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BBC Proms JAPAN 2022|小島広之

BBC Proms JAPAN 2022 Prom5 爽やかな北欧の風と21世紀音楽の夕べ
BBC Proms JAPAN 2022 Prom5 

2022年11月5日 Bunkamuraオーチャードホール
2022/11/5 Bunkamura Orchard Hall
Reviewed by 小島広之(Hiroyuki Kojima)

<演奏>        →foreign language
指揮:ダリア・スタセフスカ
ピアノ:小菅優(*)
BBC交響楽団

<曲目>
小出稚子 揺籠と糸引雨
グリーグ ピアノ協奏曲(*)
シベリウス 交響曲第1番

筆者は、現代日本の作曲家である小出稚子(こいで・のりこ、b. 1982)の新作《揺籠と糸引雨》に注目してこの演奏会に赴いた。この演奏会評では、音楽による描写という論点からこの作品の魅力に迫りたい。

タイトルを見てすぐに、同じく「雨」の作品である彼女の旧作《南の雨に耽る》(2018)を思い出した。英日による詩の朗読とオーケストラを鋳合わせたような音響によって独特な世界観を表現する作品だ。インドネシアでの経験がそこには反映していると小出は言う。とはいえ、ガムランなどが引用されているわけではない。ネズミや鳥の死体が路傍に放置され、高温多湿の土に還っていくような、生と死が境界なしに充満する曖昧さに満ちた世界観。《南の雨に耽る》でも《揺籠と糸引雨》でも、そのような世界観が描出されている。

今日、音楽による描写は忌避される傾向にあると言ってよいだろう。作曲家に対して「あなたの作品は描写的ですね」とはなかなか言い難い。しかし《揺籠と糸引雨》は教えてくれた。描写によって音を対象と結びつけるという行為が、作曲家の想像力と聴き手の感性を巡り合わせる可能性を持つことを。

もっとも、ある音を楽器で再現する最も単純な描写が、素晴らしい作品の要となることは稀だと言ってよい。なるほど、たしかにその楽器法は巧みである。《揺籠と糸引雨》の冒頭でも、短い棒状の物体による特殊なコル・レーニョによって雨音が模写されたように見えた。効果的な音響を簡明な楽器法によって生み出す発想力と知識には舌を巻く。しかしあくまで《揺籠と糸引雨》の真価は、そのような具象的な「雨」描写とは異なる、音なきものの音化、音を発しないものの描写にあるのだ。

音を持たない対象を一度解体した上で音楽へと編み直す抽象的描写。例えば社会的な事象に音楽的に取り組む際、作曲家は社会的事象から感じ取られる茫漠とした印象をまとめ上げ、それを音楽的表現に適した形に鋳直す。このような場合に、対象は音楽の対象として再び定位される。音から音への同一次元上の翻訳である具象的描写とは異なる、次元を跨ぐような抽象的描写。この越境に作曲の妙趣が満ちる。忠実なだけにとどまらないものの、あくまで描写対象との接点を確保するという絶妙な塩梅。音楽と描写対象の不即不離の関係性に、作曲家の想像力が発露する余白があるのだ。

《南の雨に耽る》の冒頭で聞こえるのは、インドネシアで収録されたと思われる雨音、そして女性による詩の朗読である。この二つの要素が「南の雨」の中を歩む詩人の存在を連想させる。フィールドレコーディングがオーケストラの基盤として断続的に導入されるために、この詩人を取り囲むあらゆる音がインドネシア的なものに聴こえる。オーケストラの音は写実的ではないが、現実の音のまわりを装飾するように遊動するために、拡張されたインドネシア的世界を表象する。写実性に固執せずとも対象と結びつく音。「描写」という制限的に見える営みは、ここではむしろ自由に行われる。聴き手は、詩人の存在を媒介物として、小出がインドネシアで感じた生と死のグラデーションの中に没入することができる。そこには実際に体験された対象に特有の手触りがある。

