NHK交響楽団 第1955回 定期公演 池袋Cプログラム|秋元陽平
NHK交響楽団 第1955回 定期公演 池袋Cプログラム
NHK Symphony Orchestra No. 1955 Subscription (Ikebukuro Program C)
2022年4月15日 東京芸術劇場 コンサートホール
2022/4/15 Tokyo Metropolitan Theatre Concert Hall
Reviewed by 秋元陽平(Yohei Akimoto)
写真提供:NHK交響楽団
<演奏> →Foreign Languages
NHK交響楽団
指揮:クリストフ・エッシェンバッハ
<曲目>
マーラー:交響曲第5番
1人称視点のマーラーだ、まずそう思った。ひとりの作曲家がつくった作品を辿るのだから、1人称であるのは当たり前だという向きもあるかもしれないが、マーラーに関してはどこかそう言い切れないところがある。それは複数の視点のパッチワークでもある。感情の裂け目が縫合を経ることなくそのまま提示されているからだ。それはたしかにひとりの人間の語りなのだが、複数時点の複数自己が入り乱れた構築的な語りであって、それこそ世紀末ウィーンふうに言えば、俯瞰的に眺めないと見えない無意識の構造が、分析家=指揮者に見出されるのを待っている。だが、エッシェンバッハは、それをひとりの統一された意識をもった人間の、濃厚な歌のつらなりとして抱き留める。その結果いたるところで時系列の断絶や、視界不明瞭な領域があるのだが、それに出くわしても、すこし息を継いで、歌い歩んでいくだけである。美しい細部がいくつも発見される一方、第一楽章、第二楽章、不気味なまでに重ねられた音のレイヤーや、異常な客観音の侵入(そもそも冒頭の喇叭からしてそうだ)の意味は、この視点からは解明されない。それはある意味ではシューベルトと同じ地平からきた音楽であって、なぜマーラーがこれほど巨大な交響曲を書いたのかということは、むしろ謎として残されていくような思いがあった。N響の演奏は、マエストロへの敬意を存分に感じさせる力の入りようで、金管の分厚い響きも頼もしく、一瞬一瞬を切り取っても見事な絵になるようだ。他方、指揮者が通時的な全体像を提示してくれないという思いも、なくはなかった。
ところが、第三楽章まで来て、驚きがあった。下手をすると、皆が首を長くして待っている第四楽章の「前座」とか、(それにしては長すぎる)幕間劇とかいった扱いを受けかねないこの楽章は、通常そのグロテスクでコケティッシュな性格からいっても、マーラー自身の「不自然な」という指定からいっても、ひとまず三人称の音楽としてつくりこまれているのだが、エッシェンバッハはここでこそ、仮面劇に仮面なしで入っていくような率直な怪演、つまり、率直「であることによって」怪演をみせた。ひきつった道化の笑いのなかに異様に真剣なまなざしを見出すような、ほとんどアダージェットより美しい瞬間がいくつもあった。ワルツはまるで歌曲の絢爛たる伴奏のようだ———わたしはエッシェンバッハに特別な思い出がある。10代でパリにはじめての一人旅を敢行したとき、彼が指揮するパリ管で、今は亡きサル・プレイエルにて、ベルリオーズの『夏の夜』を聴いて、これほどまでに音の粒度が細かいことがありうるのかと慄然とした。それをこの第三楽章で思い出すことになるとは、意外な再会の感だ。アダージェット、最終楽章もまた、俯瞰的に描き出すというよりは、いわば、一人称視点で、森を手でかきわけて進むからこそ滲み出る濃厚さだ。そのなかにこそ、エッシェンバッハ一流の歌が聞こえるということか。
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<Performers>
NHK Symphony Orchestra
Conductor: Christoph Eschenbach
<Program>
Mahler : Symphony No.5