JOHN CAGE / DAVID TUDOR|西澤忠志
2022年11月26日、27日 京都芸術センター フリースペース・講堂
2022/11/26, 27 Free space and Auditorium in KYOTO ART CENTER
Reviewed by 西澤忠志(Tadashi Nishizawa)
Photos by 林口哲也/写真提供:John Cage Countdown Event 実行委員会
<出演> →foreign language
Gak Sato
吹田哲二郎
竹村延和
ニシジマ・アツシ
Haco
村井啓哲
恵良真理
森本ゆり
<プログラム>
11月26日(土)
第1部 デイヴィッド・チューダー「Rainforest IV」(1973)
第2部 ジョン・ケージ「Music for Marcel Duchamp」(1947)
「Inlets」(1977)
「One 7」(1990)
「Winter Music」(1957)
「Song Books」(1970)
「Sculptures Musicales」(1989)
「Ryoanji」(1983-1985)
「Branches」(1983)
「Ophelia」(1946)
11月27日(日)
第1部 デイヴィッド・チューダー「Rainforest IV」(1973)
第2部 ジョン・ケージ「Bacchanale」(1938-1940)
「Imaginary Landscape No.1」(1939)
「Four3」(1991)
「Experiences No.2」(1948)
「Fontana Mix」(1958)
「Cartridge Music」(1960)
「Radio Music」(1956)
「Suite for Toy Piano」(1948)
今回の公演は、ケージの没後30年を記念して、彼の生誕100周年記念公演(“John Cage 100th Anniversary Countdown Event 2007-2012”)の演奏者が再集結し、「改めてケージの音楽や思想に着目し、今日的意義を問う」というもの。そのためか、10年前とは違う作品を取り上げ、異なる曲を組み合わせた、意欲的な曲目構成となっていた*。
とりわけ注目すべきは、最初にデイヴィッド・チューダー「Rainforest IV」を「演奏」したことだろう。ケージの友人にして、共同制作者。チューダーがケージの作品を演奏したことは知っているが、両者の作品が同じ演奏会で上演されたことは、管見の限り、知らない。
これがどのような意図によるものか。楽しみにしながら会場に入った。
フリースペースに入った時、すでにチューダー「Rainforest IV」の「演奏」は始まっていた。眼前に広がるのは、窪んだスペースに吊り下げられた無数のオブジェ。これらは、演奏者によって選ばれたものとのこと。学校用の椅子と机、プラスチック製の青い円筒形のゴミ箱、小さな金庫、古ぼけたドラムセットのバスドラム、金網フェンス、ラインパウダー…。元は小学校だった会場を意識してか、学校で使われていただろう色とりどりのオブジェが、黒を基調とした会場の中で吊るされている。
そこにむき出しにされたスピーカーのセンターキャップが、直に貼り付けられる。スピーカーから発せられた音はオブジェを介して、振動音とともに空間中に広がる。加えてオブジェには、ピエゾピックアップが貼り付けられている。オブジェの振動は、これによって電気信号に変えられ、対角線上に座る演奏者に送られる。演奏者は、送られてきた電気信号を操作し、東西南北に置かれた四つのスピーカーから音を出す。
「Rainforest IV」にも「楽譜」に該当する設計図は存在するが、そこから出される音は一定のものではない。オブジェの性質や会場の空気によって常に変化する。
会場の四隅に座り、オブジェの周囲を回り、その変化に身をゆだねた。
オブジェの近くに寄って、開いている空間の中に顔を入れてみる。耳に振動が直接当たり、肉体を通して、振動音と合わさって生生しく、鋭く聞こえてくる。そのオブジェが持っていたであろう、音の媒体としての豊かな可能性を覗かせる。時折聞こえてくる、学校用の椅子と机から聞こえる鳥の鳴き声は、この机と椅子が浴びていたものだったのだろうか?
