Menu

故入野義朗生誕100+1周年記念コンサート|齋藤俊夫

故入野義朗生誕100+1周年記念コンサート
In Memorium: the 100+1st Anniversary Concert of Yoshiro Irino

2022年11月24日 東京文化会館小ホール
2022/11/24 Tokyo Bunka Kaikan Small Hall
Reviewed by 齋藤俊夫(Toshio Saito)
Photos by Higashi Akitoshi

<曲目・演奏>        →foreign language
入野義朗:フルート、ハープ、打楽器のための『シュトレームング』(1973)
  フルート:木ノ脇道元、ハープ:木村茉莉、打楽器:宮本典子
入野義朗:アルト・サクソフォンと箏のための『協奏的二重奏曲』(1979)
  アルト・サクソフォン:大石将紀、箏:中島裕康
「曽根崎心中」のための前奏
真言宗豊山派聲明:孤嶋由昌師、孤嶋泰凡師
入野義朗:室内オペラ『曽根崎心中』(原作:近松門左衛門、演奏会形式)(1979)
  指揮:佐藤紀雄
  語り:竹沢嘉明、お初:工藤あかね
  徳兵衛:大槻孝志、九平次:小鉄和広、鬼火:入野智江
  太棹:田中悠美子、尺八:村澤寶山
  フルート:木ノ脇道元、ヴァイオリン:甲斐史子
  打楽器:宮本典子、ピアノ:田中翔一郎
  演出:野沢美香

 

〈1970年代に書かれた〉〈日本伝統音楽に想を得た西洋前衛音楽〉と接するとき、筆者は2重の距離を感じる。すなわち、〈今〉と〈作曲当時〉の時間的距離と、〈日本伝統音楽〉と〈自分に内在する音楽文化〉の文化的距離である。思えば遠くへ来たもんだ、というべきか、〈2022年〉を生きる〈筆者〉と〈1970年代当時〉を生きる〈日本人〉の音楽文化との間にある距離と隔絶が視界に入って消えることがない。日本文化というものが先験的に内在していた(と思われる)世代と、筆者のようにあえて日本文化を学ばねばそれを知ることすらできない世代との隔たりを今回感じざるを得なかった。

器楽作品『シュトレームング』『協奏的二重奏曲』の、楽器が切り詰めた所作で白刃を振るうかのような厳しい世界は確かに〈日本的〉と聴こえた。『シュトレームング』のフルートは尺八のごとく、ハープは箏、さらには三味線や大鼓にも似たり、『協奏的二重奏曲』のサクソフォンは尺八、またグリッサンドを効かせるときは追分節の歌謡のごとし。協和することなく、お互い不即不離の距離を保つ、というより、間合いをミリ単位で測り合う武道の果たし合いのような合奏。その所作を切り詰めつつ自在に運動する、戦いつつ遊ぶ、というアンチノミー的逆説もまた日本的ではなかったか。

オペラの前奏として真言聲明の妙なる美声を味わう。先の器楽作品とも、後のオペラとも異なる発声法による日本伝統音楽。〈日本〉として一括りに扱うのも危険な気もするが、筆者はこれらの日本伝統音楽を一貫する美意識があるように漠然とではあるが感じた。

そしてオペラ『曽根崎心中』、近松門左衛門による、「世話物」の始まりで、「道行」という心中のブームを生み出した浄瑠璃を原作とした室内オペラである。
ここまでで日本伝統音楽仕様にチューンナップされた筆者の耳には下座音楽的室内楽がぴったりとフィットする。特に鋭角的に飛んでくる三味線の音と、曲線を描いて空間を満たす尺八が良い……つまりは日本伝統楽器は、日本伝統音楽に想を得た西洋前衛音楽に合うという当たり前の事なのかもしれないが……とにかく、室内アンサンブルによる激しく踊り狂うような楽想も、幽玄で神秘的な楽想も、組織化された音と芝居の物語性が完璧に合致している。
いや、音楽と物語性とが合致している、というより、筆者には音楽がないと場面の状況が理解できず、物語の流れもわからなかった、と言うべきかもしれない。
ここで粗筋を記すと、第1場:徳兵衛(テノール大槻孝志)が九平次(バス小鉄和広)に大金を貸したのを返すよう要求すると九平次は突っぱね、さらに九平次は暴力で徳兵衛を拉して連れ去る。第2場:遊女お初(ソプラノ工藤あかね)はやつれた徳兵衛と出会う。九平次がお初のもとを訪れ(徳兵衛は隠れる)、九平次は徳兵衛が偽の証文で自分を騙ろうとしたと言う。お初と徳兵衛は心中の覚悟をする。第3場:曽根崎の森に来た徳兵衛とお初が心中する*)
こうまとめても現代の筆者には物語として不可解な所が多々ある。特に共に心中を決意する理由がわからない。1979年の日本人には江戸時代のこの戯曲が違和感なく飲み込めたのかどうかもわからないが、ここに江戸時代と現代の筆者、作曲当時と現代の筆者の文化の時代的距離を感じざるを得ない。だがこれがオペラとして音楽と共に上演されると、細かい所はともかく大筋は把握・納得できるのだから音楽というものの底力は凄い。
それでもまだ文化の時代的距離を感じざるを得ない大きな要素がある。すなわち発声法である。〈語り〉の部分でははっきりと言葉が判明したのだが、〈歌唱〉の部分になると言葉が皆目わからない。先述の通り、音楽の力で言いたいことは何となく推量できたのだが、これはどうしたことだろうか。日本語を西洋の歌唱法で歌うと言語がわからなくなるのか、そもそも西洋の言語でも西洋の歌唱法では言語が判明できなくなるのではないか、あるいはこれも時代的距離のせい、つまり作曲当時の歌唱では日本語が判明したが、現代では判明しなくなってしまったということか。
聴きながらこのようにはてなマークが脳内を飛び交った本公演だが、最後まで聴き終わってみると、確かに1979年の西洋前衛音楽であり、かつ、日本伝統音楽としてのエッセンスを湛えている、と、曰く言い難い音楽的充実感を味わえた。〈日本〉とは何か、〈日本文化〉とは何か、と問い続けること、それが〈日本人〉たる自分に課せられた使命なのだと心得た。

*)プログラムに書かれた粗筋には「心中」の単語はなく、かわりに「自殺」という単語が使われていたことを一言付け加えておきたい。

(2022/12/15)

—————————————
<pieces & players>
1. Strömung for flute, harp, and percussion
 Flute: Dogen KINOWAKI, Harp: Mari KIMURA, Percussion: Noriko MIYAMOTO
2. Duo Concertante for alto saxophone and koto
 Saxophone: Masanori OISHI, Koto: Hiroyasu NAKAJIMA
3. Shomyo (Buddhist ritual chant) by Buzan division of Shingon sect: Prelude to Sonezaki Shinju
 Shomyo: Yusho KOJIMA, Taihan KOJIMA
4. Chamber opera “Sonezaki Shinju”
 Conductor: Norio SATO
 Storyteller: Yoshiaki TAKEZAWA, Ohatsu: Akane KUDO
 Tokubei: Takashi OTSUKI, Kuheiji: Kazuhiro KOTETSU, Onibi: Tomoe IRINO
 Futozao Shamisen: Yumiko TANAKA, Shakuhachi: Hozan MURASAWA
 Flute: Dogen KINOWAKI, Violin: Fumiko KAI
 Percussion: NorikoS MIYAMOTO, Piano: Shoichiro TANAKA
 Director: Mika NOZAWA