KDDIスペシャル アンドリス・ネルソンス指揮 ボストン交響楽団|小島広之
KDDIスペシャル アンドリス・ネルソンス指揮 ボストン交響楽団
KDDI Special ANDRIS NELSONS Conducts BOSTON SYMPHONY ORCHESTRA
2022年11月9日 横浜みなとみらいホール
2022/11/9 Yokohama Minato Mirai Hall
Reviewed by 小島広之(Hiroyuki Kojima)
Photos by 藤本史昭/写真提供:横浜みなとみらいホール
<演奏> →foreign language
指揮:アンドリス・ネルソンス
ボストン交響楽団
<曲目>
マーラー 交響曲第6番
20世紀初頭を代表する大曲グスタフ・マーラーの《交響曲第6番》を、アメリカ屈指のオーケストラであるボストン交響楽団、そして世界で最も注目されている中堅世代の指揮者アンドリス・ネルソンス(Andris Nelsons, b. 1978)が演奏した。申し分ない組み合わせだが、日本の音楽ファンの反応は少なくとも数的には素気なかったようで、みなとみらいホールの50%以上が空席のままであった。その理由が高額なチケット価格設定にあるのか(最も廉価なD席が13000円、S席となると33000円!)、はたまたプログラムや演奏者の魅力の欠如にあるのか。あるいは、さしたる欠点がなかったにもかかわらず、人を惹きつけなかったのか。
名曲、名オケ、名指揮者が揃っていた。没落が囁かれて久しいクラシック音楽が、今なお失っていない良き特性を体現するような演奏会であった。それは「高貴さ」だとあえて言いたい。「作曲家が苦悩と喜悦を経て書きつけた楽譜という聖遺物を、幼少期から専門教育を受けた天才たちが音として顕在化させる」。そういった衒学的なイメージはむしろクラシック音楽の悪き一面であると、この演奏会評の読者は批判するかもしれない。しかしこの特性がこのジャンルの悪き面だけでなく良き面にも深々と根ざしているというのも事実である。たしかに「高貴さ」を支える制度は批判対象となるべきであろう。しかしながら、少なくとも限定的な意味において「高貴」であることをクラシック音楽はやめるべきではない。なぜなら、音について/音によって考える場としてのクラシック音楽は、極めて特殊な前提のもとで保障されているからだ。この諸前提を無闇に解体・消臭してしまえば、200年間にわたって展開してきた高慢で不器用だが愛すべき知的な営みが水泡に帰するだろう(もちろんクラシック音楽以外のジャンルにも知的な場があるが、それはそのジャンル固有の別種の特性に支えられているのであり、それをクラシック音楽に輸入することは容易でない)。音をめぐる思考は特別な人の占有物であるという特権意識はなるほど醜悪であるが、その反面で、その特権性がクラシック音楽の魅力として受容されてきた結果として、このジャンルの美点が涵養され、延いては数々の素晴らしい作品や演奏が生まれてきたのだ。マーラーの《交響曲第6番》は、マーラーが味わった苦悩を音によって抽象的に追体験するという「高貴な体験」に適した素材であり、また、ボストン交響楽団とネルソンスはその仲介をするのに適した音楽家であった。
しかし、もはや名曲、名オケ、名指揮者による来日公演に大きな資金を投入するだけでは、つまり単に「高貴さ」に怠惰に寄りかかるだけでは、人を魅了する演奏会は成立しないことがこの日明らかになった。ある特性が人を惹きつけなくなったのなら、その特性は次第に散じてしまうだろう。それは問題だ。「高貴さ」が重要であるならば、それに根ざした新たな魅力を示す必要がある。魅力ある「高貴さ」を!「KDDIスペシャル」のような輝かしい冠を持つ演奏会が今後その役割を担うならどれだけいいだろう。しかしながら、もしそのような演奏会を取り仕切る人々がクラシック音楽の「高貴さ」を貪りながら、逃げ切りを計るのなら、小さいプロダクションが旺盛に運動するしかないだろう。毛細血管レベルから身体全体の血の滞りを解消させるような困難な試みだが、やむを得ない。立場の強い者が現状に耽る一方で、弱い者が未来のために戦う必要があるというのは非常に残念なのだが、恨んでばかりいても何も始まらない。
この日の演奏の特徴を描き出すために、ネルソンスと同世代の指揮者テオドール・クルレンツィス(Teodor Currentzis, b. 1972)が近年リリースした同曲の録音との比較を行おう( Sony Classical :19075822952)。彼らは共に優れた音楽家である。つまり、音楽作品を音符という数理的記号の集積物としてではなく、色彩を持ったジェスチャーの集まりとして見るのだ。その先に彼らが取る指揮のアプローチはそれぞれ個性的である。クルレンツィスの場合、作品の要点をとらえた上で、それを際立たせるような仕掛けを露骨に施す。カリカチュアやパロディにならないギリギリのところまで彩度を上げた音楽は、麻薬的な熱中をもたらす潜在能力を持っている。一方、ネルソンスが同じく音楽作品の要点をとらえた上で行うのは、加工などせずとも美しい音楽作品という織物を一切の皺など寄らないように展開することである。むろんそれをするためにネルソンスも周到に仕掛けを施しているのであろう。だがあくまでネルソンスの態度は、音楽が機械的動力なしでも動く生命であることを信じているかのようである。彼はフレーズを恣意的に縮小・拡大することをしない。ただこの日、例外的に金管楽器による旋律群が誇張されたことは残念であった。極端なテヌートによって、良く言えば雄弁、悪く言えば粘着質に音が仕上げられた。問題は、その結果として聴き手の耳は強奏に慣れきってしまい、トゥッティのフォルティッシモが我々に感銘を与えようとするときには既に摩耗してしまっていたことである。結果として音楽は、第3楽章にさしかかるころには生気を失ったように見えた。無為に広げられた生きた音織物。それを束ねるエラン・ヴィタルは意外なほど些細な瑕疵によって力を失ってしまったのである。
(2022/12/15)
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<Players>
Conductor: Andris Nelsons
Boston Symphony Orchestra
<Program>
Gustav Mahler: Symphony No. 6 in A Minor
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略歴
小島広之(Hiroyuki Kojima)
Twitter:https://twitter.com/kojimah note: https://note.com/kojimahi/
音楽学者として1920年ごろの作曲論について研究している。主たる研究対象は音楽批評家パウル・ベッカーとその周辺の作曲家ブゾーニ、ヒンデミット、クレネクら。主な論文に「パウル・ベッカーの客観主義的な音楽美学」『音楽学』第67巻第2号。音楽批評家として主に現代音楽を対象に論じている。第9回柴田南雄音楽評論賞奨励賞受賞。さらに、現代音楽の作曲家に取材するウェブメディア「スタイル&アイデア:作曲考」を運営している(https://styleandidea.com)。