電子音は、概してしばらくしてくると単調に聞こえてくる。しかし、絶えず偶発的な変化を作りだしていくことによって、飽きの来ない空間を作り出し、想像力を刺激された。
休憩中に二階の講堂へ行く。眼前に広がるのはピアノを中央にした、多くの「楽器」たち。ほら貝、サボテン、脚立、電子機器、無数の机などなど。ここから、どのような演奏が始まるのだろうか。通常の演奏会とは異なる「楽器」たちを南北から挟むかのように置かれた客席に座る。消灯ののち、青白い照明がともり、第2部に移る。
「Music for Marcel Duchamp」。旋律は極めてシンプルである。加えて、別の音源に比べて、音の並びがはっきりわかるくらいに、明瞭なピアノの音だった。魅力的だったのは、旋律だけではない。サスティンペダルを多用したピアノの残響音によって、それまでのDからEsにかけての旋律の残り香が合わさった柔和な響き。こうした旋律に加えて、プリペアド・ピアノによる打楽器のような素朴な響きの対比。一台のピアノを聴いているような感覚ではない、ピアノの多様な響きをみせた。
「Inlets」「One 7」。
入り口近くに置かれた3つのほら貝に青白い照明が照らされ、演奏が始まる。ほら貝に入った水の音、「ちりちり」と松ぼっくりの焼ける音がスピーカーから流され、誰も音を立てることなく、繊細な音に耳をすませる。私が座っていた位置の後方から現れたほら貝の咆哮によって、別の音が加わる。何かを引っ掻き回し、叩きつけるような固い音、トンビの鳴き声、鈴の音。中央のスピーカーから発せられる多くの音に意識が集中する。
「Winter Music」、「Song Books」、「Sculptures Musicales」。
中央のピアノによる「Winter Music」の周りで、「Song Books」が演奏される。ファスナーを開け閉めする音。車輪をつけたテーブルで滑りつつ拡声器から叫ぶ。脚立に上り、客席の前に落ち葉を散らす音。落ち葉を踏みしめる音。タイプする音。音だけにとどまらない。新聞紙やリンゴを切る。袋からリンゴを取り出し誰かにプレゼントする。コーヒーを淹れる。キャスターで映像を投影する。脚立に紐を掛けて縄跳びのように回す。ピアニストの後ろで鏡を回す。などなど。情報の嵐の中で、スピーカーからは時折、横断歩道から聞こえてくる鳥の鳴き声が聞こえる。中にはデュシャンへのオマージュも多数含まれている。自転車の車輪を吊るし、その傍らでチェスを行う。こうした膨大な音の中でも、ピアノ(「Winter Music」)は邪魔することなく、音を響かせていた。
いずれの作品も「楽譜」は存在しているが、演奏者の裁量に任せられた部分が多い。それらが同時に演奏されたが、点でバラバラなカオスなものではない。むしろ「Song Books」の前に試みられた「ミュージサーカス(Musicircus)」のような、様々な偶発的な出来事が隣り合っていつつも、予めプログラムされたような洗練さをみせた。
「Ryoanji」「Branches」
持鈴、篠笛、植物に青白い照明が照らされ、場はしずまる。
持鈴を机に叩く、重い音によって場の空気は一気に締められる。そこを揺蕩う2本の篠笛の音。鋭く明瞭な音と息を大目にした音を使い分け、グラデーションを示している。そこにサボテンの棘、松ぼっくり、クルミなどの植物を、竹串や鳥の羽でこすり、マイクで増幅した音が、中央のスピーカーを通じて拡散される。三者の繊細な音に、誰もが耳をそばだてていた。
「Ophelia」
再び、白い照明がピアノに照らされる。最初のリジットなメロディによって、それまでの幽玄な空間から、一気に現実に引き戻される。舞踏のための音楽だからか、最初の「Music for Marcel Duchamp」と異なり、はっきりとした音で進んでいく。最後の音が終わった瞬間から、拍手が起きた。
• * *
2日目も、デイヴィッド・チューダー「Rainforest IV」から始まる。1日目の「演奏」を聴いていたせいか、驚きはなかったが、会場全体を見回すと、前日との違いを発見した。まずスピーカーの位置。1日目のスピーカーは、会場上部の客席と同じ位置に置かれ、2日目は三脚がつけられ、より高い位置に置かれていた。上段と下段との音の違いを際立たせるためだろうか。そしてオブジェの音の位置。1日目では音が出ていなかった金網などのオブジェが、2日目では轟音を立てていた。1日目とは異なり、鋭い金属の振動音や、天井付近に吊るされた鉄板の鈍い音のコントラストが目立った。そして終わり方。1日目は急な拍手によって演奏は断たれたが、2日目は徐々に音を減らしていくことで、静かに終わった。終わったあとの、少しばかりの余韻が心地よい。
2日目の第2部も、通常の演奏会では見られない、レインスティックや電子機器、そして一段上に置かれたトイピアノといった「楽器」たちが、ピアノの周りに置かれ、これから始まる演奏への期待を膨らませた。
