくりまたぎ」の2つのリズム・速度感覚である。
間宮による「『加速派』リズム」とは、フレーズの終わりに向かって演奏スピードを加速していき、新しいフレーズに至った時が最速のスピードになり、そこから減速して、またフレーズの終わりに向かって加速する、というリズム・速度による奏法である。これと対照をなすリズム・速度感覚が「ゆっくりまたぎ」で、これはフレーズの終わりで加速せずむしろ減速してテンポに溜めを作って、2つのフレーズの境を「ゆっくりとまたいで」新しいフレーズに入る、という奏法である。間宮は「『加速派』リズム」がヨーロッパの正統なリズム・速度感覚であり、「ゆっくりまたぎ」が日本伝統のリズム・速度感覚であるとする(ただし間宮は「ゆっくりまたぎ」が日本以外、ヨーロッパ内にもあることにも言及している)。今回のタプカーラにおいて少なくとも第3楽章は「『加速派』リズム」感覚での演奏であり、その意味で日本的ならざる演奏だったと筆者には聴こえた。だが、このリズム・速度感覚の日本的/非日本的な差異で筆者の違和感を全て説明することはできない。一体筆者は何に違和感を覚えたのだろうか。
井上道義の指揮法の1つとして、オーケストラを指揮することをやめたようにして、演奏を奏者の自由に任せるというものがある。演奏の〈勢い〉を殺さずにオーケストラを音楽の〈流れ〉に乗せる、井上一流の技術であるが、筆者は今回の演奏の違和感を読み解く鍵としてここに注目したい。今や、演奏を日本の奏者の自由に任せたとき、奏者が紡ぎ出す音楽は非日本的なものなのではないだろうか。また、奏者を自由にすることによって伊福部音楽から理性的側面が奪われ、野蛮・野卑な音楽と化してしまう――これも作品に宿る日本的理性を感得する力の欠如ゆえといえる――のではないだろうか。つまり、西洋的音楽を内面化した今の日本人奏者から日本的な伊福部昭音楽が自ずと生まれることはないのに、奏者に音楽を委ねた結果、日本的/非日本的な音楽ベクトルの混乱が生まれたのではないか、と筆者は推論する。もっとも、井上が指揮をやめるような指揮をしたのは曲全体の中の一部に過ぎないことからして、この推論は事の大小を見誤っているかもしれない。
そもそも、日本的/非日本的という筆者の謂はどこまで確かなのだろうか。N響と井上たちによる演奏が非日本的だったという判断、さらにその判断を下している筆者の感性が日本的だという仮定が誤っているのかもしれないではないか。さらには、伊福部昭の音楽は日本的たるべしという前提も、さらにさらにはどんな音楽が日本的でどんな音楽が非日本的かと判定できるという前提、〈日本的〉をめぐる自明性すらも誤っているのかもしれないではないか。
疑問百出して留まるところをしらないが、それでは、筆者が延々と悶々と悩み続けた違和感の正体は何モノなのだろうか。
結局のところ、それはわからないと言わざるを得ない。ただ、万雷の拍手をする聴衆の中に、終始違和感を抱いていた人間がここにいるということをただ記したいがために、書かずにはいられずにこの評を書いた。
前半の伊福部昭で悶々としてしまったが、気を取り直しての後半のショスタコーヴィチ交響曲第10番は素直な態度で聴くことが出来た。
第1楽章、ともすればファナティックになることも多いショスタコーヴィチ解釈とは対極的に繊細かつ精緻にオーケストラが音を綾なす。繊細精緻だからこそ音楽に内在する不穏さが感取される。やがて軍楽的な小太鼓の轟きに導かれて始まるフォルテで直接的な暴力が描かれた後、また不穏な弱音でどこかに去りゆく。
ショスタコーヴィチの交響曲群中最大級に激烈な第2楽章、ここはN響の技量に感服させられた。全パート、どんなに高速になってもリズムの縦の線が完璧に揃ったままで叫ぶその様に全体主義的暴力的威力を知らしめられた。
第3楽章、協奏的にソロ楽器が旋律を受け渡す所でまたN響の確かな技量が示された。笑っているのか怒っているのかわからない舞踏的音楽の中、DSCHの作曲者自身の音名象徴があちらこちらで現れる。恐るべきエネルギーのフォルテシモで踊り狂った後、また笑っているのか怒っているのかわからない楽想へ。実にロシア的・ショスタコーヴィチ的だ。
第4楽章、悲劇的序盤から一転して、何をそんなに喜んでいるのかと尋ねたくなる喜劇的プレストが始まる。井上の采配は異常なほど軽やかに、しかしあくまで正確に、整然とDSCH、すなわちショスタコーヴィチの名前を叫ぶ。その有り様は正気ならざるものを孕んでいる。ショスタコーヴィチは勝利した、のだろうか? 彼は歓喜していた、のだろうか?
筆者が敬愛する伊福部昭とショスタコーヴィチを井上道義・N響で、という盤石の布陣で聴けたのに、何故か残念な結果、というのとも異なる、聴いたものと筆者自身の内面との行き違いともいうべきものを体験し、心底不安になったがゆえに色々書き連ねてしまった。願わくばこの評が何か実りをもたらさんことを。
(2022/12/15)
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<players>
Conductor: Michiyoshi Inoue
NHK Symphony Orchestra
<pieces>
Akira Ifukube: Sinfonia Tapkaara
Dmitry Shostakovich: Symphony No.10 E Minor Op.93