では《揺籠と糸引雨》の場合はどうか。雨という具象的描写物は、録音によって導入されるのではなく、特殊なコル・レーニョによって模写される。さらに雨音は常に存在するわけではなく、時間の枠組みに嵌め込まれる。それゆえオーケストラと絡み合い続ける《南の雨に耽る》の雨とは異なり、《揺籠と糸引雨》の雨はオーケストラと隣り合うことになる。ふつう隣り合いは分離を前提とするが、ここでの分離はよそよそしいものではなく、むしろ分離があるからこそ接点が際立つ。この親密な分離面を緒に、万物が輪郭を失いグラデーションのうちに回収される世界観が描写される。具象的雨音の隣に設置された弦楽器と微分音的なオーボエは、雨に特有の湿度や輝きを保つように息の長い音を作り、インドネシアの印象を紡ぎ続ける。そうして具象的世界と抽象的世界の境界が曖昧になる横方向の流れが形成される一方で、縦の方向に目を向けると、硬い音色のオーボエが鷹揚な弦楽器から時に遊離し、時に埋没する。多方向で溶解と結晶化が同時に起こるような時間体験。それが小出の想像力が描き出すインドネシア的な世界観だ。最終的には、全ての音が写実的な雨に収束し、無方向的に(つまり方向を規定する基点を失いながら)フェードアウトする。具象的描写対象が存在しないからこそ可能であった、「描く」という営みに対する自由で知的な種々のアプローチ。その結果生まれる《揺籠と糸引雨》の音響は、それでいて、一般的に知的だと目されがちな具体的でないものや本質的なものの表現を志向する現代音楽がルーティン的に提示する音のカオスとは異なり穏健で、小出にインスピレーションを与えた世界観と同様に万人を受け入れる。描写を嫌うタイプの現代音楽が、結局のところ「本質的表現」を達成するどころか、手垢が滲んだ主観的であるだけの表現に落ち着いてしまうことがある。そのような作品をいくら聴いても作曲家の手癖に詳しくなるだけであり、それを聴いて喜ぶのは作曲家の家族、あるいはせいぜい数人の友人ぐらいのものだろう。一方、《揺籠と糸引雨》は聴き手と世界の交点となるための仕掛けを備えていた。抽象的描写が成功したために、音が現実世界と確かに接続しているからだ。その音は、具象的描写音楽のように対象の物理的特性に束縛されるのではなく、むしろ作曲家のファンタジーの織物としての魅力を持っている。そういった抽象的描写音楽の美点を堪能させる作品が《揺籠と糸引雨》である。

一方で《揺籠と糸引雨》があまりにも丁寧にまとまった作品であったために、十分な満足感が得られなかったことも事実だ。インドネシア的世界観を見事に描き出したにもかかわらず、それを楽しむ時間的な余裕を与えなかった。BBC Radio 3による委嘱作品として制作されたため、制約も多かったのだろう。わずか10分足らずの作品であった。それゆえに、もし小出が長い時間をかけてあの世界観を描写したならどれほど素晴らしいだろう、あるいは、音響的に制約された室内楽編成による同様の趣旨を持った作品なども面白そうだ、といった期待がむしろ高まった。《揺籠と糸引雨》は《南の雨に耽る》の後続作品であるが、加えて、将来のさらに魅力的な音表現に連なることを予感させた。

この演奏会は、100年以上続くイングランドの夏を彩る音楽祭BBC Promsの来日公演として催された。本国イングランドにおける音楽祭最終夜の様子はこれまでも日本のTVで見ることができたが、この日は2019年に次ぐ二度目の来日公演であった。前回来日時の第5夜(Prom5)では、「日本を代表する次世代のソリスト達」と題して、チェリストの宮田大とヴァイオリニストの三浦文彰に光が当てられた。それに対して今年の第5夜は、「爽やかな北欧の風と21世紀音楽の夕べ」として、小出稚子という作曲家に光が当てられた(なお第1夜では、イギリスでもお馴染みの作曲家藤倉大の《Glorious Clouds》(2018)が演奏された)。《揺籠と糸引雨》と並んで演奏された「爽やかな北欧の風」とは、グリーグの《ピアノ協奏曲》(ソリスト小菅優)とシベリウスの《交響曲第1番》であった。指揮者のダリア・スタセフスカは、シベリウスのひ孫でありヘヴィメタルバンドのベーシストでもある夫を連れて来日したようだ。偶然にも筆者の前に座っていたのだが、まるで先祖の音楽に共鳴するように小さく肩を揺らしながら聴いており、印象的だった。

                          (2022/12/15)


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<Players>
Conductor: Dalia Stasevska
Piano: Yu Kosuge (*)
The BBC Symphony Orchestra
<Program>
Noriko Koide: Swaddling Silks and Gossamer Rain
Edvard Grieg: Piano Concerto in A Minor, Op.16
Jean Sibelius: Symphony No.1 in E Minor, Op. 39

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略歴
小島広之(Hiroyuki Kojima)
Twitter:https://twitter.com/kojimah note: https://note.com/kojimahi/
音楽学者として1920年ごろの作曲論について研究している。主たる研究対象は音楽批評家パウル・ベッカーとその周辺の作曲家ブゾーニ、ヒンデミット、クレネクら。主な論文に「パウル・ベッカーの客観主義的な音楽美学」『音楽学』第67巻第2号。音楽批評家として主に現代音楽を対象に論じている。第9回柴田南雄音楽評論賞奨励賞受賞。さらに、現代音楽の作曲家に取材するウェブメディア「スタイル&アイデア:作曲考」を運営している(https://styleandidea.com)。