東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団第354回定期演奏会|齋藤俊夫
東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団第354回定期演奏会
Tokyo City Philharmonic Orchestra 354th Subscription Concert
2022年9月2日 東京オペラシティコンサートホール
2022/9/2 Tokyo Opera City Concert Hall
Reviewed by 齋藤俊夫(Toshio Saito)
Photos by (c)金子 力/写真提供:東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団
<演奏> →foreign language
指揮:高関健
ヴァイオリン:竹澤恭子(*)
東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団
<曲目>
エルガー:ヴァイオリン協奏曲 ロ短調 作品61(*)
(ソリスト・アンコール)エルガー:『愛の挨拶』(*)
シベリウス:交響曲第4番 イ短調 作品63
「作曲する」という英語は”compose”であり、これは”com”=共に、”pose”=置くの意を合わせての「組み合わせる」という意味が原義だと言う。「そうか、作曲とは組み合わせることなのか」と納得させられてしまうようで、考えてみると音楽における「組み合わせること」とはどういうことなのかよくわからない。
ざっくりとではあるが分析してみるに、様々な楽器音の同時的「組み合わせ」たる管弦楽法(オーケストレーション)と様々な音構成の経時的かつ同時的「組み合わせ」たる和声法(ハーモニー)は確かに音楽における組み合わせの芸であるなと思われる。だが音楽の構成要素たる旋律(メロディ)とリズムは果たして「組み合わせ」であろうか? ここで、西洋音楽史上に名高い「ブフォン論争」における「和声」と「旋律」の優劣論争を、前者が「音楽における組み合わせ」、後者が「音楽における組み合わせでないもの」と読み換えるとそれなりに納得して音楽を分類することができそうである。
しかし、今回の高関健・東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団のエルガーとシベリウスの2曲はこの「組み合わせ」「組み合わせでないもの」という2項対立を揺さぶってなお響く音楽であった。
エルガーのヴァイオリン協奏曲、第1楽章が少し控えめに始まって、すぐにオーケストラの作る音の力場が膨らみ、しぼみ、膨らみ、しぼみ、と脈動を打ち、この時点で聴いていてワクワクと胸高鳴る。やがてソリスト竹澤のヴァイオリンが奏でられるが、その哀愁漂う調べは光り輝くのではなく、夕焼けの空の色の美しさ。こう言っては難があるかもしれないが、年上の女性の色気を筆者は感じた。これらオーケストラとソリストが波のように代わるがわる押し寄せるその音楽は自由自在に歌いつつ和声的に完璧だ、と筆者には思われ、楽章最後の見得を切るような楽想までじっくりと聴き入った。
第2楽章、なんと美しくたおやかで優しい音楽であることよ。ヴァイオリンソロは前楽章とは打って変わって少年のような若々しさとあどけなさと純朴さを湛えて会場の聴衆皆を抱きかかえる。田園風(パストラーレ)な音楽、こういうのは筆者が好んで聴く現代音楽には存在しない風味だなあ、と考えながら聴くのは極上の体験。
第3楽章はこれまた前楽章と変わって、西洋文明の合理精神が生んだオーケストラという合奏システムならではの、都会的な、機械的、金属的な音楽。剃刀一枚の隙間もない構造的音楽と呼べるだろう。つまり完璧に「組み合わせ」で作られた音楽、と言える、と、思わせておいて、ヴァイオリンの華やかなる激しい超絶技巧や、力強く妖艶だが悲しいカデンツァに宿る「組み合わせでない」詩心もまたこの音楽の真実である。この「組み合わせ」で作られたようで「組み合わせでない」ものをも内包するエルガーの大作を前にして、それらの二項対立は意義を失う。これだから音楽は面白く、人間の心を響かせるのだろう。
西洋芸術音楽が「組み合わせ」られたものである由縁が、固定化された楽譜というモノによる、と見なすことはかなりの程度妥当だろう。だが、その組み合わせを固定化した楽譜に従いつつも、楽譜の通念を超えることができる指揮者・高関健の本領が発揮されたのが今回のシベリウス交響曲第4番である。
シベリウスの交響曲第4番前半、増4度(3全音)を含んだ主モチーフが拡大、展開され、無調になるスレスレまでいった極めて複雑な、こう言ってよければ、奇怪な音楽だと思っていたのに、高関の采配にかかってこれまで聴いたことのないほど透明な響きで立ち現れたこの驚きをなんとしようか。通常の本作ならば、苦しみや悲しみといった人間的なものを表出するはずなのに、結晶的に美しい高関のシベリウスは人間性から遠く高いところにある。
この驚きは第2楽章でも続いた。断片的な楽想がパッチワークのように切り貼りされている、と思ったのに全てが滑らかな1つのメロディを描いている。最後に短調らしきモチーフが現れて急にディミヌエンドして消えゆくところも不気味さは皆無。
さらに第3楽章。やはり人間的・悲劇的ではなくて、もっと高いところにある客観的構築物。筆者の先入観ではシベリウスとはもっと「組み合わせではない」、人の声で歌うメロディ主体の作曲家だったのだが、今回出会ったシベリウスは人ならざるものによって「組み合わされた」構築的作曲家。荘重な合奏に心震わされた。
第4楽章、まだ天上的に透き通っている。上行音型が其処此処で奏でられてもそれらが体温を上昇させることはない。さらに長い音高上行にクレシェンドが合わさった楽想の後、謎めいた楽想が閃き、そして突如弦楽器が悲劇的に変貌し、一瞬で奈落へ突き落とされる。ずっと透明無垢だったのに突然のこの結末はあまりに酷。しかして美しい。なんだ、この音楽は!? 楽譜に記された通りのシベリウスの交響曲第4番である。だが、「組み合わされた」通りに演奏してもなお「組み合わされた」ものを超えたシベリウス、なんという音楽体験であったことか。
頭で考えただけの二項対立など軽々と踏み越える音楽と人間の限りない力を改めて知らしめられた。まだまだ我々は前に進むことができる、との確信を新たにした。
(2022/10/15)
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<players>
Conductor : Ken Takaseki
Violin: Kyoko Takezawa(*)
Tokyo City Philharmonic Orchestra
<pieces>
E.Elger: Violin Concerto in B minor, Op.61
(soloist encore) E.Elger: Salut d’amour (*)
J.Sibelius: Symphony No.4 in A minor, Op.63