最初は、「Bacchanale」から始まる。プリペアド・ピアノ特有の鋭角のとれたかすれた音とは異なるものだったが、「Music for Marcel Duchamp」の豊かな響きとは対照的な、鋭く明瞭な響きをみせる。その一方で、スクリューボルトを弦に挟んだBの音は、打楽器のようなかすれた音をみせる。この響きのグラデーションに目を見張った。
「Imaginary Landscape No.1」
一気に耳から頭へ突き抜ける、レコードから流れる鋭い電子音によって、緊張感が場に満たされる。シンバルの拡散する柔らかな響きによって中和され、緊張と弛緩を繰り返しながら、飽きのこない空間をみせる。
「Four3」「Experiences No.2」「Fontana Mix」
図形や透明なシートを重ね合わせた楽譜を使用する「Fontana Mix」という全体図の中で、「Four3」と「Experiences No.2」が演奏された。青白い照明に照らされつつ、3種類のレインスティックを3人の演奏者が奏でる、涼やかな空間。その中から、ピアノの一音一音と歌声が幽かに聞こえてくる、和やかな空間。
「Cartridge Music」「Radio Music」
白い照明に照らされ、3人の演奏者が、机の周りに集まる。金属を弾き、カートリッジを通じて増幅された音によって、それまでの空間は一変する。ダイナミックな音。演奏者の動きは派手なものではなく、スムーズなものとなっている。しばしの静寂の後、後ろのスピーカーからラジオの音が重ね合わされる。ノイズと時折聞こえてくる番組の音、増幅された金属音とが組み合わせられ、その情報量に圧倒された。
「Suite for Toy Piano」は、トイピアノの金属弦を弾く音とキーをたたく音による、くすみつつも涼やかな響きに、意識が吸い込まれていく。膨大な情報量を受け取ったあとの清冽な響きによって、体が和らいでいく。最後の音が消えた瞬間、しばらく無音が続き、爽やかな感覚だけが残った。
ケージの作品も、チューダーの作品も、寄せ来る波のように緊張と弛緩を繰り返す音に耳を傾けた。「きいた」というよりも彼ら(ケージ、チューダー、演奏者)が作り出した空間に浸かり、サウナのように、温浴と水風呂を繰り返して「ととのう」体験だったといえる。これは今回の公演は、プログラムの順番が緩急をつけるものだったためだろう。
では、今回の公演の目的「改めてケージの音楽や思想に着目し、今日的意義を問う」とはなんだったのだろうか。これを簡単に語ることは難しい。なぜなら、今やケージやチューダーは現代音楽における「古典」となっているためだ。無論、ケージやチューダーを意識した作品は、これまでも盛んに発表されている。しかし、だからといって今回の体験がありきたりなものだったという訳ではない。彼らの「音楽」の鮮度はいまだに残り続けている。それはなぜか。おそらくケージが理想とした「あらゆる秩序がおのずと生じて、自由に結びつくままにしておく」社会**が、いまだ果たされていないままだからだろう。演奏会も同じ。管見の限りではあるが、「Song Books」のような「ミュージサーカス」に類する実践は、ある特定の祝祭でしか実施する機会がない。皮肉なことだが、ケージの理想とした世界や「音楽」が「ユートピア」であり続けることで、作品の鮮度は保たれている。
願わくは、「ユートピア」がより多くの「音楽」の場で実現されんことを!
*10年前の公演は、以下の「ジョン・ケージ生誕100周年記念コンサート」のオフィシャルサイトから確認することができる。( http://www.jcce2007-2012.org/)
**白石美雪『すべての音に祝福を――ジョン・ケージ50の言葉』151ページ
(2022/12/15)
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<Artists>
Gak Sato
Tetsujiro Suita
Nobukazu Takemura
Atsushi Nishijima
Haco
Keitetsu Murai
Mari Era
Yuri Morimoto
<Program>
26. Nov.
Part1 David Tudor: Rainforest IV(1973)
Part2 John Cage: Music for Marcel Duchamp(1947)
Inlets(1977)
One 7(1990)
Winter Music(1957)
Song Books(1970)
Sculptures Musicales(1989)
Ryoanji(1983-1985)
Branches(1983)
Ophelia(1946)
27.Nov.
Part1 David Tudor: Rainforest IV(1973)
Part2 John Cage: Bacchanale(1938-1940)
Imaginary Landscape No.1(1939)
Four3(1991)
Experiences No.2(1948)
Fontana Mix(1958)
Cartridge Music(1960)
Radio Music(1956)
Suite for Toy Piano(1948)